其之九拾

「…ん?なんだ、これ」
ふと凛の胸元に白く光るものを見つけて、彼女の長い髪を掴んでいた智の手が止まる。
「こんなもの、どうしたんだ?」
そういって凛の後ろ髪を書き上げると、首にも光る銀白色の鎖を引く。そこには前の年のクリスマス、徹が凛におくったネックレスが光っていた。
「……ああ、なるほど。あいつからか」
驚いたように軽く目を見開く徹と、努めて何もないふうを装う凛を見比べ、すこし考えてから智が言う。と、次の瞬間、凛の髪を支えていた左の手を離し、右の手同様そのネックレスのチェーンをつよく握った。
「こんなもの、奴隷や道具には必要ないな」
ブチッと嫌な音がして金具は弾け飛ぶ。直後、軽やかな落下音とともに銀色の鳥の羽が床を転がった。
「……」
一瞬悲しげな顔を見せた凛があわてて智に見られまいと顔を背ける。しかしあいにく智はそれを見逃すことなく。にまっと憎憎しい笑みを浮かべて凛の後ろから離れた。
「さて、そろそろこうしてるのも飽きた頃だし」
凛に背を向け、一方で徹に意味ありげな笑みを見せながら彼女から離れ、軽く鞭をふるって振り返る。
「久々にその体に傷を刻んでやろうじゃないか」
いつ見ても見慣れないその笑みに凛は背筋を振るわせる。その僅かに恐怖をにじませた顔は徹にその胸中を伝えるには十分であった。
「やめ…!」
徹が止めようとするのもかなわず、智の鞭が風を切り、痛々しい音とともに凛の右腿を打つ。
「…!」
凛がぎゅっと目を瞑り、白い布が破けて宙を舞う。むき出しになった白い肌からは刃物で切りつけられたかのように真っ赤な血が素足を伝ってながれた。
そんなことにはかまいもせずに続けて二発、乾いた音が石の壁に響き、思わず徹は目をそらす。
確かにそれは直視するには耐えがたいものがあったが、目の前で凛がそれに耐えているのに、見ているだけの自分は何も出来ずに目まで背けているとおもうと無性に悔しさがこみ上げてきて、くっと奥歯をかみ締めた。
(……とりあえずこの麻紐をどうにかしないと…)
もう一度気を奮い立たせて顔をあげ、腕を引いてみる。しかしその外見に反して随分と頑丈な、しかも麻独特の粗さをもったそれは徹の肌を十分傷つけており、徹の手首にはうっすらと血がにじんでいた。
「ダメですよ、先輩。先輩はこっちの部屋にいるんですから」
それ以上やったら大怪我です、と言って徹のよこに座り込んでいた朋が立ち上がる。
「あっちにいたらその程度の怪我はどうって事ないんでしょうけどね」
「なに?」
いぶかしんで―抵抗はあったが―顔を正面に向ける。と、そこには信じられない光景があった。
(……くそ)
どうしてもそらしそうになる視線をぐっと正面に向ける。ただ目の前にあったのは狂ったように笑いながら腕を振るう智と、そのたびに新たな傷をその身に刻んでいく凛の姿。彼女のワンピースはあちこちが破れて飛び、袖や裾などは最初の半分ほどの丈しかなかった。
「…なんも無いじゃないか……」
消え入りそうな声で言ってもう一度強く腕を引く。とうとう限界だったのか麻の繊維に引っかかれて一筋の血が腕を伝った。
「あ〜あ、もう。無茶するから」
呆れた声でそういいながら窓のそばまで歩いていき、智に聞こえるようにつよくそれを叩く。
『…どうした?』
振り上げていた智の手が下りて朋の方を振り向く。その顔はまさに楽しみの絶頂にあるかのように笑みを浮かべ、僅かに額に汗が浮かんでいた。
「あれ、見せてあげて?」
『ああ……あれか』
すっと目を徹のほうに流して、より邪な笑みを浮かべる。さすがの徹も自らの気が萎縮するのを感じた。
『いいだろう』
もう一度朋の方を向いてそういうと、今まで使っていた鞭をその場においてもう一度部屋の奥まで歩いていく。
よほどつらかったのだろう。智が見えなくなるや否や、凛は自由にならない体を小さく震わせながら、頭を垂れて短く息をした。
『さて、今までは鞭でちまちまとやってきたわけだけど……』
大して待つことも無く、手にした何かを玩びながら智は戻ってきた。遠目にみても僅かな光をうけて白く輝くのが分かるそれは、智が戻ってくるにつれてより一層その姿を鮮明にした。
(ナイフ…!)
はっとして目を見開く。まるでそれを待っていたかのように智の顔がまた嬉しそうにゆがんだ。
『さあ、これからすこし派手なもんを見せてやろう』
最後に徹を見下すような笑みを見せて踵を返すと、つかつかと凛のほうへ歩いていく。鞭のときですら僅かに恐怖をにじませていた、しかしそれでも耐え続けた凛の瞳はいまや、確かに恐怖をそこに刻み込み、僅かに助けを求めるような色さえともっていた。
だがそんなことは智にとって問題ではない、むしろ喜ばせるだけに他ならないのはもはやはっきりとした事実。実際、凛が恐怖に震えるほどに智の歩幅は大きくなっていった。
『さて……まあとりあえず……手にしておこうか』
ゆっくりと、言葉を区切りながらナイフの刃先を爪先、腿、腹から胸へと這わせる。凛の毅然としてそれに耐えている様が徹には余計に痛々しかった。
『ほら……開けよ』
肘から先、徐々に手のひらに近づくにつれてその刃先は凛の肌に傷をつけ、手首に達する頃には細々と血が滴っていた。
その刃先についた血をさっと凛の親指の付け根でふき取ると、汗ばんだ彼女の左手をいとも簡単に開かせる。その瞬間、徹は智のやろうとしていることを理解した。
「待て!止めろ!」
悲痛な叫びがこだまする。しかしやはりそれも智の凶行を加速させるだけだった。