其之九拾壱

大きく、目一杯に引き絞られたナイフを手にした右手が、まさに全力で突き出される。その刃先は深く凛の手の平にのめりこみ、鮮やかな血をそこに散らした。
『ああ!……ぐっ…!』
凛は刺突の瞬間に声は漏らしたものの、その後は無事でいる右の拳を握り締め、俯いて奥歯をかみ締め、全力でその痛みに耐えていた。
『さすが。このくらいならもう耐えられるか』
そんな凛の様子に舌なめずりしながら、すこしさがったところで智は凛の様子を観察していたが、大して長くそのままでいるわけでもなく、十数秒で再び凛のそばへ戻ってきた。
『でも…こんなのはどうだ?』
智の手がナイフにかかる。
一瞬それを引き抜くかのようにかかった力はすぐにその向きを変え、それこそ信じたくも無い凶行に及んだ。
グリッ…
そんな音が聞こえてきそうなほど生々しく、凛の左手を貫いた刃がよじられる。
離れたところで見ている徹にもその恐ろしさはひしひしと伝わり、一瞬全ての音が奪われたような気すらした。
『ああ…!……っアアアア!』
かみ殺しているのではない、出したくても出せないといった感じの悲鳴が響き渡る。
「止めろおおおおおおお!」
若干遅れて徹の悲鳴もこだまする。
地獄だった。
智は凛の血が飛び散るのもお構いなしになおもナイフをグリグリとよじり続け、ただ徹と凛の悲鳴が響いていた。
『アアア…!アアアア!っ……ハア!……ハア』
不意に智が勢いよくナイフを引き抜き、天を仰ぎ、目を見開いて体を震わせていた凛は反動でがっくりと俯いたまま肩で息をした。
床に出来たのはどす黒い水溜り。まだひたひたとそこに滴る血液を見下ろしながら智の左手が凛の左手首を掴んだ。
『!』
俯いたままで、しかしそれでも跳ね上がる凛の肩。智はといえばやはりそんなことには微塵の興味も示さずに、ぽっかりと風穴の空いた凛の左手を広げるとそれが徹に見えるように体をずらした。
『よう!よく見ておけ。面白い事が起きるぞ……』
「く……」
徹の表情が険しくなる。目の前にあるそれは直視してはならないようで、しかし同時にそこから目をそらすのは凛への裏切りであるような気もして結局徹は目を背ける事が出来なかった。
『……そら、始まったぞ……』
喜びに震える智の声が聞こえる。その声に目を凝らした先にあったのは、とても信じられない光景であった。
(傷が……)
凛の左手にぽっかりと出来た風穴。凛自身はまだ俯いて肩で息をしているというのに、それは目に見える速度で確実にふさがり始めていた。
『驚いたか?この部屋はこういうことをするために特殊なプログラムを組み込んであってな。ここにいる奴は致命傷になるような大きな傷を負うと勝手にこの部屋に入った時の状態にその部分を修復するんだ。だからもし今俺がこの窓越しにお前を撃てばお前は死ぬが、お前が俺を撃っても俺は生きるわけだ』
そういって血まみれになったナイフをその場に投げ捨て新しいナイフを手に取る。
『つまるところ、殺すこと無く、どんな苦痛でも与える事ができるって訳だな』
さっと、智の手にしたナイフが布地の上から凛のわき腹を切り裂く。一瞬空気を吐き出すような悲鳴を上げた凛だったが、5秒としないうちにその傷はふさがっていた。
「ね?こっちは向こうと違ってそんな機能は無いんですから……。無茶ばっかりしてどんな大怪我したって知りませんよ?」
調子に乗って何度もナイフを振るう智と、そのたびに上がる凛の悲鳴。そんなことに見向きもせずに窓に背を向けると、唇をかみ締めている徹に悪戯な微笑を向ける。
「じゃあ……何もしないでここでおとなしくしてろって言うのかよ……」
小さく、つぶやくように徹は答えた。
「ふざけんな」
「…」
「やってられるか…!」
はっきりとそういうとすりむいている右腕を引く。もはや手首の傷がどうなろうが知ったことではなかった。
背中に両腕を回して徹の方へと歩いていた朋は、つんと口を尖らせ、ふーん、とつぶやくと徹の目の前まで歩み寄った。
「まあいいじゃないですか」
にっこりと微笑んだ朋の掌がそっと徹の腹に触れる。
カリカリしたって…何にも始まりませんよ?」
ゆっくりと服の上から徹の肌にそって降りてきた朋の腕はとどまるところを知らず。
その中指の先が軽くへその真ん中を伝っていく感覚にはっとして徹は叫んだ。
「止めろ!」
それまで一定のスピードで動き続けていた朋の手が止まり、顔を上げた朋がまた悪戯っぽい笑みで徹を見つめる。
「いいじゃないですか。痛い思いするよりは……よっぽどましだと思いますけど…?」
再びゆっくりと動き出した手がベルトのラインを超えて下腹部にかかる。いよいよ自分の血液が一箇所に集まりだすのを徹は感じとった。
「止めろ!」
再び。しかし一度目よりも大きな声で叫ぶ。驚いたようにびくっと朋の手が跳ねると、さすがの朋も手を離して立ち上がった。
「分かりましたよ〜だ!せっかく先輩のことを思っていってあげてるのに」
知らない!っとふてくされたように言うと肩をいからせて窓の方へかけていく。当の徹は自分の気を静めるのに精一杯でそんなことにまで注意をはらってなどいられなかった。