壱:籠女

「では、そういうことで。」
 そう、私の前に立つ男が言う。いかにも小男らしい、細い身体に立派な着物を着込み、洒落たつもりか、口元に生やした髭が嫌悪感を駆り立てる。手には緊迫を散らした群青の扇子。この辺りでは手に入らない、藍の鼻緒の下駄を履いて、嫌な笑みを浮かべている。
 向かい側、並んでそれに対するのは私の両親。粗末な、着物とさえ呼べない服――私が言えたことでもないけれど――に、汚れた肌。寒々とした日々の中で、罅割れた、皺のよった両手が痛々しい。
 別に、珍しいことではない。このあたりの貧しい農村では、ほとんど日常にもなりつつある。この村だけでも、知る限り、私で五人目。一度こうして出て行った子達は、一人としてどこにいるのか、どうしているのか、残された者には知るよしも無い。
 不思議と、辛くは無い。思えば、この村で始めて買われていった、三つ隣のはなも、その後のとめも、きくもすずも、今まで出て行った四人は皆、周りほどに悲しそうでも、辛そうでもなかったような気がする。今まではそれを見ていて本当に不思議で、もしかしたら自分の身の上を悲しむことも出来ないのかと哀れにも思ったけれど、今ならなんとなく分かる気がしなくともない。つまり、諦めがついてしまうのだ。売られることを決める時、決まった後、常にそばにいるのは申し訳なさそうに縮こまった自分の両親。周囲から注がれるのは哀れみの視線。何日もそんなものに晒されて、なんとなく、馬鹿らしくなってしまった。他にどうしようもない、そんな境遇を必死に哀れんだりしてみても、一体なんになるというのか。まして、周りが皆そんな状態で居る中で、自分までもが沈み込んでどうなるというのか。それならばいっそ、自分一人は堂々としていれば良い。そのほうが、よっぽど見栄えもする。そんなふうに、思えてしまうのだ。
 ひょっとしたら、こんなことを考えている私も、『自分の身の上を悲しむことも出来ない』ようになっているのかも知れないけれど……、どうでもいい。
「じゃあね、父さん、母さん。」
 視線で促す男を脇に、両親に、村の皆に、最後の別れを告げる。そして、すぐに踵を返した。
 別に皆の顔を見ているのが辛かったとか、そんな理由じゃない。ただ、そのまままっすぐ前を見ていて、皆の、両親の視線を受けているのが、嫌だった。それはどちらかといえば嫌悪。皆のことをそんな風に思ってしまう自分のことも嫌で、だからすぐに身を翻した。

++

 これからどこに向かうのだろう。
 ふと、あらかじめ用意されていた馬車に、男と並んで座りながら思った。
 どういうところに連れて行かれるのかは、当に見当がついている。貧しい村の、さらに貧しい家、生活するのにも骨を折るような、そんな家には、時々どこからとも無く金の臭いを漂わせる男がやってきて、若い娘を買っていく。その「貧しい村」であった私の故郷や似たようなところでは、割と有名な話だ。そして当然、そんな話があれば買われていった娘はどうなるのかといった話も出てくる。そういった黒い話題は得てして素早く人の間に広まるもので、小さな子供でも――例え意味は分からなくとも――小耳に挟む事があるような話であれば、十五になる私が知らないはずも、その意味が分からないはずも無い。ただ、私の行く先がどの辺りにあるのかが、すこしだけ気になった。東の都か、西の都か、あるいはどこかの町か。故郷に近ければ生活もしやすいだろうし、帰ることはできなくとも噂の中に故郷の話を聞くぐらいは出来るかもしれない。
「あの……。」
「ん?」
「……いえ。いいです。」
 やっぱり、止めた。
 振り向いた男の顔を見た途端に、こいつにそういう弱みを見せるのが嫌で、口を噤んだ。
 つくづく、嫌な男だ。どこがどう、と具体的に言えるわけではないけれど、その不機嫌そうな仕草も、精一杯自分を大きく見せようというのか、胸を張って歩く姿も、やたらと着飾ったそも服装も、その全てがやたらと癇に障る。しかも、これで案外それなりに偉いのかもしれないと思えばなおさらだ。そのままその顔を見ているのもいい気分ではなかったので、顔をふいと外、男の反対側に向けた。
 そして再びの沈黙。それ自体はついさっきまでとなにも変わっていないのに、一度何かを喋ろうとして、止めた後のそれは少しだけ居心地が悪くて。ふと、その沈黙が突然破られた。
「これから行くのは東都の外れ、花房だ。しばらく表向きの仕事は無いから、言いつけどおりにだけしておけ。」
 東都とは文字通り、この国の東の都。花房とはその中のさらに東にある有名な色街。私の故郷はどちらかといえば若干西の都寄りだったから、随分遠くになってしまう。
 ただそんなことより、突然そんなことを告げられたことの方に驚いて、思わず男の方を振り向いたまま固まってしまった。視線の先に居る男の方はといえば相も変わらず不機嫌そうな顔で前を見ながら続けて、
「わからないことがあるなら今のうちに聞いておけ。後になって店の人間に余計なことを訊かれると、教えておかなかった俺の方が怒られる。」
 などと言う。
 つまり、ここで遠慮されてもどの道迷惑だから、聞きたいことは全て訊いておけ、と。
 もちろんさっきの言葉がこの男の厚意や同情だなどとは思っていないし、避ける理由こそあれ、遠慮してやる道理も無い。疑問も別段思い付かないので、何も答えずに返事とした。ただ、やはりこの小男は使い走りだったのだという事がわかって、答えない私に対するものか、男のため息を背中に、なんとなく私は小さな喜びを感じた。

++

「着いたぞ。」
 男からそんな言葉がかけられた時、空は既に西の方を紅く染め、少しずつ暗くなりつつあった。家に明かりの無い農村では、そろそろ床に着く時間。それでも、私の瞼は僅かにも重くなることは無く、私の目はなんとなく窓の外に向けられていた。自分でも、分かっている。結局のところ、怖いのだ。もちろん、気持ちの上では怯えてなどいないつもりだ。思っていた以上に悲壮感も恐怖感もないというのは、本当の話だ。でも、私も結局はただの十五の娘なのだ。それが今から、まったくの未知に踏み込もうとしている。そこでは今まで当然のごとく保たれてきたものが容赦なく破壊され、蹂躙され、穢される。もちろん今更逃れる術は無く、刻々と迫りくるその未知を、身体は確かに恐れているのだ。そう考えると案外、私は覚悟など出来ていなくて、ただやはり自分の境遇を悲しむことも出来ないほどに感覚が麻痺しているだけなのかもしれない。
「早くしろ。そんなに暇じゃないんだ、俺も、お前もな。」
 苛立たしげに急かす男に苛立ち返しながら私は馬車を降りる。足元を気遣うようなそぶりも見せないのは周りの雰囲気からしてどうかとも思ったが、やめた。私は決して育ちが良いわけではないのだ。寒々とした農村で育って、そこから買われてきたただの田舎娘。だったらいっそ、開き直ってやれ。身に着けているのはみずぼらしい、布切れのような着物。心ばかり、と村を出る前に母さんが吹いてくれた身体も、周りの道を行く人たちと比べればどれほどのものか。どうせそんなものなら、少しぐらいはしたないと思われたって変わらないだろう。
「こっちだ。」
 男に促されて、馬車を降りてすぐ目の前の、赤い暖簾の前に立つ。何も書かれていない、ただ真っ赤な暖簾。別に何か変わったものでもないけれど、ただ軽く奥歯を噛み締めて、私はそれをくぐった。
 暖簾の中はなんとも不思議な空間だった。なんというか、においがするのだ。それ一つだけでもきっと私には分からない、色々なにおいが混ざり合って、私にはとても見当もつかないようなにおいになってしまった、そんな感じ。そのにおいが立ち込める番頭を通り抜けて、私と男は脇の方の小さな戸をくぐった。きっとここで働いている人間だけの通路なのだろう、暖簾をくぐってすぐに見えた廊下に比べれば随分細い、人が二人何とかすれ違えるような通路、その木張りの床を踏みしめて、男の着物で膨れさせた背中を見ながら歩いた。
 やたらと静かだと、思った。番頭を通り過ぎた時から気付いていたことだけど、特に頃の廊下は音が無い。左手には白い壁。そこに、時々まっすぐに立つ、真っ赤に塗られた細めの柱。右手には、何があるのか、ずらりと連なる障子張りの襖。その中に、ぼんやりと浮かび上がる明かりの色。聞こえるのはただ、私と、前を行く男の足音。きっと気のせいに違いないが、これではまるで、この廊下がずっと続いているかのように思えてしまう。それが、少しだけ気味悪くて、私は本当に軽く、肩を震わせた。
 と、その時、男が歩みを止めた。それもまた、突然に。おかげでその黒い羽織の背中に鼻からぶつかりそうになって、寸でのところで私は踏みとどまる。
「大人しくしていろよ。」
 何事かと視線で訴えた私に一言、それだけ釘を刺すと、男は右に向き直って、その目の前にある障子にそっと手をかけた。

++

「失礼します。」
「いいから、さっさと入ってらっしゃい。いつも言っているでしょう?」
 意外。男を諭した声の主が女だったことではない。その口調が、思いのほか丁寧だったことが。私は二、三度しか聞いたことが無いが、あれはお金持ちの、それでいて守銭奴とは程遠い、そんな商家のご婦人の口調に近い。今まで抱いてきた想像で、この街に着いてからの雰囲気で、こういうところの上に立つ人は、仮に女でももっと根の悪そうな人だと思っていたのに。
「へえ、その子が。……十四くらいかしら?」
 男の背中についてその部屋に入った途端、右手からそんな声が聞こえた。先ほどと同じ、品の良さそうな女の声。慌てて振り向いて、そのまま私の視線は釘付けになった。
 そこにいたのは、肌白の女。しかもそれが白粉の色ではない。否、確かに白粉の助けはあるだろうが、しかし、それは何度も何度も白い粉を塗りこんだ、不自然で暑苦しい色ではない。田舎者の私でも、あるいは田舎者だからこそ分かる。あれは、半分以上地肌の色だ。そして目じりにはそっと朱を、長く真っ直ぐな髪を束ねもせず、同じように広げた紅の着物の裾の上に流し。嗅ぎ煙草入れの飾りを細指の先で転がしながら妖艶に笑ってみせる。
「私を見なさい、黒主。」
「は……。」
「あなたもよ。私の、目を見なさい。」
 その「あなた」というのが私のことだと気付くのに少しかかって、慌てて私もその人の瞳に目を向ける。それでも、黒主と呼ばれた男同様に「恐る恐る」といった感じになってしまうのは……、仕方が無い。なんというか、畏れのようなものを感じるのだ。その独特の雰囲気に呑まれてしまいそうで、その長くなめやかな黒髪にからめ取られてしまいそうで。目を合わせるのが、怖い。そういえば、あの嫌な男が畏まって頭を下げているというのに、私にはそれを喜ぶ余裕も無い。
「もう一度訊くわね?あなた、おいくつ?十四?十三って言ってもぎりぎり通りそうだけれど……。」
「じ、十五、です……。」
 見た目幼く見えるのは私自身、少し気にしているので出来ればいわないで欲しいことだ。現にこの黒主という男も、最初両親から私を紹介された時に、幼すぎる、と突っぱねようとしたのだ。確か、このような町にでも一応の取り決め、というものはあるらしい。私の十五という年齢は、そのぎりぎりのところなのだとか。
「そう。まあ、一つや二つ溢れてても私はかまわないのだけれどね。」
 その人は、にっこりと笑って嗅ぎ煙草入れを開ける。紫の蝶があしらわれた箱の中、煙草の上に横たわる小匙か何かを惜しそうに一度だけ転がすと、そっと臭いを嗅いで蓋を閉じる。
「煙は出ないけれど、人に見せるものでは無いのよね、嗅ぎ煙草は。」
 そう、なのだろうか?よくわからないので、何も答えない。正直このまま俯いてしまいたいのだけど、あの目に見つめられては、逃れられない。
「さて、黒主。」
「はい。」
 なんとなく、その人の表情の雰囲気が変わった。
「どうかしら?問題はありそう?」
「特には。」
「そう。」
 それだけ言うと、その人はさっと指をそろえた左手を一振りしてみせる。それが合図だったのか、黒主は軽く頭を垂れて数歩下がった。結果、前に誰もいない状態で私はその人と向かい合ってしまう。
 冗談ではない。早くどこかに隠れてしまいたい。それなのに身体はその場所から動けなくて、着物の裾から出た膝が震える。ああ、情けない。
「フフフ……。私が怖い?」
「……。」
「……怖いのね。そこの黒主と同じ。」
 言って、もう一度含むように笑うその人に、黒主が私の後ろで小さく、何か答える。もちろん、私には口を挟む余地もない。
「でも、不思議ね。」
 どこが?何も不思議じゃない。
「あなたが怖いのは、私なのよね。」
 だって、あなたは美しい。それはもう、恐ろしいほどに。
「ここに来たこと、これから自分がすることではなく、あなたは私が怖いのよね?……そうでしょう?」
「……。」
 分かっている。この問いは、今までと違う。答えなくてもいい問いではなく、答えなければならない問い。しかも、嘘を言ってはならない。真実を、求める問い。
「答えろ。」
 背後から、黒主の声。
 分かってる。分かってる、分かってる……。
「そうでしょう?」
 その人が、水面のより深くを覗き込もうとするかのように軽く半身を乗り出し、
「……はい。」
 答えて、しまった。

++

 答えを聞くとほぼ同時、その人は立ち上がった。
 床の上に鮮やかに――この人たちは、「秋山の裾野のよう」とか言うのだろうか――広がっていた着物の裾も、長い黒髪も、全て一瞬で、波打つことも無く、ただ流れるように真っ直ぐに垂れる。そのままその人は、首の後ろでその髪を手繰り寄せると、丁度手元にあった、小さな机の上に並べてあった髪留めの一つ、柳に彩られたそれで簡単にまとめてみせる。頭の後ろで、長い後ろ髪は一つ大きな輪を作り、残りはまた下の方へ。すこし髪が持ち上がったぶん、首の後ろが時々露になって、私にはそれが恥ずかしい。
 気付けば、いつの間にか黒主は部屋から居なくなっている。あんな男でも、この人の前に一人残されるのと比べれば居てくれたほうがいいような気がして……、慌ててその思いを振り払った。あの男に居てほしいだなんて、冗談じゃない。
 そんな風に、戸惑いながら憤る私の前で、身支度を整えたのだろうか、その人は最後の確認とばかりに袖を広げて、自分の様に目をやっている。
「どうかしら?手早く済ませたにしては、合格?」
「……。」
 私はただ、その人を見つめ返すだけ。と、呆れたのか、諦めたのか、ため息混じりにその人が視線を横に外して、おかげで私はようやくその人の黒い瞳から逃れられた。
「ちょっと、着いてきて頂戴な。」
 その私の背後で、その人はあの品の良さそうな声で言う。品は良さそうなのに、いや、逆にだからこそ、私はその声にいとも容易く捉えられる。
 そして私は、今度はその恐ろしいまでに美しい人に導かれて、あの細い廊下へと出た。

++

 おかしい。
 ただ、なんとなくそう思った。
 些細なこと。だから、なんとなく。でも、確かにおかしいと感じた。
 まず、いつの間にか廊下が広くなっている。人がようやく二人すれ違えるような、あんな細い廊下ではない。五人、あるいは六人の大人が横に並んでも歩けるのではないかというような、広い廊下。一度もそんなそぶりは無かったのに、気付いたらこんなに広くなっていた。次に、音。あの細い廊下では自分たちの足音以外の音は聞こえなかったのに、ここは違う。なにか、不思議な音が聞こえる。水のような音、石が転がるような音。色々な音に混じって、時には人の話し声も。そして、何より臭い。ここは、臭う。時にほのかに、時にはっきりと。あの、番頭で感じた不思議なにおいが、ここには満ちている。
 そして私は歩みを止めた。今度もやはり、私の眼の前にいる人は突然止まったが、黒主の時のようにぶつかりそうになったりはしない。露になった項に目が行って、自然とその人の背中にも注意が注がれてしまうのだ。
「……。」
 その人は、喋らない。まるで何かを待っているかのように。
 始めは私も当然何も言わなかったが、立ち止まったままいつまでも黙られたのでは、困る。これは、話しかけなければならないのだろうか、と思った、そのときになって、その人は低い声で、口調は変えずに言った。
「良く、見ておきなさい。これが、あなたの来た世界よ。」
 そして、ゆっくりと左手を襖に。当然私の視線もそちらへ流れ……、
 すう、と
 飛び立とうと翼を広げた鶴があしらわれた襖が、開いた。
「う……っ!」
 その瞬間、逃げ出したくなった。立ち込めてきた、生臭い臭い。生魚に似た、しかしそれとは絶対に別物の。あふれ出した臭いは今まで嗅いでいた臭いにどこか似ていて、ああ、あれはこれと、なにか別のものが混じった臭いだったのか、と気付いたころには、膨れ上がった臭いに咽こんでいた。
 嫌だ!
 声にならない声で叫んで、逃げ出そうとした肩を掴まれる。
 振り返れば、そこには紅の着物を纏った黒髪の美女、もとい妖女。朱を刺した目を細めて、すくみあがった私の身体をそっと手繰り寄せる。私の着物で掌が土色に汚れるのも気に留めず、抱きすくめるように、しかし同時に逃がさぬように、私の両肩に手を置いて、前を見させる。
 床の上には、血、と思しき赤い物。他にも、濡れたような後や、溶けた寒天のような物。呆然と、それを眺める私の背中、少し上の方で、その人はゆっくりと語る。
「さっきまでね、ここにお客さんが居たのよ。遊女はね、今日始めてお客を取った子。あなたと同じようにして三月ほど前に買われて来てね。お初だから、凄かったわよ?悲鳴」
 動けない。私は、動けない。
「きっとあなたも近いうちああなるんでしょうね……。でも、大丈夫よ。怖いのははじめだけ。慣れれば、怖くなんか無い。怖くなんか、ない。」
 言い聞かせるように、そう何度か繰り返した後で、その人はそっと私の首筋を撫でた。それに驚いて、はたと我に返って。慌てて前に数歩駆け出した私が振り返ると、その人はただ、笑っていた。
 そして、私は気付いた。

 もしかしたら、とんでもない場所に来てしまったのかもしれない。