〜6〜

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「…きて……起きてください……」
 朝。朦朧とした意識に誰かが呼びかけている。ベッドの上で布団に包まった彼女は、ずきずきと痛む頭に手をやりながらうっすらと目をあける。
「……水ぅ」
「どうぞ」
 布団から後ろ向きに手を伸ばすと、硬く冷たいガラスの触感が伝わる。布団の上に無様に転がっている時計の数字はとっくに朝食の時間が過ぎていることを伝えていて。コップの水を飲むために寝返りをうって起き上がると、サイドテーブルの上にサラダとトーストをのせた白いプレートが置かれていた。
「あんたが持ってきてくれたの?」
「チェロはいつも加減というものを知らなすぎます」
 クシャクシャと髪をかき乱しながらコップを口に運んで言うと、目の前の椅子に座ってこちらを見ているミンレイが諭すような口調で言う。この様子だと本当に彼女が朝食のバイキングから適当にとってきてくれたのだろう。普段のチェロならば抱きついて礼を言うところだったが、残念ながら今はそんな余裕はなかった。
「う〜ん。確かに昨日は飲みすぎたかなあ……。あそこの店主がすすめるもんだから……」
 あまり気は進まなかったが、ミンレイがせっかく持ってきてくれたのだし、いらないと言っても通らないのはわかっていたのでフォークを手にサラダを口へと運ぶ。もちろん食べないといけないのは確かだし、気を遣ってくれたのだろう、さっぱりとしたドレッシングのかかったサラダは割りあい喉を通りやすい。それでも……
「もし今日任務が入ってたらどうするつもりだったんですか?」
「そしたら飲まないで帰還してるわよ……」
 呆れ顔のミンレイに答えながら半ば無理やりに口の中のサラダを飲み込む。任務で遠出した帰りに酒場によることはよくあるけれど、昨晩はそこの店主すすめられるがままに飲みすぎたらしい。チェロ自身そこまで酒に弱いほうではなかったが、さすがに度が過ぎたのだろうか。
(まあ店主は私以上に酔いつぶれてたし……文句は言わないことにしてあげよっか)
「つ……」
他愛のないことを考えていると、突然頭の芯を鈍い痛みが襲い、反射的にこめかみに手をやって首を下げる。どうやら今回はいつにもまして頭痛の性質が悪いようだった。食欲が無いのは何とか誤魔化せても、どうにもこの頭の芯に響く傷みだけはチェロは苦手だった。とにかく何をする気も起きなくなるし、起きているだけでもつらくてしょうがない。
「……ダメだわ」
 フォークをプレートに放り投げてベッドの上に倒れこむ。困ったようにミンレイが一つため息をついてプレートを持ち上げる音を聞きながらゆっくりと起き上がると、床に転がっているスリッパを突っかけて、頭を押さえながら立ち上がった。
「ちょっとミールのところに行ってくる」
「付き合います。このお皿も片付けないといけませんから」
 プレートを手にし、すぐさま後に続くミンレイに小さな声で礼を言って扉を開ける。ロビーや本部の方から聞こえる職員達の声が頭に響いて余計に痛かった。
 
 忙しなく歩き回る職員の中、すぐにミールは見つかった。規則正しく並んだ―書類やパソコンのせいでとてもそうは見えないが―机の列の中で一箇所だけ妙に片付いた机が3つ並んでいるところ。そのうちの一つにいつもミールは座っていた。
 ミール・テーシア。この国立図書館の財布を握る勘定方で、その顔に張り付いているのではないかというほどに解かれることのない穏やかな微笑とは裏腹に、なかなか職員達に手厳しい会計処理を行うから恐ろしい。チェロより一つ年上で、彼女の一番の友達である。
「あら、今日はまたずいぶんと辛そうね。」
 一目チェロの顔を見るなり、全てを悟ったような顔でミールが尋ねる。チェロも特に否定の余地もないので、肩を落としていかにも病人らしい振る舞いで答えた。
「わかる?」
「あなたがそんな顔してたら誰だってねえ?で、昨日はどれだけのんできたの?」
「う〜ん……、ミンレイに頼らなくても歩ける程度」
「あんたねえ……」
 ミールが困ったようにため息をつき、引き出しをひらくと、その中から手の中に納まるほどの大きさの小瓶を探し出して差し出す。ミール特製の風邪薬ならぬ二日酔い薬。ここの職員達の中では「よく効く」と非常に評判で、のみすぎた翌日には欠かせない代物だった。
「ありがと、それじゃあ一つもらってくね」
「たまには飲む量加減しなさいよ」
「はいは〜い」
 もちろん、チェロにそんなつもりなどさらさらない。ミールもそれをわかっているのだろう。大きくため息をつくと、小瓶を引き出しの中に放り込んだ。
「あ、そういえば」
 丁度食堂から戻ってきたのか。本部の入り口のところでこちらを見ているミンレイにひらひらと手を振って歩き出そうとしたところで、後ろから呼び止められてチェロが立ち止まる。
「さっきメディスさんが探してたわよ。なんか頼みたい事があるとか」
「え〜……。行きたくないなあ……」
首の後ろに手をやりながら、さもうんざりといった声で応える。メディスが名指しで呼び出す時はたいていろくな用事ではない。今日のような体調のときにあまり面倒な仕事は勘弁して欲しいというのが正直なところだった。
「そう言わずに行ってあげなさいよ。あなたが一番彼と付き合い長いんだから」
「わかりました〜。考えとく……」
 嫌なことを考えていると再び頭痛がぶり返してきた。とにかく早いところ布団に戻りたかったので適当に返事を返すと、チェロはミンレイを連れて部屋の方へと戻っていった。
………
…………
……
「ようし!復活!」
 部屋に戻って十数分。薬を飲むとすぐに頭の重い痛みはどこかへ消えてしまった。もちろん普通はいくらミールの薬付きでももうすこしかかるらしいけれど、そこにチェロの生まれ持った頑丈な体が加われば、この程度のことなど朝飯前だ。
「相変わらず、都合のいい体ですね」
「まあね」
 人差し指を立て、くるくる回しながら鼻歌を歌って言う。
 二日酔いの頭痛から開放された後の景色はまるでそれまでとは別世界だ。すっきりとした頭と同じように視界は冴え渡り、全てが新しく思える。暗く曇っていたそれまでとは、同じ世界だとは思えなかった。
「……座らないでくださいね?」
 ふと、椅子に腰掛けてミュージックプレイヤーの電源を入れようとしたチェロにむかってミンレイが口を開く。
メディスさんのところに行くんでしょう?」
 口調は優しくても、その目にはどこか有無を言わせまいとする光がある。しかしあくまでそれは有無を言わせ「まい」とする光であって、有無を言わせ「ない」ではない。もちろん、チェロは迷うことなく彼女の言葉に盾ついた。
「私は今日休暇のはずです〜」
「私たちの仕事に絶対の休暇などありえません」
「……そんなこと言ったらこの世から休暇なんてものはなくなっちゃうじゃない」
 駄々をこねるように膝を抱え、頬を膨らませてミンレイの方に体を向ける。だが、やはりというかなんと言うか、ミンレイの返事は手厳しかった。
「じゃあそうだということにしておきましょう。どちらにしろ、呼ばれている以上チェロは行かなければなりません」
「う〜……、わかったわよ」
しぶしぶ折れて椅子から立ち上がるチェロを満足そうに一瞥し、ミンレイが先にたって部屋の戸を開ける。後ろ髪を引かれる様な思いがして振り返り、ふかふかのベッドに目を流した後で諦めをつけ、ミンレイに促されて部屋を出た。
(ああ、さようなら私の布団。きっと次にあなたのそばに行くのは日が沈んでからになるのでしょう)
「何か言いましたか?」
「何にも言いません〜」
咎めるように尋ねるミンレイに面倒くさそうに答えると、チェロは部屋の戸を閉めた。