其之八拾八

「…さて、そろそろはじめるか」
徹と凛がそれぞれ目を落とすのを待っていたかのように智が切り出す。
「なにぶん俺には時間がないんでな。さっさとさせてもらうぞ」
「…どういうことだ」
徹がはっと顔を上げて智の横顔をにらみつける。
「なに、そのままの意味だよ」
特に立ち止まるわけでもなく、凛のいる側へつながる扉の方へと歩いていく。その足どりには迷いなど微塵も無く、かわりに待ちわびたご馳走の方へ歩いていくような軽快ささえ感じられた。
「さっき話したろう?俺が作り上げた仮想世界に移住する話だ。そのときが近づいているのさ」
「……なに?」
「…まあいいか」
ふっと立ち止まって智が振り返る。
「あと…1時間半もすればあっちの世界へのゲートが開く。それにあわせて俺たちは向こうの世界に行き、プログラムのデータはネット回線を駆け巡って俺のパソコンから脱出するんだ。なにぶん一度移り住んでしまえばこの世界のデータはすなわち俺の命ともいうべきものになるからな。一つのパソコンの中だけにおいておくのは危険すぎる。何十にも暗号化した上で、バックアップを含めて3つのデータを放つ。そうすればこのパソコンが傷ついても問題はないし、どれか一つのデータが傷ついても常に世界は3つのデータを照合しながら書き換えられ続けるから世界の動きに支障が出ることは無い。だが…」
そこまでいって言葉を区切ると扉の取っ手に手をかける。
「俺をはめやがったあいつだけは許さない。俺は根に持つほうなんでな。向こうに行っちまえばこいつとは会えなくなる。そうなる前に捕まえて、恨みを清算しておこうと思ってな」
「……ちっちゃい奴だな」
いよいよ椅子から立ち上がり、その場に立ったままで言う。もちろんこんなことを言ってどうにかなるわけも無かったが、とにかく智を止めないとならない気がした。
「ちっちゃい?結構じゃないか」
ゆっくりと扉を開けながら智が言い、徹の足が一歩前にでる。
「変にごちゃごちゃした悪意よりも「ちっちゃい」といわれるような悪意のほうがよっぽどすっきりしていて気分がいい。俺はそういうのは好きだけどな」
潔いじゃないか、といって智の右足が凛のいる側に入る。凛はもはや覚悟を決めたのだろうか、ただ徹のほうになだめるような視線を投げかけていたが徹にそんなことはもはや関係なかった。智を止めようと徹の足がさらに一歩踏み出され、いよいよ回りの男達もそれを制止しようと動く。しかし、徹の体に男達が触れるよりも先に徹の動きはパチンという乾いた音とともに奪われた。
(体が…動かない?)
腕も足も、大の字に広がったまま動かせない。見れば徹の手首、足首はやや太い麻紐のようなもので引っ張られるように拘束され、しかも事もあろうに目線の先には、窓の向こう側で磔台に括られた凛の姿があった。
「お前はおとなしくそこで見てるんだな。じきにお前の相手もしてやるさ」
そういって徹の側に半歩戻していた右足をもう一度前に踏み出し部屋の境をまたぐと、静かに扉がしまった。