新月の夜。
 背の高い、石造りの住居が左右にそびえる狭い道。
 ゴツゴツと角ばった石畳が目立つ小路に一人の少女が立っていた。
 深く、底見えぬ闇を思わせる紫。限りなく漆黒に近くありながらしかし黒ではない紫のマントを身にまとい、僅かに裾からのぞく足元には茶色い革のブーツ。
 髪は短く、細い指の先の爪は飾り気もなく。ともすれば少年とも見える彼女であったが、よく見ればわずかばかりの胸がその存在を遠慮気味に主張していた。
「相変わらずしみったれた面してんなあ、おい!」
 突然。彼女の後ろから、静かな夜にはあまりに場違いな、威勢の良い声がかけられる。
 波打つようなその独特な声は耳につき、口には出さなかったが実は少女はこの声が嫌いだった。
「少し声が高いですよ、ロベリオ」
「いいじゃねえか、騒げる時くらい騒いだって」
 諭す少女の声など気にもせず、夜闇にその体を躍らせて屋根の上から飛び降りてくる男から目をそらして、彼女は小さくため息をついた。
「で?  あんたは久々のお散歩かい? リーラ」
 足元で砕けた石畳を蹴り飛ばして訪ねる。
 少女は無言のままに彼に背を向ける。
 ゆっくりと歩き出した彼女を男はその場で立ち尽くしたままに見つめている。
「ロベリオ」
 不意に少女がつぶやくように言う。
 呼ばれた男は何も言わず、ただその場から大またに一歩だけ、彼女の方に近づいた。
「久しぶりに来たのですから、私の家にでも寄って行きますか」
「壁紙は、どうなってる?」
「ご心配なく」
 意味深げに尋ねる男の声に、肩をすくめて答える。
 どこかでなく虫の声が響いた。
「この間張り替えたところで、しかも幸いなことにまだ一度も乱暴な客は来ていません。今なら、壁はまだ白いですよ」
「それじゃ、お邪魔しますかねえ!」
 一瞬。
 夜風が走り抜けた後にはもう、二人の姿は消えていた。

「何の用かは聞かないのか?」
 白い壁紙、赤茶色の絨毯。上品な革のソファーに身を沈めたロベリオは、ティーセットを手に取るリーラに話しかける。
「聞きませんよ。聞けば、私は嘘つきになる」
 静かに言った彼女はポットに湯を注ぎ、ロベリオの前に空の、白く、一輪の赤薔薇が描かれたカップを置いて、歌うように続けた。
「私が何かの用だろうと思ったとき、大抵あなたの来訪の理由は『気まぐれ』だ。逆にただの気まぐれだろうと思ったときに限ってあなたは何か大きな話を手に現れる。さっき、私は『どうせただの気まぐれだろう』と思ったからあなたの手には何か大きな話が握られているのだろうけど、私は『気まぐれだ』と思っているのだからあなたにその話の中身を問いただせばそれは興味のないことに興味をしめしたふりをしたことになる。そういう嘘が、私は嫌いです」
「そうかい」
 彼女独特の理屈っぽさ。ともすればからかっているようにも聞こえるそれがロベリオは苦手だ。それでも最後まで聴くのは彼女への誠意。厳しい世界において、決して彼女を裏切らないという意思表示。
 リーラは木の戸棚から取り出した陶器の器の蓋を取り、クッキーの香りに目を細める。そのしぐさは紛れもなく少女のもので、暖炉の暖かさからかほんのりと朱に染まる彼女の頬をロベリオはなんとなく眺めていた。
「で、今回の話なんだが」
 話の切り出しは突然に。それがロベリオの話し方。そのほうが相手の注意を引く事ができるので、彼はその内容が大切であればあるほどこういう話のしかたをとった。
「ウェンツレイドの魔具庫、知ってるな?」
「当然です。たしか二ヶ月と十二日前まではあなたが管理していたものと記憶していますが?」
 魔具とは、世界の中枢に働きかけ、少なからず世界を変革する力を有する道具のこと。異端者たるリーラやロベリオの力にこそ劣るが、異端者が己が力をより強化するため、あるいはその存在を知った一般市民が欲望を満たすために手に取るものだ。
 石とレンガからなるこの街の北端。見下ろすようにそびえる山の内部にその魔具庫はあった。時に使用の必要に迫られた時のため、普段は人の目から隠すため、リーラとロベリオを含めた数名の異端者が、各地で集めた魔具を保管するために共同で作り出した巨大な空間。山の内部に新たな世界を。空間を切り開き、山自体には一切の傷をつけることなく作られたその空間こそがウェンツレイドの魔具庫だった。
「その魔具庫だが、つい二日前に盗みが入った。犯人は不明。目的も不明。フォルトスの馬鹿曰く、盗られた物の特定にはもう少しかかる」
 主に『馬鹿』の部分を強調して言う。
 リーラは彼の怒りを抑えるように、きわめて静かな口調で言った。
「確かに万が一の時にすぐに状況診断ができる用意をしておかなかったフォルトスにも非はある。ですがそれでも彼は、前任者たるあなたよりはいくらも精力的に仕事にあたっていますよ」
「態度なんかどうでもいいだろうが。問題はどういう結果を残すか、だ」
 まだいらついた、しかし先程よりはおちついた声で言うロベリオ。
 そんな彼にため息で答え、リーラがポットから紅茶を注ごうとしたそのとき。やたら大きい、鐘の音が部屋に響いた。
「来客ですか」
 仕方ない、といった風で立ち上がる彼女に彼も無言でついていく。その行為に他意はない。ただ、独り広い部屋に取り残されるのが退屈だっただけ。
「どちら様で?」
 背後に立つロベリオに何も言わず、扉越しにリーラが尋ねる。
 返ってきたのは、扉を貫き、僅かに彼女の顔を外れてとまる剣の切先。
 あまりに物騒な返事だった。
 切先はまだかすかに震え、澄み切った空気に張り詰めた金属音がこだまする。
 その、冷たい刃を頬に感じてなお、リーラは落ち着き払って立っていた。
「もう一度聞きましょう。どちらさまで?」
 その声は、彼女の表情に負けず劣らず穏やかで。しかし扉の外の相手は毒気を抜かれた様子も無く、ひしひしと伝わる殺気はそのままに答えた。
「名乗る名は無し。ただ、ここに住まう魔の者を討ちに」
 太い声。同時にすっと引き戻される銀の刃。
「すみません」
 リーラは前を向いたまま、扉の向こうではなく背後のロベリオに言った。
「どうやら、壁が白くあるのはここまでのようです」
 返す言葉は要らない。
 うなずく代わりに彼女の脇を抜き、扉を蹴破るロベリオの右足。
 同時。
 倒れた鉄の鋲の打たれた木の扉を交わした男は、諸手に握った剣を一息に、前方へ突き出した。
「相変わらず物騒だな、おい!」
 迎え撃つはロベリオ。刃の先にいたリーラは一瞬で身をかがめてそれを避け、彼女の背後にいたロベリオが男と正面から対峙する。
「貴様も魔の者か……!」
 問いかけ、というよりは独り言。共に切り下ろされた刃を横に捌き、ロベリオは男の篭手の上から剣の柄を握る。
「かわいそうに。あんたも迷信にだまされた口か。銀の剣なんて、さぞ高かったろう?」
 どこかからかうような口調。男は小さな舌打ちと共に剣を横になぎ払い、ロベリオの手を払いのける。
「覚悟!」
 流れるように、続けて繰り出される斬撃。
 宙に舞った赤。
 それは他でもない、剣を握った男の血だった。
「な……」
 言いかけて頬を膨らませる男。人が嘔吐するときのその顔を前に一瞬だけ眉をひそめたロベリオは、何のためらいもなくその顎を打ち上げた。
「人の目の前で血を吐くな」
 ごぷりと、自らの吐血をその身に受ける男に言い放つ。
 既に顔を、服を、その身を己の血に濡らした男には聞こえてもいないのだろうが、ロベリオはそれを気にする様子もなく。男の血にぬれた、いまだ貫手の型を取ったままでいる右手をしばらく眺めると、その汚れを汚れきった自分の服の裾でふき取った。
 現れたそれは、その外見は、とても人の肌ではなかった。
 ふき取りきれない血に汚れてなお黒光りするその表面。それは言うならば大きく、歪な形をした鏃。
 鋭利に尖った手の輪郭、爪の先。より凶悪なものとなるように、微妙に形を変えた指。
 ロベリオが腕を一振りするとそれはまるで今までの姿が夢か、幻であったかのように急激にもとの姿に戻り。それを確認するとロベリオはリーラの方へ顔を向けた。
「しかしまさかあんたを殺すのに剣一振りだけで現れるとは。すこしくらい警告しておいたほうがいいんじゃないのか?」
「鎧があったところで、それが並みの物であるかぎりは意味を成さないでしょう」
 静かに言う彼女に「まーな」といってからからと笑う。
 耳障りでもあるその声にリーラは目を閉じ、軽く首を振りながらため息をつく。
 「うるさい」とは思っても口にはしない。理由はない。それがロベリオであるなら、受け入れるのがリーラのやり方。
「う……」
 その時。
 かすかに聞こえた、怯えに満ちたうめき声に、リーラの声が壊れた扉の外に向けられた。
 そこにいたのは、ただ一人の少年。
 13か4……くらいか。
 つられて視線を流したロベリオがほとんど一瞬でそう判断する。
 短く、茶色い髪を夜風に揺らし、しりもちをついた彼は手の力だけで少しずつ後ずさる。口から漏れる声は恐怖からか、酷く震えていて、もはや言葉としての意味を成してすらいない。
「……」
 かける言葉は、要らない。
 やることは一つ。他念は無用。
 そこにはわずかばかりの躊躇いすらなく、ロベリオは静かに一歩、怯える少年の方に踏み出した。
「ひっ……」
 再び硬質化したロベリオの手に気づいたのか、少年が情けない声をあげて動きを止める。両掌を、両足を、磔にされたかのように、もはや彼の体は微動だにせず。ただ怯えきった黒い瞳が宙をさまよいながらロベリオを見る。
「……」
 しばしの空白。
 静かに体にひきつけられたロベリオの右手は、静かにもとの位置に戻された。
 いまやロベリオと少年は直接向かい合っておらず、彼の目の前にはいつの間にか割って入ったリーラがいた。
「待ってもらえますか」
 彼女とて、もはやロベリオにその気がないことなどわかっているはず。それでも静かに確かめてくる彼女に無言で肯定の意を伝えると、その場に座り込んで少年の顔をのぞきこむリーラをよそに、彼は壁に寄りかかった。
「あなたは、どうしてここに来たの?」
 普段はコートの下に隠れて見えない、滑らかな布地のダークグリーンのズボン。そのひざを抱えて、尋ねる彼女。
 怯えきった少年はその問いに答えることはなく。しかしリーラの穏やかな表情に気持ちは落ち着いたのだろうか、こわばった彼の肩からは目に見えて力が抜けていく。
「……ロベリオ」
 それをただただ見守っていたリーラは、突然に彼のことを呼ぶ。
 「おう」とだけ答えて背後に立つロベリオ。怯えて再び顔を強張らせる少年に「大丈夫」とつぶやくと、振り向かず、彼女はロベリオに言った。
「お客のあなたに頼むのは気がひけるのですが、先に戻ってお茶を淹れなおしておいてもらえますか? 三人分」
「……二人分?」
「三人分です」
 穏やかに、はっきりと。
 彼女がそういう言い方をしたときに、その場での問答はそれ以上の意味を成さない。
 静かでありながら頑固。
 やっぱ、苦手だ。
 胸の内で、何もいえない自分をなじりながら踵を返す。
「立ってください」
 去っていくロベリオの気配を背中に感じながら立ち上がったリーラは、いまだなお座り込んでいる少年の方に手を差し出す。
「私はリーラ。この家の主たる異端の者。あなたを、歓迎します」