其之九拾八

「Catch you later♪」
ナイフが音さえ聞こえるのではないかというほどの勢いで徹にむかってまっすぐに飛んでくる。なんとか逃れようと暴れたところで徹の体が開放されることも無く。しかしそこに散った鮮血は徹のものではなかった。
「……」
「…凛!?おい、凛!」
胸に刃を受けてその場に倒れる凛に呼びかける。無常にも徹を捕らえた麻紐は緩む様子など無かった。
「……まあ多少予定は変わったが……これでも良いか」
恐らくそれがゲートなのであろう。音も無く智と朋の目の前に現れた扉に手をかけながら智が言う。
「そうやって悲しみにくれながら最期の時を過ごすがいいさ。これで俺も気分良く向こうに行ける」
「じゃあ、先輩、さよなら〜」
舌を出して朋がそういい、智の開けた扉をくぐると、智もその後に続く。
最後にその扉が閉まるとゆっくりとそれは姿を消し、そこはただの石の壁に戻っていた。



「凛!起きろ、凛!」
とうとう二人きりになった部屋の中、ぐったりとした凛に大声で呼びかける。このままでは自分は脱出の手段が無い。せめて凛だけでも……今の徹はそのことしか頭になかった。
「おいコラ!まさか死ぬつもりじゃないだろうな?忘れんなよ?お前はまだ俺が食わせてやったパンだの弁当だのの金を払ってないんだ。そのままでさよならだなんてゆるさねえぞ!おい!」
喉が痛むのもかまわずに叫ぶ。もしかしたら心のどこかでは、そんなことをしても無駄だと思っていたのかもしれない。それでもいま呼びかけるのを止めれば全てが終わってしまうような気がした。
「おい!起きろ〜!」
「……うるさいなあ」
「おき…え?」
ふと聞こえたかすれた声に思わず言葉が詰まる。と、そのとき。決して緩むはずの無かった麻紐がぷちんと音を立てて切れ、徹の体は前のめりに倒れた。
「おっとっと……。おい!凛!?」
「うるさいってばぁ……。大丈夫だよ……」
かすれてはいたが、それでもはっきりとした声で言うと、ゆっくりと凛が体を起こす。そして徹のほうに笑顔を向けると、徹が止めようとするのよりも先に、体に巻きつけた布の上から刺さったナイフを引き抜いた。
本当だったならばこのような場合、刺さったものを貫くと余計に血をあふれてくるものだ。しかしどういうわけかそれを引き抜いても、布ににじむ血の量は擦り傷程度のものだった。
「お前…それどうやって?」
「ああ、これ?」
不思議そうな顔でたずねる徹に、なんでもないといった様子で立ち上がる。
「前にあいつに、この世界のプログラミングを手伝わされた事があったからね。あいつほどじゃないけど私もすこしはこの世界のプログラムに干渉できるんだ」
「へえ……それはそれは」
驚いたようにそういって、凛の手を引いて立たせてやる。久々に触れる凛の手は彼女の血のせいで触感があまりよくは無かった。
「さ!とりあえず急ごう!あいつの言ってた事が本当なら早く出口を探さなきゃ」
「お、おい!」
勢いよく部屋を出て行こうとする凛を押しとどめて引き戻す。そのまま向き合う形になった彼女のむき出しの肩に手を置くと真剣な面持ちで彼女の目を見つめる。
「おまえあいつの話聞いてなかったのか?いまある出口は俺が入ってきたところが一つ。どっちかが脱出すればどっちかは取り残されることになるんだぞ?」
「……」
何も答えない凛の目をじっと見つめ、徹も黙り込む。しかしその重苦しい沈黙は一瞬にして破られた。
「なんだ、そんなこと気にしてたの?」
気の抜けた声で凛が口を開く。思わず徹は耳を疑った。
「え?そんなことって……」
「アレ、智の嘘だよ。この空間には1つだけ緊急脱出口があってね。まあ前に私が逃げ出した時は逃げ出した直後に外部からその出口を塞いじゃったからあいつはここに閉じ込められたんだけど……。そこを使えば2人とも脱出できるんだ」
「……本当か?」
余りにあっけらかんとしている凛を試すようにたずねる。しかし凛は徹の真剣さが馬鹿らしく思えるほどの笑顔を浮かべていて。
「嘘言ってもしょうがないじゃん」
「……それもそうか」
半ばその笑顔に圧されるようにして徹も頷いたそのとき。けたたましいアラーム音が一度鳴り響いたかと思うと、何かが押し寄せてくるような微弱な揺れが足を伝って二人に伝わってきた。
「何だこれは…」
「きっと崩壊が始まったんだよ!急ごう!」
「オッケ〜イ!」
どれほどの速さで崩壊の波が近づいてくるのかも分からない。二人はできるだけの速さで部屋を駆け出すと、徹の来た道を逆行し始めた。