其之百壱

現在……

(……柄にもなく変なこと思い出しちまったな……)
マンションの玄関にたどり着いた俺は、思わずあつくなった目がしらを押さえながらエレベーターに乗り込んだ。
夏場のエレベーターには二種類あって、冷房が効きすぎているものと、熱がこもってやりきれないものがあるが、このマンションのものは明らかに後者だ。毎年のことではあるが、夏場のエレベーターはちょっとしたサウナといっても通じるのではないか、というほどの汗をかくのが常だった。しかも、今年はどういう風の吹き回しか、三原先輩からキャプテンの座を譲り受けたせいで帰宅する時間が最も気温の高い時間帯とぶつかってしまい、もはや地獄だった。
そんな夏に突然現れ、突然姿を消したあの少女が俺の前に姿をあらわす形跡は相変わらずない。一年前、凛が俺をじらしてその正体を隠し通したクリスマスプレゼントも、俺は結局手にしていない。ただ一つ、机の下に落ちていたメモには『この一年間で撮り溜めた写真です。これをみて私を思い出して』とだけ記してあったが、肝心のその写真だけはどうしても見つける事が出来なかった。恐らくあの男達がもって行ったのだろう。どの道今の俺にはどうしようもないことだった。
「ふう……お、いい風」
ふわっと耳元を過ぎていく風につぶやきながら家の扉に鍵を差し込む。今日は家には誰もいない。父さんは会社、母さんは買い物で、大学4年生になった姉ちゃんはサークル活動のあと優さんとデートだそうだ。姉ちゃんといえば、そろそろ就職についてもいろいろかんがえはじめているのだろうが、なにぶん相変わらず親にはほとんど何も話さないので、未だにしょっちゅう親子喧嘩をしていた。俺としては優さんがあの人を導いてくれることに期待するばかりだ。
「ただいま……」
返事がないのを分かった上でつぶやくと、汗を拭きながらまっすぐ部屋に向かう。こんなふうに変に気持が沈んでいるときは昼寝が一番。寝て起きればそこには当たり前の生活が流れていて、つらいことは思い出さずに済む。
荷物もろくに片付けず、散らかった机の上に鞄を投げ出すと、俺はゆっくりベッドのほうへ脚を運ぶ。
特に何も考えずタオルケットをまくり体をもぐりこませ……ようとしたところでぴたっと静止した。
真っ先に目に飛び込んできたのは、風になびいたかのようにふわっと広がった金色の長い毛。いかにシーツが汚れているかがよくわかるほどまっさらな白いワンピースに同じように白い肌が映える。
(え……)
全ての思考が停止した。何も考えずにその長い髪を掬い上げて手ですく。その手をそのまま目の前の少女の頬にあて、きめ細かい感触を肌で感じながら首の方へ流す。
(マジでか…?)
徐々にはっきりとしてくる頭で手を動かし、彼女の前髪をそっと払う。小さく少女が何かつぶやいたが、徹は特に気にも留めなかった。
「ん……だれ……?」
ぼんやりと彼女の寝顔を見下ろしていると突然、目の前の少女がうっすらと目をあけ、徹と彼女の目があった。
「凛……なのか?」
「徹〜!」
おずおずと尋ねる徹の顔を指差しながら彼女は跳ね起きた。
「久しぶり〜!元気だった?」
「凛……」
言葉が詰まる。徹の中で何かが弾けたような気がした。
「凛!」
「え?ちょ……」
凛が戸惑うのもかまわずに肩に手を回し、思い切り抱きしめる。
「凛……凛……」
「徹……」
あふれ出す涙が止まらなかった。一度緩んだ涙腺は締まることを知らず、徹は凛に慰められながら泣き続けた。
………
…………
……
「全く……普通そんな汗だくで人に抱きつくかなあ?」
「すんませんでした〜」
徹のベッドに並んで腰掛けて、冷たい麦茶を飲みながら凛が文句を言う。
徹の汗と涙でぬれたワンピースを着替えようとしたのはいいのだが、一年前の服ではなかなか丁度いいものがなく、結局二年前同様徹の服から適当に選んで、ジーンズと大き目のTシャツを凛は着ていた。
相変わらず徹の部屋の冷房は効きすぎており、一般人には寒くも思えたであろうが、幸い凛はまだそれに耐えうる程度の免疫が残っているようだった。
「で……聞いても…いいか?」
「……どうぞ」
ふっと二人の顔が真剣になる。もはや互いに口にする必要もない。何のことを語ればいいのかは言わずとも承知していた。
「……まずはごめんなさい。あの時最後の最後まで徹に嘘ついて」
「ああ…いや。そのことはもういいんだ。実際あそこでああいわれてなかったら本当におれはお前とあそこに残ってたかもしれない」
「でも……」
「いいんだ」
まだなにか言いたげな凛に優しく言う。
「この先隠し事はしても嘘さえ言わないでくれるなら、もういいんだ」
「うん……」
俯いて自分のグラスを覗き込む凛。その口元は優しく微笑んでいた。
「それよりも、あの後のことを教えてくれないか?どうやってあそこから脱出したのかを」
「あ、うん。でもたいしたことはしてないんだよ?何でだか分からないんだけど、あの時突然システムがダウンしだしたのね。波との距離もほとんどない時だったんだけど。私も何が起こったかは分からなかったんだけど、波の動きが止まっても私はまだ動けたから、自分が動けなくなる前にできることはしてみようって気になったの。その直前まで完全に諦めてたのに」
「ふうん……」
ゆっくりと自分の麦茶を喉に通しながらつぶやく。徹はそのとき外で何が起きていたのか知っていたが、あえて何も言わなかった。
「それでためしに一番手近な扉を引いたら、なぜかそこがあいちゃったの。あの空間にある鍵のかかった扉って言うのはほかのプログラムとの出入り口につけられた蓋だから、プロテクトが利いてる限りは開かないはずなんだけど。あとは特に話すこともないかな。そこからあのパソコンの中に逃げ出して、時間はかかったけどあの狭い箱に出るための方法を探し出して……。あ、あのなかに居る間は体は成長しないから、ついでに1年分ちょっとあちこちいじったんだけどね」
「ああ、なるほどね」
どう?と聞いてくる凛にあいまいな返事を返してグラスを空にする。
(結局、偶然の産物ってことか)
そう考えると自分があれだけあわてていた事が馬鹿らしいことのようにも思えたが、不思議と徹はだからといって落ち込むわけでもなかった。
自分があれだけ色々やった事が結果として凛を助けた。諦めなかった事が結果的に報われた、それだけで十分だった。
「やっぱ、諦めずにやってみるもんだな」
「ん?」
「いや、なんでもない」
怪訝そうにする凛にそう答えて徹は一人、笑みを浮かべた。
「あ〜、何よ。一人で笑ったりして」
「なんでもないって」
「え〜」
久しぶりにそんな言葉を交し合っては笑い会う。今の二人にとってこれほど幸せなことはなかった。
と、そのとき。玄関の方で金属のぶつかる音が聞こえたかと思うと、重い音を立てて扉が閉まった。
「あ、母さん帰ってきたな。お帰り」
「はいただいま〜」
声を張り上げながら部屋を出ると、それに凛もごくごく自然についてくる。一年ぶりだというのに違和感は全くなく、徹も特に気に留めなかった。
「ちょっと手伝って。これ台所までもってって頂戴」
「へーへー」
母親の手から重いビニール袋を受け取って踵を返す。そのとき、丁度二人の間に立っていた徹が居なくなったことで、徹の母と凛が正面から向き合う形になった。
「あら…えーっと……」
母親のその声に徹ははっとして振り返る。徹があの日家に帰った時も、なぜか母は最初こんな反応を見せた。そして……
「凛ちゃん!久しぶりじゃない!どこ行ってたの?」
「いろいろと……ご迷惑おかけしました」
「いいのよ」
母親が先に台所に行くのを確認してから、徹はペコリト頭を下げている凛のもとへ寄って行く。
「なあ、どういうことなんだ?」
「ん?」
声を潜めてたずねた徹にあわせたのだろう。凛も至極小さい声で聞き返した。
「あいつの言う事が本当なら周りの奴らは誰も俺らのこと覚えてないはずじゃないのか?」
「ああ、それはね」
徹の手から袋の片方の取っ手を受け取りながら凛が答える。
「記憶操作が不完全だからなの。本当に記憶を変えようと思ったらあの箱の中に押し込んで直接脳に働きかけないといけないんだけど、そんな暇ないでしょ?仕方ないからあいつは光を使って視覚を通した関節的記憶操作を下のね。これは凄く手っ取り早くていいんだけど欠点があってね。いまみたいにその消した記憶の映像を目で見てしまうと記憶が戻っちゃうのよ。」
「へえ…。だからお前からのクリスマスプレゼントどっか行ってたのか」
感心した様子でつぶやく徹。しかしそれを聞いた途端、横で凛が叫んだ。
「え〜!じゃああの写真見てないの〜!?」
「ん?ああ…。」
信じられないという顔で凛が俯く。
「なんだ、そんなにいい写真だったのか?」
「いいもなにも。自信作ばっかだったのに……」
もしかしたら凛は本気で悔しがっていたのかもしれないが、徹はそんな仕草がまた可愛らしくて噴き出してしまった。
「また笑う〜」
「ああ、ごめんごめん。あ、母さん」
膨れる凛をなだめて母親の背中に呼びかける。
「この後ちょっと出かけてくるから。夕飯までにはもどるよ」
「はいはい」
母親が返事もそこそこに着替えに行くのを目で追いながらビニール袋をそこに置くと、ポケットの中から小さな鍵を取り出した。
「久しぶりなんだ。一緒に自転車乗ってどっか行こうぜ」
見せたいところはたくさんある。新しく出来たビルもあるし、近所にゲームセンターもまた一つ出来た。無意識のうちに書き溜めていた「凛に見せたいところ」の数はかなりのものになっていた。
「あ、じゃあちょっと来て」
凛も嬉しそうに笑顔を浮かべながらそういうと、なぜかベランダの方に徹を招く。
「おとなしくしててね。面白いから」
そういって意味ありげな笑みを浮かべた凛が、徹の後ろから徹の腰に両手をまわす。
「行くよ!」
次の瞬間。徹は本当に空を飛んでいた。
「まだ徹には見せたことなかったよね?本当はこんなこともできるんだ」
得意気にそういって見せると徹をそっと地面に下ろし、続いて自分も着地する。
「どう?凄いでしょ」
「なるほどね。二年前はこれでウチに入ってきたわけだ」
「そういうこと!」
(そうなると二年前のアレも……)
にっこりと笑う凛を見ながら、二年前、ビル街の空を飛んでいた何かを思い出す。
(ま、今となっちゃどうでもいいことだけどな)
ただ凛がそこに居る。今の徹はそれで十分だった。
「さあ、それじゃあ行こうか」
久しぶりに出してきた自転車を坂の前で止めてまたがると、凛も乗るように促す。
「すごく久しぶりだよね」
懐かしそうにそういいながら自転車の後ろに乗ると、そのままそっと徹の背中に身を預ける。
「ねえ、徹?」
「ん?」
「もう私はあんなふうに突然いなくなったりしないから。今度はいつまでもここにいるから」
「……ああ。でも別に突然居なくなってもかまわないんだぞ?」
「え?」
凛が怪訝そうなこえで問い返すのもかまわずに徹は続ける。
「今度突然お前が居なくなってもまた、ちゃんと追いかけて捕まえに行くからさ」
顔がほてるのを隠すように、言い切るなりペダルをこぎだして坂道に車体を乗せる。
「久々に駆け下りるぞー!」
「おっけ〜、行けぇ〜!」
叫ぶ二人を乗せて自転車は坂を駆け下りていく。どこからか、一片の羽が風に吹かれて舞っていた。


「そう、君は突然に」・完