〜6〜(後編)

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 国立図書館の職員達には、各々一室ずつ部屋が与えられている。一般職員は基本的には洗面台がつき、大きめの箪笥とベッドと机を置いて丁度いいくらいのものでさして広いわけではないが、一人だけ、部屋とオフィスを一つにしているメディスだけはずば抜けて広い部屋を持っていた。
 廊下の突き当たり、左右に見えるミルとマースの部屋を脇に見ながら、ほかの部屋と特に変わらない木の扉を開けて中に入るとすぐ目の前にメディスは座っていた。赤茶色い机の上には丁寧に並べられたファイルといくつかの書類の山。右手においたパソコンの画面から目を上げて、メディスが非難半分呆れ半分といった様子でチェロを見据えた。
「ノックぐらいしろ」
「失礼しました〜」
 気のない声で適当に返事を返すとミンレイをドアのそばに待たせて机のすぐ前に立つ。ふと物音がしたので振り返ると、ドアの横、ミンレイの立っているのとは反対側におかれた椅子の上に座っていたミルが、軽くした唇を噛んでチェロの方を見ていた。
「……マースはいないの?」
 チェロと目が合うなりあわてて顔を背けるミルをよそ目に部屋の中を見渡して尋ねる。チェロの知る限り、ミルがメディスの部屋にいるときはまるでその面倒を見るかのようにマースも一緒にいるものだったが、今、愛想のいい青年半獣の姿は見受けられなかった。
「今日は大きな作戦任務の予定はないからミンのところに行かせた」
「ああ、まだ新入り君の実習中だっけ?」
「シャグの方で半獣によると思われる傷害、破壊事件が報告されているらしい。半獣のものだと仮定すると規模が大きいから二人組みで動けるミンに回した」
「ふーん。それでマースは視察役兼お手伝いってわけ」
「そういうことだ。で、お前に頼みたい事があるんだが」
再びチェロが何かを言おうと口を開くよりも先に、それを制するようにメディスが話を切り出した。できることならば体よくその場を去り、早いところ布団の中に戻りたかったチェロは深いため息をつくと、手をメディスの机の上についてうなだれた。
「……何よ」
 どうせ駄々をこねたところでミンレイ同様メディスが逃がしてくれるはずもない。諦めて顔を上げるとチェロは尋ねた。
「まあ毎度のことだが……北の通りからここめがけてデモ隊が来ているらしい。いい加減図書館勤務の平職員だけにまかせきれなくもなってきている。適当に出て追い払ってきてくれ」
「……なに?あのやかましい大群を追っ払えって言うの?」
「何か文句でも?」
「めんどくさい」
じいっとチェロの目を見据えるメディスに、気だるそうな声でチェロがつぶやいた。
「『究極の気分屋』たるこの私が、何で休暇中にそんなめんどくさい頼まれ事をされなきゃならないのよ」
「……」
 呆れた、というわけでもかと言って怒るわけでもなく、ただ黙り込むメディスとそんな彼にお構いなしに机の上に片手を伸ばし、さも当たり前のようにティーカップを手にとってその中身をすするチェロ。もう何年も続いているこの光景にはミンレイも何も言わず、部屋の中に沈黙が流れた。
 だが、それはそれほど長くは続かなかった。チェロが一口紅茶をすすってカップを机の上に戻すと、それを待っていたかのようにメディスが手を組み、机の上にひじをついて身を乗り出した。思わずたじろぐチェロにかまわず、メディスは口を開いた。
「じゃあ任務ということにしておこう」
「はぁ?」
 思わず素っ頓狂な声を上げるチェロをよそ目に淡々とメディスは続ける。
「相手はただのデモ隊だから当然開放レベルは0。休暇は返上だな」
「なによそれ〜。とんでもない横暴じゃない」
頬を膨らませて講義するチェロ。しかし対するメディスは素っ気無かった。
「ほら、早く行け。任務だと言っただろう」
「……訴えてやる」
 最後の抵抗とばかりにつぶやいて部屋を出て行くチェロ。メディスは小声で「勝手にしろ」というと、こちらに向かって頭を下げ、部屋を出て行くミンレイをよそ目に机の引き出しからファイルを一つ引っ張り出した。
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 ここ、国立図書館にデモ隊が押し寄せてくるなどというのはそれほど珍しいことではない。むしろ、首都チク近辺で起こるデモは全てここを目指してくるといっても過言ではない。もっとも、いまだ戦争の傷痕の癒えきらぬ今の世界で、図書館維持費の名目でかなりの金額を吸い取っていく図書館の存在が目の敵にされるのは至極当たり前のこととも言えるのだが。しかしそうは言ったところでおとなしく引き下がるわけにも行かない。現行制度のままでこの図書館がなくなればどうしたって治安は維持しきれずに社会が崩壊する。もちろん政府が図書館維持費にデモ隊が納得いくような裁定を下すことはなく、かくして未だに図書館に押し寄せるデモ隊がいなくなることはないのだった。
「あ〜あ、しかしあのうっるさい連中を追っ払う、ねえ……」
「……」
 何か言いたげにミンレイの背中に呼びかけてみても返事が返ってくるわけでもなく、チェロは大きくため息をついた。
「一体全体どうしろっていうのよ。ひたすら頭を下げてなだめろとでも言うわけ?」
「そういうことなのではないのですか?」
「そんなの嫌よ〜」
「それでも一応任務ですから」
階段の前の踊り場で不平を漏らすチェロを諭すように短くミンレイは言い放つと先に金の取っ手に手をかける。扉が開くと同時にその向こうに広がる光景はやはり独特なもので、敷居をまたいだ瞬間に全く別の空間に足を踏み入れたかのような錯覚に陥る。物静かで重々しい館内の空気はそれだけの存在感を持って二人の周りを取り巻いていた。
「もうすぐここにデモ隊の群れが押し寄せてくるってのに……静かなもんねぇ」
「本来それが図書館ですから」
「まあそれもそっか……。あ」
 丁度そのとき、後ろを通りがかったシーマを見つけて呼び止める。なにやらよろめきながら歩いていた後姿が振り向くと、その両手には首元まで届くほどに積み上げられた本の山が抱えられていた。
「あれ、チェロさんって今日は非番じゃないんですか?」
「いろいろあったのよ。それよりさ、あんたここにデモ隊が向かってるって……知ってる?」
「ああ……」
 何かを思い出すかのように首を横に向け、短く答えると、「そのまえに……」と遠慮気味につぶやいて近くの机に本の山を静かに置く。よほど重かったのだろう、再び振り向いたマークはさも「すっきりした」といわんばかりの顔で腕をまわして肩を鳴らした。
「そういえばさっきそんなことをこっちの先輩が言ってましたね」
「なによ、知ってる割には随分あっさりしてるんじゃない。警察に協力要請くらい出したんでしょうね?」
「いやぁ、出しませんよ、そんなもの」
「なに?」
 すかさず眉根をひそめて拳を握り締めるチェロに思わず後ずさってシーマは続ける。
「呼んでも意味がないんですよ、実際。デモ隊の連中も警察がどんなに装備してきても麻酔銃までしか持たないことをちゃんとわかってますから。結局これっぽっちも抑止力にならないんですよ。デモの規模次第では多勢に無勢で追い払われちゃう事だってありますから」
「なにそれ、情けない」
「いや、僕に言われても……。で、なんでチェロさんはこんなところにいるんですか?ミンレイまで一緒で」
 よし、と意気込んで再び本の山を抱え込み、時々よろめきながらカウンターの方へ歩き出す。チェロもなんとなくそれについて歩き出し、ミンレイは一瞬そんなチェロを咎めようと口を開いたが、諦めたような小さなため息をつくとそばの椅子に座り込んだ。
「それが面倒な頼まれ事されちゃってさあ。これからここに押しかけてくるっていうデモ隊を追っ払えって言うの」
「ひゃー……ご愁傷様です。あ、今は殴らないでくださいよ」
 よろめきながらもしっかりと視界の端でチェロの握りこぶしをみとめて釘を刺す。チェロもさすがに悪いと思い、「ちっ」と舌を打つとこぶしを開いた。
「でも実際大変ですよ。前にデモ隊が来たときは僕が2時間も頭を下げ続けてようやく帰ってもらえたんですから」
「嫌よ、私はそんなこと」
「わかりますけど……そんなこと言ってる場合でもないみたいですよ?」
 言われるまでもなく、その音はチェロの耳にも届いていた。玄関の方からわずかに聞こえてくるたくさんの足音とざわめきの中、最後に哀れみの目を向け、「がんばって」と声をかけて去っていくシーマに思い切り舌を出して追い払うと、玄関の前で急かすように手招きしているミンレイに合図を送って重い足取りで歩を進めた。
「ねえ〜、やっぱりやらなきゃダメなの?」
「何を今更」
「うう……」
あまりに素っ気無いミンレイの態度にうなだれる。だが、しぶしぶながらに玄関の戸を開け、デモ隊の先頭に並んだ男達の顔を見たとたんに、気だるそうにくもっていたチェロの顔がぱあっと明るくなった。
「ねえミンレイ。私、俄然やる気が出てきたわ」
「……みたいですね」
 頬に含み笑いを浮かべてつぶやくチェロと、拳を突き上げて近づいてくる男達を交互に見比べながら答える。そんなミンレイの肩にそっと手を置いて一歩さがらせると、それまでのだれっぷりはどこへやら、さも楽しそうに背筋を伸ばして、チェロは大きく一歩前に踏み出した。
「はいはい!ストーップ!」
 突然張り上げた声が余りに大きかったので、騒ぎを知って遠巻きに様子を見ていた子供達が逃げ出した。デモ隊の男達も何事かとばかりにざわつきながら、その歩みを遅め、チェロの5、6メートルほど前で立ち止まった。
 空気が一変した。男達はまるで見たくないものを見たかのように僅かにたじろぎ、それまでの勢いが嘘のようで。そんな彼らを目の前に、チェロが片頬を上げてほくそ笑む。突然デモ隊が静かになったことを訝しがって通りの窓からは野次馬が顔をのぞかせ、さながらチェロとデモ隊の周りを囲う観衆のようだった。
「最初はこんなめんどくさい仕事嫌だったんだけど、よく見たらほとんど知ってる顔じゃない」
「……」
 目を細め、男達の一人一人に目を流すチェロの前で、男達はみな黙り込んで動かない。そう、まるで絶対に出くわしたくない悪魔に出会ってしまったかのように。
「へえ、ご苦労様ね。隣町から来てるのまでいるんじゃない。それにいっつも飲んだくれてほとんど文無しのもちらほら……。いいの?ちゃんと働かないとまた奥さんにどやされるわよ?」
 からからと笑うチェロの声が通りにこだまする。そんな彼女の様子を遠巻きに、肩をすくめ、壁にもたれて眺めていたミンレイのそばにそっとシーマが寄ってきて、その肩を軽くつついた。
「何?あそこにいる奴らってチェロさんの知り合いなの?」
「……そうですね。ざっと見た限りで7、8割はそうだと思います」
「7、8割って……。あのデモ隊、軽く50人はいるぞ」
「ほとんどがこの辺りの飲み屋の常連なんですよ。チェロとはそれはそれは深い知り合いで」
「へえ……」
感心したようにそうつぶやいて、シーマもミンレイのすぐそばに並んでもたれかかる。ミンレイは静かに壁から背中を離すと、シーマとは反対側に一歩、横に体をずらして再び壁にもたれた。
「でさあ、モノは相談なんだけど」
 そんなふたりの前でようやく笑いの止んだチェロが再び口を開く。
「こんなところでデモなんかされたんじゃあ迷惑極まりないのよね。……帰ってくれない?」
 訪れる沈黙。さも面倒くさそうに頭をかくチェロと何も言わずにそれを見つめるデモ隊の男達。周りの観衆だけがざわめく中、その沈黙は突然に消え去った。
「ふざけんな!」
 男達のうちの一人が大声で叫び、ほかの者も拳を突き上げて賛同する。途端に通りが騒がしさを取り戻した。
「こっちは図書館なんとか費とやらに金を余分に取られてるせいでいろいろと大変なんだよ!」
「それを迷惑だから帰れ、なんていうのか!?」
「冗談じゃない!」
その声を合図に、一気に活気付いた男達がそろって咆える。頭上高く拳を振りかざし、足を踏み鳴らしてチェロの方へと進んでくる。
「あーあ、もう……めんどくさい」
 小さくつぶやいたチェロの声が興奮しきった男達の耳に届くわけもなく。だが、その歩みが再び止まるのにそれほど時間はかからなかった。
「あ、へルーシさんだ」
 その一言で空気が凍りついた。デモ隊の最前列を歩いていたチェロの顔見知りたちが不意に立ち止まったのでつんのめるようにして後ろの男達もとまる。
「ちょっとこっち来てくださいよ。面白いものが見れますから」
 自分達の頭越しに投げかけられるチェロの言葉を追いかけるようにして男達が後ろを向く。次の瞬間、辺りの空気がより一層硬く凍りついたことはもはやそのそばにいた誰もが感じられた。
「本当に……へルーシだ」
「なんであの親父がこんなところに……」
口々にささやかれる恐怖に震える声。その視線の先にはダークグリーンのズボンに白いシャツを着た、体格のいい中年男性が目を閉じて立っていた。
恐怖に凍てついた沈黙の中、その男性がゆっくりと目を開き、男達が僅かに後ずさる。そして、その目が大きく見開かれた。
「テメエら!くだらねえことやってねえで働いてさっさとツケ返せ!」
「出た、泣く子も黙る酒場のへルーシ」
 その一言だけで萎縮してしまっている男達の背中に笑いながらチェロが言う。この町一番の酒場の主人であるヘルーシ。彼にどなりつけられて平気でいられるものなどいない。ましてツケだらけで飲んだくれているこの男達にとってみればそれこそ絶対にか内容のない怪物が突然現れたようなものなのだ。
「飲んでばっかでろくに働いてもいないてめえらが!いっぱしにデモなんて起こしてんじゃねえ!」
「でも……」
「でもも糸瓜もあるか!おら!帰るんだよ!」
「わるいわね〜」
恐いオヤジに駆り立てられて逃げていく男達を見送りながらチェロがひらひらと手を振る。結局、デモ隊は1時間もしないうちによりにもよって酒場の店主の手によって撃退されてしまったのだった。
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…………
……
「……と、いうわけで。任務完了してきました」
「……ご苦労だった。もういいぞ。用事はこれだけだ。残りの非番の時間をせいぜい楽しめ」
「言われなくても」
 短い言葉をさっさと交わして踵を返すと、なにやら本を読んでいるミルに「じゃあね」と声をかけて廊下に出た。と、丁度そこに、まだ図書館にいるはずのシーマが立っていた。
「なにやってんのあんた。さぼり?」
「まさか。一応お礼を届けてこいって」
そういって無造作に突き出された小さな包みを受け取る。触った感じだけでは中身まではわからなかったが、ようやく休暇に戻れるチェロにとってはそれほど重要なことではなかった。
「でも凄いじゃないですか。あんなに早くデモ隊がいなくなったのってはじめてですよ?」
「そりゃあ私が凄いから……」
「運が良かっただけです」
胸を張ろうとするチェロに釘を刺すように、横からミンレイが口を挟む。
「たまたまデモの規模が小さくて、ほとんどがチェロの顔見知りで、さらにたまたまあそこをヘルーシさんが通りかかったからどうにかなっただけです。断じてチェロの手柄ではありません」
「……ちぇ。手厳しいなあ」
 いじけたふうにそういって自分の部屋の扉を開け、図書館の方に戻っていくシーマに軽く声をかけるとその中に入る。ベッドの上にはまだ、チェロが寝ていた時のままで布団が広がっていた。
「お待たせ〜!私のベッド!」
 嬉々として叫びながらベッドに飛び込むと、布団の上で左右に転がりながらミンレイの方に目を流す。
「明日の予定は?」
「昼前からまた遠出です」
「またぁ。最近多すぎない?」
「私に言われても知りません」
「ちぇ」
 うつ伏せになって布団に顔をうずめるチェロを尻目にふりかえり、ミンレイはドアの取っ手に手をかける。
「私は部屋で本を読んでいますので。夕食にはちゃんと来るようにしてください」
「はいは〜い。おやすみ」
「くれぐれも、寝坊などしないでくださいね」
「……努力するわ」
最後に念を押してミンレイが出て行くのを見送ってからチェロがつぶやく。
それから再び部屋の中に彼女の寝息が聞こえ始めるまで、それほど時間はかからなかった。