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 これはどうしたことだろうか、と、アルテメネは思う。
 もうだめだと、何も出来ないと思ったのに、どういうわけか自分はかすり傷一つ負わずにこうしてここにいる。辺りを見渡してみればアレほどの瓦礫の山がどこにも見当たらず、あるのは再び、真の闇。そして、微かに感じる人の気配。
「……誰?」
 どこにいるのかもわからない相手に、そっと問いかける。どこまであるのかもわからない暗闇の中で、一人座り込んでいるのは正直なところすこし心細くて、どこか神経質に思えるほどに辺りを見回すアルテメネ。と、その頭にそっと、誰かの手が触れた。
「大丈夫」
 聞こえたのは、幼い少年のそれにも思える少女の声。きっと、歳の程もアルテメネとそう違わないのだろう。そんな相手に宥められていると思うと不意に気恥ずかしくなって、自分が情けなくて、咄嗟にその手を払いのけた。
「……素直じゃないのはよくないよ。まあ、虐め甲斐はあるけどさ」
 と、なにやら不穏なことを付け加えながらも返されるその声に怒りの色は感じられない。
 そして、それは起こった。
 どうして助けてくれたのか。そも、今すぐそばにいるこの話し相手は誰なのか。浮かんでくる疑問符を口にしようとアルテメネが口を開きかけたのと同時。暗闇の天井に十字の亀裂が入ったかと思うと、音もなく闇は裂かれ、普段はどうとも思わない、しかし今だけはやけに明るく思える光が差し込んできた。
「……様ぁないね。仮にも一管理者でありながら、さ」
 と。空を見上げていたアルテメネのすぐそばであざ笑うかのような少女の声。言っていることの意味はいまいち解せないが、だれかがいるということを改めて実感して、視線を正面に戻す。
 そこにいたのは、赤いマントを身に纏った少女。短い茶髪は彼女が笑って肩を揺らすたびに小気味よく騒ぎ、日に焼けた細い腕は、ほかでもなくアルテメネを護るように広げられている。そして、彼女の見上げる先に……
「あ」
 男がいた。正確には、二人いた。一人は先ほどの蒼いマントの男。アルテメネの力をすべて無に帰した憎い男。しかし、今はそれはどうでもいい。それよりも、その男が跪く先に……
「あ、貴方、どうして!」
 いた。崩した黒いスーツにまっすぐな黒髪、白い肌。路地沿いに座り込み、一時ばかりではあったがアルテメネの客となり、そして何より誇ってきた銀髪を無下にして去って行った男。しかし、なぜ彼がここにいるのか。なぜ、ポルセイオスと名乗った男が、この世界を統べる者とまで豪語した男があの男に跪いているのか。あの男は、何者なのか。
「それで、今日は何の御用で?」
 ポルセイオスが朋から目を離して尋ねる。その声がアルテメネには聞こえない。当然のこと。聞かせる必要がないならば聞かせようとしなくてもよい。普通の声量で話していれば、二人の男が立っている位置と、アルテメネが座り込んでいる位置とは話し声を聞き取るにはあまりにも離れている。
「何の?わかってるんだろ?とっくに」
 対する智も、アルテメネの声を無視してポルセイオスに答える。その一言にフードの下でポルセイオスの目がまたも細められたのを知ってであろうか。智は片頬をつり上げて笑って見せると、振り返ることなく言った。
「朋」
「何?」
「……行け」
 たった三言。今度はその場にいる四人全てに聞こえるように言った。そして、直後。
「……!」
 アルテメネが言葉をなくした。
 目の前にいた、朋と呼ばれた少女の身体が変容していく。四肢は最初の倍以上の長さに、身体もそれ相応の大きさに。体表には滑らかな茶色い毛が生え、その姿はまるで巨大な四足獣。力強く、美しく。恐れ、畏れて硬直しかけたアルテメネの方にその犬とも猫とも突かぬ獣の顔が振り向き、巨大な翠色の瞳で見つめたかと思うと、思わず後ずさったアルテメネの身体を口に咥えて、その獣は走り出した。
「……〜っ!」
 悲鳴など、出るものではない。首筋には、暖かい獣の鼻息。腕をすこし動かせばずらりと並ぶ牙の一つに手が触れる。しかも、その獣がまっすぐに向かう先にあるのは、この閉鎖された空間を閉ざす、あまりに高い建物の壁。
 ぶつかる、と思ってアルテメネが目を閉じる。直後、訪れる跳躍の感と、あまりに重い着地の感。その獣は、巨大な鉤爪をつきたてて、完全に垂直なコンクリートの壁にしがみつき、まるで速度を落とさずに奔り続けていた。
「ちっ……!」
 恐怖に目を見開いているアルテメネのことなどどうでもいい。ただ、逃がすまいとポルセイオスが左腕を獣と化した朋の方へ。その手には一秒足らずで創造したリボルバー。しかし
「おいおい、そりゃない話だろ?」
 首筋に突きつけられた刃の感触に、動けない。
「どういう……おつもりで?」
「なに、ただの気まぐれだよ」
 言って笑いに歪む智の顔。同時、巨大な獣が建物の屋根を蹴り、くすんだ街の空へと跳躍した。