其之八拾弐

……
…………
………
どれほど経ったのだろう。身体の中を風が通り抜けていくような、爽快でありながら同時に気味の悪い感覚から開放されて、徹は僅かによろめいた。
(やばっ……)
反射的にすぐ前にあるはずの「電話ボックス」の壁に手をつこうと、すっと右手を前に出す。だがその手は金属質の壁を捉えることなく、徹はそのままその場にうつ伏せに倒れた。
「いって…。なんだ……ここ」
辛うじて顔面衝突は免れたものの、すりむいてしまった手のひらを庇いながら立ち上がる。
「どういうことだ?」
自分の置かれた状況がいまいち理解できずに、あたりの様子をキョロキョロと見回す。ついさっきまでそこにあったはずのコードやモニターはその影さえ見受けられず、そのかわりに徹が立っていたのは古びた要塞の中のような、奇妙な廊下だった。
天井、壁、床。全面をみっしりと固められた赤レンガに覆われた廊下。左右の壁のところどころに配置された金属製の重々しい扉がなければ、平衡感覚を保てるかさえ分からなかった。
「なんだ、ここ……」
ひりひりと痛むひざを庇いながら立ち上がると、手近な扉の前に近づいた。
(ここのどこかに…凛と鷹峰が?)
ふっと脳裏に浮かんだカードの言葉と黒服の男達の姿をグッと奥歯をかみ締めてかき消すと、目の前に立ちふさがる重々しい扉を一息に引く。
「くっ……!」
(なんだ、これ……ムッチャ重い…!)
ピクリとも動く気配のない扉の取手を握りなおすと、片足を壁に押し当てて一層強く扉を引く。
「なん…のこれしき…!」
やはり微動だにしない扉にめげることなくしがみつく徹。と、その背後で突然、赤レンガの一つが小さく振るえ、まるで蝶番でもついていたかのように下に垂れ下がった。
そんなことに気付くことなく扉を引き続ける徹の後ろで同じようにいくつものレンガが外れては蛇腹のように連なって垂れ下がり、天井に大人一人が裕に通り抜けられるほどの風穴が開いた。
「チックショ…。これは無理か……」
ドウンッ!
「……!」
ようやく諦めて扉から離れた徹の背後で突然の爆発とすさまじい白煙。その耳を劈くような音にはっとして振り返った徹は、少し送れて押し寄せてきた煙に巻かれてむせこんだ。
「あーあ、だめだって。下手なことするとここじゃあすぐに消されるぞ?」
「ゴホッ…ゴホッ…!」
(誰?)
激しくむせこみながら声のしたほうへ振り向く。ゆっくりと晴れていく煙の奥、こちらに近づいてくるのは徹とさして背も歳も変わらないであろう、撫で付けたようなやや長い黒髪を揺らす少年だった。
「久しぶり」
片手に持ったコントローラーのようなものを揺らしながら短くそういって社交的な笑みを浮かべる少年。だが、徹にはいまいちその顔に一致する人物を記憶の中に見つけ出すことが出来なかった。
「……」
(だれ…だ?)
「なんだ、わからないの?」
いつまでたっても何も応えない徹にうんざりしたように深くため息をつく。
「そういえば……あの時は色々と馬鹿なクラスメイトが世話をかけたな。ほら、お前のところの文化祭でさ」
「文化祭?」
(文化祭で迷惑って……)
と、その瞬間。パチッと音を立てて徹の記憶がつながった。
「お前…あのときの……!」
「やっと思い出したか……。たしか名前は知らなかったよね?」
「ああ……」
待ちくたびれた、とでも言わんばかりの顔で徹のほうに近づいてくると、コントローラーをベルトにかけて顔を上げる。よく見ると二人の足元には、何かに引き裂かれたかのようにへしゃげた金属片や何かの部品が散らばっていた。
「篠山 智だ。よろしく。春日 徹君」
「…よろしく」
(さと…る?どこかで……)
警戒心むき出しの徹をさして気に留めもせずにその横をすり抜けると、智はまっすぐに廊下を進んでいく。
「ついて来いよ。目的地につれてってやるついでにここのことを色々と教えてやる」
「…俺の目的を知ってるのか?」
(なんで?こいつもかかわってるのか?)
疑惑を抱いて険しい声で問い詰める徹に、うんざりしたようなため息をもう一度投げかけて智が振り返った。
「そのことも説明してやるから、おとなしくついて来い。どうせ俺が連れて行かないと道も分からないんだろ?」
「……」
できることならその場で目の前の相手を打ちのめして問い詰めたかった。だが、確かにそれをしたところで二人が見つかるのが早くなるわけでもない。
消えることのない疑念を抱えたまま、有無を言わさぬといった様子の智の背中をにらみつけながらも徹はついていった。