弐:籠目

その日は結局それ以上のことは何も無く、通された部屋の中で、私はただ、ぼんやりと膝を抱えて、隅の方に座り込んでいた。……いや、これはちょっと部屋とは呼べないかもしれない。むしろ、牢獄だ。畳も敷かれず、むき出しの上に塵や埃でざらざらと不愉快な板張りの床。ところどころささくれ立ってさえいるその床が延々と、そう、丁度今朝までずっと過ごしてきた我が家と同じくらいの広さに広がっていて。もちろん伊達に生まれてこのかたあの寒く貧しい村で過ごしてきたわけではない。この程度のことならば、別段気に留めもしない。だが、部屋と廊下の間を仕切る、木で出来た、籠の目のような格子。これには参った。唯一の出入り口、小さなくぐり戸には外から鍵がかかっているのが見えて、他三方のは廊下と同じ、頑丈な壁に囲われて。部屋の中には明かりらしい明かりもなく、格子越しに照らす廊下の明かりだけが頼りで。まさに、その有様は牢獄だった。
早苗と名乗った、あの美しい人に背を押されるようにして、私はこの部屋までつれてこられた。あの部屋の臭いが、光景が、おぞましい感覚が忘れられずに、ほとんど固まってしまっていた私は、そのまま優しく、しかし有無を言わせずここに入れられて、それっきり。あの人曰く、ここはまだ一度も客を取ったことのない者達をまとめて入れておくための部屋なのだそうで、いくら広いとはいえ十五、六もの人間がこの空間に押し込まれている、ということも、あまり人が多いのに慣れていない私の気分を悪くしていた。
「……」
心細さに、そっと膝を抱く腕に力をこめる。私の周りにいる子たちも私と似たようなものなのだろう、皆それぞれに黙り込んで、下を向いて、あるいは適当に寝転んで。部屋中の人間が皆そんな調子なものだから、息苦しくて、やりきれない。どうせならもっと、そう、この胸の支えが落ちるくらいに明るければよかったのに。これでは余計にひどくなるだけだ。
ああ……。
これからどうなるのだろう、とぼんやりと考える。少し前まではきっぱり覚悟を決めていたつもりだったのに、今更になって怖くなってきた。どうなるかなど、とっくに判っていたはずだろうに。ましてあれを見た後でそんなこと……。馬鹿みたいだ。
本当に……馬鹿だ。覚悟など出来ているつもりで、諦めなどついているつもりで、挙句どの街に行くのかなんて気にして。でも結局、私は何の覚悟もなければ諦めも着いていなかった。ただ単純に、自分の状況が理解できていなかった。わかってもいないのにわかったつもりになって。本当に、何をやっていたんだか。
ああ……。
ため息もつけずに、鼻から下を膝に埋める。今日は眠れる気がしない。なんとなくだけど、そう思った。
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 次の日、私は誰かに肩を揺すられて目を覚ました。眠れる気がしないなんて一人心地つぶやいて見せたくせに結局耐えられずに眠ってしまったのか。それでもまあ、ろくに眠れてはいないらしくて、なんとなく揺すられているのを感じてから目を開くまでに随分かかってしまった。
 眠気が残っていた割に記憶は随分はっきりしていて、それだけ自分の身に起こったことも、自分の置かれている状況も把握できていた。昔、両親が遠くに作物を売りに行くからと他所の家に預けられた時は、翌朝目覚めてもついいつもの感覚で親を呼んでしまったりしたというのに。
「あ、やっと起きた。ほら、早く立って」
 私を起こした相手は私と目があうなりそういって、私に負けず劣らず細い腕を差し出してきた。ただ私と違うのはその腕が随分と綺麗だということ。そして私より明らかに少し、そう、二つくらい年上。自分で立とうとしたけれど寝起きのせいかふらついてしまって、大人しく私が彼女の腕にすがると、微笑んだせいで垂れ気味の彼女の目元にある、小さなほくろが微かな笑い皺に隠れた。
「早くしないと。私達はね、朝の間にお店の掃除をしなくちゃいけないの。遅れると怒られちゃう」
 言われてみれば、部屋の中で他の子達も、皆それぞれに起き上がって、既に開かれているくぐり戸から順に外に出て行く。その列の横には、あの黒主と同じような格好で、しかし背の高い分それなりに様にはなっている、そんな男が無言で部屋の中に残っている私達の方に急かすような視線を送っていた。
「ほら、早く」
「……」
 少し先で急かす彼女に続いて、私も重苦しいその部屋を抜け出した。
++
 掃除の間、私は始終惨めな思いを味わう羽目になった。別に、大して気を払わずとも気がつくこと。あの牢獄のような部屋に押し込められていた中で、私だけがそれはもう、なんともみすぼらしい格好でいたのだ。明るい座敷に入って見渡してみれば、手が、足が、顔が、土の色に薄く汚れているのは私だけで、後は皆驚くほどに白い肌を着物の袖から、裾から出している。その着物の方も、裾も、袖も、丈が足らないという点では私も彼女達も同じであったけど、ここまでひどく汚れているのは私だけ。周りの皆の物は、比べていて嫌になるくらいにまっ白で。私は、せっかく皆が掃除をしている部屋に入るのもためらわれて、いつの間にか自然と、汚れた雑巾やら、拾い集めた塵やらを外に運び出すのが仕事になっていた。
「これもよろしくね」
「ん……」
「その後こっちも」
「……」
 でも、かといってこう好き勝手に人を使うのはどうなのだろうか。別に文句も言わなければため息もつかないけれど。
 心持ち、視線を他所にそらして、差し出されたぼろ布を受け取る。そういえばこの雑巾の汚れ様は私の着物のそれに良く似ている。……ああ、まったく……。
 と、そこにふっと横から別の、真っ白い手が伸びてきて、私が受け取りかけた雑巾を奪い取った。突然のことで、私も、雑巾を渡した方の子も、唖然として横に目を流す。そこに、朝私を揺すり起こした、あの子がいた。
「全部この子にやらせればいいっていうわけでもないでしょう?少しは自分たちでやりなさい」
 そういう性質の子なのか、彼女の言葉に楯突く者はおらず、何枚かの雑巾を手にこちらを向いていた数人は、おずおずと部屋の外に出て行った。
++
「あなたたちって……いつもこんな調子なの?」
「え?」
 私と彼女は並んで、ぬるま湯のはられた桶で雑巾をゆすいでいた。
「その、ね?あんなふうに、当たり前に話したりしてるの?」
「ああ……」
 なんと言ったものか、と迷いながら口にした私の横で、「あれのこと?」と彼女は少し先の座敷で掃除をしている一団を示してみせる。
 そう、今朝起きてからのこの空気は、私から見れば異様なものだった。昨晩のあの沈み込んだ空気が嘘のように和やかで。丁度、村で他の子たちと集まって話をしている時のような、そんな雰囲気なのだ。それが私から見れば異様で仕方が無い。
 だって、ここにいるのは私同様どこからか買われてきたような子達ばかりで、しかもいつ客を取らされるかわからないで。私など、昨日あの座敷を見せ付けられた後はあまりのことにしばらくろくに何も考えられなかったというのに、まして彼女達は私よりもずっと長くここにいるというのに。おかげで、私は今朝からどうも調子が狂ってしまって、この調子に巻き込まれつつあった。
「だって……あなたたちも皆、私と同じようなものなんでしょう?なのに……その……」
「……まあ、だからってどうにかなるものでもないでしょう?」
 立ち上がりながら彼女は言う。
「せっかく一緒にいるんだし。塞ぎこんでいてもしょうがないじゃない。もちろんあんまりうるさいと怒られちゃうから、大人しくしてないといけないけどね」
「……じゃあ、昨日のは?」
「ああ……」
 また同じ台詞。でも今度は彼女はそのまましばらく黙り込んでしまって。私がもう一度口を開こうとしたところでようやく、手にした雑巾を軽く握って彼女は答えた。
「昨日ね、私達の中にいた子がお客を取らされたの」
 ああ、そういえば早苗さんがそんなことを言っていた。
「面白い子でね、夜中に時々おかしな話をして、皆を笑わせてくれた。いい子だった。」
 私は何も言えない。
「昨日の朝あの子は連れて行かれてね。お昼ごろからあの子の声が聞こえてきて……」
「……ごめんなさい」
 彼女が急に深く俯いて、筋が浮くほどに拳を握り締めたのをみて言葉を遮る。そもそも、昨日の時点であの座敷を見ている私が、こんなことを訊く事が間違っていたのだ。しかも彼女のあの言葉を聞いたのならば、自ずと昨日のあの空気の原因も想像できただろうに。私の、馬鹿。
「訊いた私が悪かった。ごめんなさい」
「……いいえ。この話は、できるだけしないでね。皆、悲しむから」
「うん」
「勘違いしないでね?皆、別に忘れようとしてるわけじゃないの。でも……」
「わかってる」
 私も、そこまで馬鹿じゃない。一度禁句と知ったことを何度も口にするほど、馬鹿じゃない。
「たえ」
 ふと、聞きなれない声がかかった。顔を向けてみれば、私と彼女の前にもう一人の女の子。私よりほんの少しだけ背の高い、髪の長い女の子。眉の辺りまで前髪が伸びているせいで、微かに覗く白い顔が余計に白く見える。
「どうかした?」
 呼びかけられた彼女――どうやら「たえ」というらしい、と、私はこのとき初めて知った――が応じると、対する女の子は一度小さく頷いて、
「お座敷は終わった。あとはお部屋。そっちの子はお風呂」
 と、それだけ言って去って行った。
「あの子は……ああいう子なの。気を悪くしないでね?」
「ん……」
 と、答えはしたものの、なかなか無愛想もいいところだ。私も人当たりがいいほうではないと思うけど、あの子ほどひどくは無いと思う。正直、少しだけムッとしてしまった。
「あ、それと」
 と、一団の中に戻っていくその子の背中を目で追っていた私に、たえと呼ばれた彼女がさらに口を開いた。
「さっきの話、特にあの子の前では絶対にしちゃ駄目だよ。絶対」
 どうして彼女だけ特になのか、不思議に思って、振り向いて。でもそのときにはもう、たえはその彼女の後を追うように、皆の一団の仲に戻って行ってしまった。
++
 結論からいえば、私は非常に満足していた。アレがあんなに気持ちのいいものだったとは。肌の上を流れていく感触も、余計な物が全て落とされていく感覚も、全てが心地よくて、それを精一杯感じようと、思いっきり廊下のど真ん中で背伸びして、私は息を吸い込んだ。
「アハハ、ご機嫌だね」
 と、背後からたえの声。振り返った私の顔は、きっと少しくらいほころんでしまっている。
「そんなに良かった?」
「まあ、初めてだし」
 微笑んで尋ねてくる彼女に素直に答えるのは気恥ずかしくて、目線を少しだけ横にずらす。自覚してやっているから、余計に自分が恥ずかしい。
「そうだよねえ」
 言って、たえも一緒に笑う。
 それはまあ、当然のことなのだ。だって、あんなふうに全身を隈なく、しかも暖かいお湯で洗うなんていう事が今までに一度でも出来たような子は、間違ってもこんなところに来るはずが無いのだから。ここに来るということはつまり、他にどうしようも無いくらい家が貧しいということに他ならないのだから。だから当然私も、あんな経験は生まれて初めてだった。
 旋毛からうなじに、首筋から肩に、指先に、背中に、胸に、わき腹を、腿を、あるいは臍の上を跳ねて、最後には脛から踝、そして床へ。撫でるように、流すように、跳ねて雫を撒き散らしながら、小気味よく落ちて行く湯の感覚が、未だに肌に残っている。
「ところで」
 と、たえが笑うのを止めて切り出す。顔は妙に緊張していて、私も心地よさの残滓を胸の内に隠す。
「お風呂が終わったんなら、ちょっとついてきてくれる?」
「いいけど……、どこに?」
「姉様達のところ」
 姉様、というのが何のことかわからなくて尋ねた私に、既に店に出て客を取っている人のことだ、と彼女が教えてくれる。それを聞いて、少しだけ、胸の中の、羽が生えた幸せが落ち着くところまで降りてきた。
「大丈夫」
 そういう彼女の目は既に私の方ではなく、振り返った廊下の先、私達のあの牢獄部屋に向かう途中の、あの牢獄から抜け出た者たちの部屋が並ぶその最奥を真っ直ぐに見つめていて、おかげで彼女の言葉もまた、私ではなく他の誰かに向けられているような感を覚えた。
「気にしなければ全然、なんでもないことだから」
「……そう」
 それしか、答えられなかった。
++
「……ここ」
 歩いた距離は大したことのないもの。ただひたすらに真っ直ぐな廊下を歩いて、その中ほど、やたらと立派な絵の施された襖の前で、たえと私は立ち止まっていた。
 中に何があるのか、私は知らない。ただ、早苗さんの部屋に勝らずとも劣らない襖から感じる迫力に、そして、それを前にすっかり黙り込んでしまったたえを横に、なんとなく不安な感じがするだけ。中身がわからない私の感じる不安と、きっと中身を知っているに違いないたえの不安とは別物であるはずで、そのたえが傍目にもわかるほど顔をこわばらせている、というのが、なんとなくでしかなかった不安を少しずつ色濃くして行く。
「ねえ、一体……」
「よく聞いて」
 言葉を遮られた私は、今にも私の肩を掴むのではないかというたえの迫力に、大人しく彼女の言葉に耳を貸す。
「ちょっと怖いかもしれないけど、大丈夫だから。下手に何かしなければ、すぐ済むことだから、安心して」
 これだけ必死に語りかけられて安心できる人がいるなら、会ってみたい。
 結局たえの言葉で、私は少し前までの心地よさもどこへやら、すっかり緊張しきってしまって。心なしか奥歯を噛み締めてしまう私の前で、たえがそっと襖に手をかけた。狂い咲く桜の絵がするすると横に流れていき、眼の前の足元に広がる、まだ見慣れない畳の色。奇妙な、花の香りに似た臭いを微かに感じながら、私はたえに続いてその部屋に足を踏み入れた。
「遅かったじゃないか!」
 びくりと、すぐ前でたえの肩が跳ねる。私が部屋に入るなり、左手から、右手から、鋭い声が次々に飛んだ。
「白衣(しらぎぬ)の癖に、あたしらを待たせようってのかい?いい度胸じゃないか!」
「あんた、たえって言ったっけ?どういう了見だい?」
 一言一言、厭味ったらしい言葉を投げつけられるたびに、たえの私より少し高い背が、だんだん縮んでいくように思える。それを面白がるように投げつけられる言葉の棘は段々と鋭くなっていき、笑い声も混ざり始めて。
 ……え?これのこと?
 私は内心、拍子抜けしていた。
 つまりこれは、新入りの私と、既に店に出ている女との顔合わせということか。そして多分、たえがやたらと怖がっていたのはこの女達が飛ばす野次のこと。現に今も、すっかり緊張しきって固まった肩を、何か言葉が投げられるたびに小さく震わせて、たえは私の少し前を先導しながら座敷の奥へと歩いていく。でも、私にはこれのなにが怖いのかわからない。だって、私達の両脇に座っている色とりどりに着飾った女達は、ただ私達をからかっているだけじゃないか。私達が小さくなる様をみて笑って、より怖がりそうな声で怒鳴ってみて。そんなの、子供だってやっていることだ。そうやって年下の子供を泣かせて、その後私達や、親達に見つかって、泣かせた子供は泣いている子供に謝るのだ。それと同じことを、ただ化粧を塗って着飾った、ただの女がやっている。それのどこに、怖がる必要があるだろうか。
 ああ、もう。そう考えると、前をいくたえの背中が見ていてむず痒い。なんでこんなのを怖がることがあるの?こんな底の知れた連中の、なにが一体怖いのよ?
 いっそ後ろからつっついてやろうかと思って、さすがに、と思い直した丁度そのときだった。
「はいはい!その辺にしておきなさいな。ほら、あなた達も早くする。いつまでそこにつっ立ってるつもりかしら?」
 その声に、私達が部屋に入ってから、ほとんど前に進んでいないことに気付く。大体ここもほかの座敷と変わらないつくりならば、襖から入って突き当りまで行くのにこんなにかかるわけもないのだ。
 それにしても……。
 さっきまであんなにうるさかった周りの声が、うってかわって静まり返っている。本当に、その一言だけで、あたりの空気が変わってしまった。いっそ気味が悪いほどに。
 やっぱり、凄いんだ、この人は。
 改めて認識して、早足に行くたえの後ろの私もさすがに少し俯く。
 そう、本当に怖いというのはこういう人のことを言うのだ。そこにいるだけで妙な空気を纏っていて、匂いを漂わせる。どんな人なのか皆目見当がつかない、そんな人。部屋の最奥には、二人の私より小さな女の子を横に携えた、早苗さんが座っていた。
「来たね」
 言って、私と、たえの顔を見つめる。どうせならずっと喋っていてくれればいいのに、周りまで黙り込んでしまって、おかげで私は気を紛らわすことも出来ずに真っ向からその視線を注がれる。
 やっぱり、怖い。
 この人には、おかしな気配がある。何で、とかではなく、一緒にいるだけで落ち着かない、そんな気配。さっきの野次だけでもあんな有様だったたえなんか、この人の前ではろくに立っていることも出来ないのではないか。
そう思って、早苗さんに見つからないように視線を流した私は、驚いた。
たえは、臆するどころか、あの野次罵声の中よりもいくらか解放されたような表情で、早苗さんの視線を受け止めていた。怖いとか、畏ろしいとか、そんな雰囲気のまったくない表情で。
どうして……。
「私の目を見なさい。言ったでしょう?」
「はい」
 視線を戻すのを忘れてしまっていたのを見つかってしまった。
ああ、もう。こんなときにも、誰も笑うことさえしてくれないだなんて。息苦しい。
 落ち着かない心を無理矢理押さえつける私の目を舐める様に見つめ返していた早苗さんが、突然立ち上がってその目を外す。これで目をそらしたらまた見つかるような気がしたので、視線はそのまま固定する。
 立ち上がるときでさえ静かに、物音一つ立てない早苗さんの視線は私とたえの頭上を飛び越えて、座敷の左右に控えた女達に注がれる。ただでさえ私達が入ってきたときとは比べようもないほど静まり返っていた座敷の中がより一層静かに、かすかな音でさえをも捨てて、空気がさっと冷え込むような気がした。
「さて、この子が昨日来た新入りの子。あなたたちが昔そうだったように、当分は白衣として、時期が来たら遊女として、ここで暮らすことになるから、よろしくね?」
 最後ににっこりと、その薄化粧に彩られた顔で微笑んだ早苗さんに、私の背後で一斉に、沈黙を破って動く気配。そして、何事かと本当にすこしだけ、辛うじて後ろが窺える程度に振り向いた私の視界の端で、色とりどりに着飾った女達が、そろって早苗さんに頭を下げた。
「さて、今度はあなたの番」
 声をかけられて、慌てて視線を元に戻す。その優しそうな微笑も、私には怖い。横にいるたえは、まるでこの部屋の中の唯一の救いか何かのように、ほとんど崇めるような視線で見つめているのだけど。
「ここにいるのは皆あなたよりもずっと長くこの店にいる人たちばかりなの。ちゃんとご挨拶は済ませましょうね?……たえ、後はよろしくね?」
 たったそれだけ。ゆったりとした口調で言った早苗さんは、横にいた二人の女の子を先に立たせて、戸惑う私と、すがるようなたえの視線などには見向きもせずに、座敷を出て行ってしまった。後に引かれる着物の裾を、私は急かすような気持ちで、たえはきっと引き止めるような気持ちで、見送って、そして、私と、たえと、この大勢の女達が、座敷に取り残された。
「さて、と」
 誰ともなく、女が口を開く。
「じゃあ始めてもらおうかね。たえ、さっさとしな」
 一人だけ立ち上がったその女に名前を呼ばれて、またたえの肩が小さく震える。それを見た女達からはまた、あちこちで小さな笑い声。どうせなら、さっきの間に好きなだけ、私のことを笑ってくれればよかったのに。
「……こっち、来て……」
 どうするの、と視線を投げた私に気がついて、ようやく、ほとんど消えてしまいそうな声でたえが言う。促されるまま、私は彼女の後ろについていった。
++
「よろしくお願いします」
「……」
 女達の返事は、それぞれに、それなりに、陰湿で、とても礼儀正しいものではなかった。頭を下げた私の顎を持ち上げてまじまじと眺めてみたり、いつ火をつけたのか、煙管の煙を吹きかけてみたり、あるいはあからさまに無視して、鼻でふんと笑ってみせたり。たえに、なにをされてもなにもしちゃだめ、と言われていたから大人しくしていたけど、それでも何度怒鳴り返してやろうと思ったかわからなかった。もちろん女達が怖いわけでもなんでもないけれど、私だって不愉快にはなるのだ。そうしなかったのは、横にたえがいたから。私が何かされるたびに小さく跳ね上がられたら、こっちとしては怒鳴りようが無い。
 ああ、やっと最後か。
 ようやくこの不愉快な時間が終わるのか、と胸の内でため息をつく。女達は私の挨拶を受けた者から一人ずつ、あるいは二人くらいで一緒に座敷を出て行き、今残っているのは私と、たえと、丁度座敷を出て行こうとしている女と、そして最後、若草と朱の着物を着た女。この女に頭を下げて、また何かされるのを耐えて、この女が出て行ったら、終わり。
「よろしくお願いします」
 膝をそろえて、頭を下げる。
「……」
 返事は、ない。
 無視のクチか……。
 思いながら目線で相手の顔を窺って、驚いた。
 彼女の瞳は別に私を無視するわけでもなく、見下すわけでもなく、ただじっと、私のことを見つめていた。
 なんとなく見つめ返すのもおかしい気がして、戸惑いながらもあげた視線をたえの方に流す。それこそ私としては助けを求めるくらいのつもりでいたのに。
 こっちも?
 彼女のほうは、妙に視線を他所の方にそらしていて、私の視線になど気付くそぶりもない。
 私が起き上がってなお、俯いたままの女と、穴を開けようとするかのごとく、女の向こうの壁の一点を見つめているたえと、そして訳もわからずにちょこんと座っている私と。
 ああ、だれか助けてください。
 いっそ本当にため息でもついてしまおうかという気で天井を仰いで、ふと思い出した。
 そういえば、昨日一人、あの牢獄部屋から出たのがいるのではなかったか。たしかそのせいで、昨日の夜は随分と、部屋の空気が沈みきっていたはずだ。
 そう考えてよくみてみれば、彼女の雰囲気はどこか、既に部屋から出て行った女達とは違っていた。もちろん、こうしてただじっとすわって私のことを見ているだけでも十分異質なのだが、そういうことではなしに。落ち着くどころか沈んでいるようにさえ見えるような表情をしているのに、その実どうも感じる雰囲気はどこか浮き足立っているというか、なじみきっていないというか。……ああ、田舎育ち故の言葉の無さがもどかしい。
 大体、どうしてこの二人はなにか話したり、しないのだろう。二日前まで同じ部屋で寝ていた仲ならば、交わす言葉の一つくらいあっても良さそうな物ではないか。それなら、私もこんなことで歯がゆくなることもなければ、重すぎる場の空気に気が滅入ることもないのに。ああ、もう……。いっそ私から……。
「あなたも、早めに覚悟を決めておいたほうがいいわよ。そのほうが、その時が来た時がらくだから」
「え……?」
「……」
 出鼻をくじかれた勢いで思わず言葉にならなかった音が漏れてしまう私と、相変わらず私の横で黙りこくっているたえと。丁度冬の最中に囲炉裏にあつまって、寒さに肩を震わせて声を潜めて話すときのような、そんな聞き取りにくい声でそれだけを言うと、私達をその場に置き去りにして、彼女は立ち上がるとさっさと部屋から出て行ってしまった。
「……え?」
 二三度目を瞬かせて、ようやく理解が状況に追いついてきて、そしてもう一度、しかしさっきよりもはっきりとその音を口にする。一体、なんだったのか。黙りこんで人のことをずっと見つめていたかと思えば、何事かつぶやいてさっさと出て行ってしまって。じゃあ、私は一体何のためにあの重苦しい空気に耐えていたのか。……馬鹿らしい。
「これでおしまい?」
「……」
「……ちょっと?」
「え、あ、大丈夫だった?」
「……あなたの方が、大丈夫?」
 少なくとも私は、あとが残るほど強く唇を噛み締めて足元を見つめていたような人の心配を受けるほどには、辛そうには見えないはずだ。
「あれで、良かったの?」
「……」
 ああ、やっぱりダンマリか。
 こういう反応を、私は前に一度知っている。あの時はどうして何も言わないのか私には分からなかったけど、今なら少しハわかる気がするから。
「まあ、答えなくてもいいけどね。で?今度は何をすればいいの?掃除の続き?それともどこかの小間使い?」
「ああ、うん。たぶん掃除はそろそろ終わってる頃だから、私達は部屋で呼ばれるまで待ってるの。呼ばれたら、裏の通路を通って布団を変えたり、姉様たちに食事を届けたり……」
「疲れそうな仕事」
「ハハハ……。まあ、頑張ろう?」
 困ったように笑顔をつくって笑う彼女と一緒に、私は真新しい煙草と化粧の残り香が漂う座敷を出た。