其之八拾九

『待たせたな』
窓越しのくぐもった声で智が凛に話しかける。先に向こうの部屋に入っていたのか、そのすぐそばにはあの女も一緒にいた。
いつの間に現れたのだろうか、先程まで何もなかったはずの部屋の隅にはナイフだの鞭だの、なにやら物騒で悪趣味なものが並んでいた。
『お前はそこで待ってろ』
部屋の戸を閉めるなり女に向かってそういうと、凛の横を素通りして部屋の一番奥まで歩いていく。丁度壁になっていた智がいなくなったことで窓の向こうが見えるようになった凛の目に、何とか絡み付いている紐から逃れようとしている徹とそれをあざ笑う4人の男の姿が映った。
しばらく悩むようにそこに並んでいるものを物色していた智は、黒い鞭のようなものを手に戻ってきた。
(くっそ…解けねえな)
何度も麻紐から逃れようともがいた結果早くも徹の手首は擦れて赤くなり、それでも彼を捉える麻紐が緩む様子はなかった。
『随分とがんばるんだな。なんでそこまで必死になる?』
そんな徹のほうにふっと視線を流して智が尋ねる。
『言っただろ?こいつは俺がこうして使うために作られたただのプログラムなんだ。こうなることは必然だし、ただでさえこいつのせいで巻き込まれたお前がこれ以上必死になる必要はないと思うけどな』
「知ったことか」
そっけなく応えると、徹はキッと智をにらみつける。
「そいつがどんな目的で作られようと凛は凛だ。凛がこうあることを望んでないなら俺は凛を助けようとするさ」
『徹!も…』
『そうかい。』
もういいから、といおうとして、智に阻まれる。
『こいつはこうあることを望んでるみたいだけどね?』
『違う!私がのぞ…』
『黙れ』
智の向こうで凛が悔しそうに目をそらす。確かに徹の元を離れてここに戻るのは凛自信が決めたことだったが、徹が巻き込まれるということは彼女の望みに反していた。
「あいにく、そうでもないみたいだな」
そんな凛から智に目を戻して徹は続ける。
「凛は俺がこうしておまえに捕まることなんか望んじゃいないし、大体ここに戻ってくる事だってベターであってベストではないだろ?」
『へえ……。ど…』
『何で…?』
智の言葉を遮って小さく凛がつぶやいた。
『なんでそんなこと言うの?私は徹にこれ以上傷ついて欲しくないの!なにも無かったことにして帰ってくれれば、それで……』
凛の叫びが部屋にこだまする。さすがの智も驚いたのか、一瞬びくっと肩を震わせ、徹のそばに座り込んで退屈そうにあくびをしていた朋までもが何事かとばかりに凛のほうへ目をやった。
「ああ…その気遣いのおかげでここに来てからもう随分と傷ついたな」
『それは……』
言葉を詰まらせて俯く。徹はそんな凛に微笑んで続けた。
「心配すんな。俺は、俺がそうしたいからするだけだ。お前が気に病むことなんかないよ」
もはや凛はなにも答えなかった。
『さて、脚色も済んだことだし……』
待ちわびた、といわんばかりに智が口を開き、徹の表情が険しくなる。
『はじめようじゃないか。絶望のそこに叩き落してやる。二人ともだ』
智は手にした鞭―よく見れば表面には鋭く尖った鱗のようなものがびっしりとついていた―を引きずりながら凛のほうへと近づいていく。
「ほんと、お前は見事に俺をはめてくれたよ」
ねちっこい声でつぶやきながらゆっくりと凛の周りを回る。対する凛はつんとして前を向いたまま何も答えなかった。
「あの馬鹿ども4人が―そういって徹のうしろにいる四人組に目を流す―止め切れなかったこともあるかもしれないが……俺の裏をかいたことはほめてやるよ」
すうっと伸びた智の手が凛のむき出しの足首に触れる。その瞬間凛の肩がビクッと跳ね上がり、麻紐から逃れようとしていた徹の顔が険しく、眉がピクリとつりあがった。
「……なかなかきれいに残ってるもんだな」
そのまま真っ白い凛の足にそって智の手が這い上がり、それにつれて凛のまとったワンピースの長い裾が持ち上がる。
同じく真っ白いその布のしたから現れた凛の腿にはいくつもの蚯蚓腫れや切り傷の後が見て取れた。
「く…!」
「すいませんね」
いよいよ我慢ならずに叫ぼうとした徹のよこで不意に朋が口を開く。
「なにぶん時々悪趣味な奴なもんで」
朋自身は退屈しているのだろうか、欠伸交じりにそういって徹のよこに並ぶ。
「……お前も…知ってたんだよな?」
「はい?」
突然の徹の質問に朋が小さく眉をひそめながら振り返る。窓の向こうでは凛の後ろに回りこんだ智が彼女の首筋を覗き込んでいた。
「凛のこと。知ってやってたんだよな?」
もう一度確認するように徹がつぶやく。
朋はしばらく考え込むように黙り込むと、突然小さく噴き出した。
「あったりまえじゃないですか!」
笑い声の混じった朋の声が部屋に響く。
「その点先輩がいてくれて凄く助かりましたよ。あの子を脅すのも簡単だったし、先輩は簡単に人のこと信じてくれるんだもん。ま、智はそれほど先輩のことをよく思ってないみたいですけどね」
「ちっ!」
小さく下をうって朋の方から目をそらす。淡く、何の役にもたたない望みに賭けてみた徹ではあったが、今は余計に自分が空しくおもえてならなかった。