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「失礼しました」
 その声は、まるで機械かなにかのよう。あくまで形だけ、まるで気の無い声と共に頭を下げるアルテメネの目の前で、重い扉は閉められた。何度も見たことはあって、しかし今までただの一度も開けたことは無かった扉。半奴隷、その日雇った貧民達を入れるための裏口ではなく、工場本来の正面入り口。奥にいるのは、あの、オーナー。
 ここも駄目か。
 なんとなく歩き出してから今まで、もう十件近く、似たような手合いのところを回ってみた。どうせなら、一つのところに囲われてしまったほうがなにかと楽だろうと想って。なのに、答えは皆、否。
 別に、それほど深く落ち込んでいるわけではない。ただ、一つ目論見が失敗に終わったという事実を受け止める。
 正直、馬鹿にするなといいたい。昨日まではあれほどしつこく言い寄ってきていたのに、いざこちらから出向いてやれば皆声をそろえて「駄目だ」だの、「お断り」だの。じゃあ、昨日までのお前たちは何だ?一体何が気に食わない。従順すぎる?ふざけるな。
 そうやって、内心に侮蔑の言葉を並べてみても、やはりそこに真なる憤りは伴わない。ただ、言葉だけが浮かんでいて、感情だけがどこか深いところにおいていかれてしまったような、そんな感覚。
 さあ、次はどうしよう。
 どこかに囲われてしまうのが駄目だったとあれば、あとは自分で適当に客を見繕って稼ぐしかない。幸い今はそれほど空腹というわけではないにしても、昨日の今日で金目のものも特に無い。まずは手始めに、というのも悪くないかも……、と、
「わ……っ!」
 思った矢先。なにかにつまずいて転びかけた。反射でなんとか踏みとどまって、何の気なしにその躓いたものの方へ目を流す。
 それは、人の脚だった。投げ出された足。たどっていけば、壁にもたれかかって座っている長身の男。格好は、どこにでもいそうな貧民のものではなく、肩の張った黒い羽織物に同じようなズボン。白いシャツ。知っている。多少崩れてはいるものの、これは貴族の男が簡素な集まりのときに着るスーツとかいうやつだ。こうしてあちこち崩しているのを見ると、これもこれでまた別な趣がある、と思う。もっとも、どの道この辺りの道端に座り込むような格好ではないのだけど。
「……邪魔よ」
 で、その格好とのギャップがあまりに印象的で、思わず声をかけてしまった。
「ああ、失礼」
そう答えて、こちらを見上げる顔。色白の肌、どちらかといえば釣りあがった目、男にしては若干長め、肩のあたりまでのびた黒髪。おおよそ、この街の人間の顔ではない。貴族街でうろついていたほうがよっぽど似合うというものだ。
 そこまで考えて、ふと思う。なんで自分はこんなのにいちいち声をかけているのだ、と。別にどこでだれがなにをどうしていようと知ったことではないというのに。馬鹿らしい。
 ……でも。
 ふと、考え直す。こんな格好でここにいるということは何かわけあり。直接的な金品は期待できなくとも、巧くしてやればこの服ぐらいはなんとか奪い取れるかもしれない。それだけでも、まあそれなりの金にはなるだろう。
「ねえ、あなた」
 まるでアルテメネが口を開くのを待っていたかのように、何も言わずにただ彼女を見上げていた男、丁度彼女の腰の辺りにある顔を見下ろして、言う。
「私を、抱かない?」
 べっとりと重かったはずの髪が、さらりと風に揺れた。