参:夜明けの晩〜明けない夜

私がここにきてから十日がたった。別段変わることは無い、日常。部屋の状態こそひどいけれど、雰囲気の問題だかなんだか、一応毎日着物は洗わされるし、着替え用の着物も一枚もらっている。毎晩身体も洗えて、朝晩に食事も出来て。数日前までの村での生活とは比べようも無い、十分立派な生活のおかげで、私はすっかりここでの小間使いとしての生活に満足していた。それは諦めでもなんでもなく、本当に。だって、ここでの生活には、時々向けられる姉様達の視線と部屋の寒さを除けば、およそ苦痛といわれるような物がなにもないのだ。最初の日に感じた危機感だって、三日目が終わる頃には薄れ始めて、理解はしているのだけど、実感は確実になくなってきていた。
それはきっと、部屋の中の雰囲気のせいでもあるのだと思う。同じ部屋で私よりも前からこの生活を続けて、少なくとも私よりはここでの嫌な事を知っている彼女達が、どういうつもりで笑いあっているのかは分からないけど、その本心はどうあれ、明らかに感じられる部屋の中の明るさにも似た雰囲気は私のなかで、恐怖の実感を確実に薄めていた。
もう一つ、この数日でわかった事がある。それは、あの感じの悪い顔合わせの席で頭を下げさせられた相手がここの姉様の全てではないということ。あの時には気付かなかったけれど、聞いたところではあの集まりは早苗さんと私が顔を合わせるときにだけ居合わせていれば良いようで、座敷に上がるようになってしばらくすると、新入りとの顔合わせはせずに帰ってしまう人も居るらしい。そういう人たちは大抵私達にもどこか優しくて、そんな優しさもあるという事実も、私の緊張を解していたのかもしれない。
繰り返すが、決してあの恐怖を忘れたわけではないのだ。この先私に降りかかるであろう境遇も理解しているし、それを考えると体の芯が一気に冷めて、どうしてさっきまで自分は笑っていられたのだろう、と一瞬だけ不思議に思う。でも、それはあくまで一瞬のこと。この部屋の中の空気は、後から考えれば違和感すら感じるような朗らかさで、心の恐怖を押し流して消し去ってくれるのだ。
そして、その日。私がここにきてから十日がたった日の夜のこと。その夜の部屋の中は恐ろしいほどに空気が冷え込んでいた。ただでさえ夕方ごろからは薄ら寒い部屋の中、寝る前の僅かな時間からにぎやかな談笑がなくなってしまえば、その寒さを誤魔化すものは何もない。まして、聞きたくも無い雑音に混じって昨日までは一緒に笑いあっていた誰かの声が聞こえてくるとすれば、心穏やかで居られないのは当然のこと。
その日連れて行かれたのは私が姉様達に挨拶するのに呼ばれた日、私のお風呂のことを教えに来た無愛想な、たつという女の子。もちろん無愛想だと思ったのも私が最初に一目見て感じたことであって、実際のところは大人しいなりに笑うときは笑うし、話しかければちゃんと答える、普通の子だった。ただ他の子に比べれば元気が無かったのは確かなことで。その彼女が、昼前に早苗さんに呼ばれて出て行ったきり、その夜は帰ってきていなかった。
部屋のどこかで囁かれる話によれば、前の日に一人、姉様がお客に連れられて店を出ることになったらしい。で、あいたところを埋めるために、この部屋から彼女が連れられていった。それだけのこと。
何もおかしいことなどない。ここがどういう場所なのかを考えればいずれこうなるのは当然のことなのであって、ここに来た時点で誰もがそういう覚悟が出来ているはず。ならば、今更おびえることなど、何もない。
そう、自分に言い聞かせながら、私もはやり、他の子達と同じように布団の中で、自分の肩を強く抱いて、遠くから伝わってくる声を聞くまいと震えているのが精一杯だった。この惨めさ、情けなさを感じるのは、ここに来てから何度目だろう。父さんと母さんのところを離れた時に嫌って言うほど覚悟はしていたつもりで、でもここに来た途端にどんなに自分が馬鹿だったか思い知らされて。考えて自分に言い聞かせることと、本当にそれを目で見て、耳で聞いて、肌で感じて、思うこととの差を突きつけられて。あの瞬間のことを僅かにでも思い出すたびに、つい数日前までなにもわかっていなかった自分のことが情けなくなるのだ。それは、私にとっては、あの人のことを、あの人の辛さをまったくわかっていなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(ことを突きつけられたに等しいのだから。
「……やっぱり、そういうこと?」
「でしょ」
 膝を丸めて横を向いていた私の背中の方から、そんな囁き声が聞こえてきた。
 なんのこと?
 どうせ寝付けないのがわかっているから、寝返りを打って反対側に向き直る。しばらくこんなところにいるとそれなりに慣れてしまうものなのか、部屋の床に敷き詰められた布団の中にはところどころ、頭まで布団を引き上げながらも寝息を立てている子の姿も見受けられた。
「眠れない?」
 ちょっと離れたところで交わされる囁きに耳を傾けようとしていたところに、思いがけず近くからそう呼びかけられた。今更その声に驚きもしない。少し視線を手前に戻せば、底には私と同じように目を見開いて、真っ直ぐに天井をみつめるたえ、ここ十日、ずっと私に付き添ってくれた子の姿があった。
「……前からね、こんな噂があるの」
 何も答えない私に、少し間を置いてたえは語る。
「この部屋から誰かが連れて行かれるでしょ? お昼の間にこの部屋を連れ出されて、いつも寝るような時間になっても帰って来ない。部屋に残された子達はしばらくはしばらくは寝付けないんだけど、そのうち耐え切れなくなって、最後にはみんな眠っちゃう」
 他の子達は眠ってしまったのか、あるいはたえの話に耳を傾けているのか、部屋の中からはたえの声以外物音一つせず。廊下からかすかに差す、ゆれる蝋燭の灯りがうっすらと天井を照らし出す。
「だけどようやく皆寝込んだ頃になるとね、いつも朝起こしに来る男の人が突然私達のことを起こしに来るの。そして言うの、誰でもいいから一人、迎えに行けって。その時、連れて行かれた子を迎えに行った子が、その子をお風呂に入れてあげて、新しい部屋までつれていくんだけどね……」
 そこまで言って、たえが目を閉じた。眠ったわけではない。ただ、そっと瞼を閉じて一呼吸おくと、また天井を見つめて、言った。
「噂ではね、その時迎えに行った子が、次に連れて行かれることに決まるっていうの」
「もしかして、たつは……」
 私の問いに「そう」と頷いて見せて、たえの顔がこちらを向く。
「前に言ったっけ? あの子はね、その前に連れて行かれた子とすごく仲がよかったの。たつのほうはあんな子だから、一回仲良くなっちゃうと逆に離れられなくなっちゃったんだと思う。だから、『誰でもいいから』って言われて誰も名乗りを上げなかったときに自分で立ち上がって、自分が行く、って。そしたら……」
「……そういうこと」
 つぶやきで答えて、目を閉じる。あの大人しいたつの姿と、挨拶の席でたえと無言で向かい合っていた姉様と。二人がちょうど私とたえのように笑いあっている姿を考えそうになって、やめた。してはいけないと、思った。
「……」
 たえと同じように、橙色に照らされた天井を見上げてみる。いつの間にか周りからは寝息しか聞こえなくなっていて、部屋の外の音も大分静かになっていて。
 ゆらゆらとゆれる天井の明かりを見つめていると、少し前までが嘘のように穏やかな寝息を聞いていると、どんどん瞼は重くなっていって。
 ああ、でもどうせ起こされるならいまさら……。
 そんなことを思ったのもつかの間、いつの間にか、私の意識は飛んでいた。
++
 翌朝、起きた直後に部屋の中でその噂を耳にした。
『昨日の夜は、一人だけ起きていたたえがたつのことを迎えにいったらしい』
 なぜか夜中に起こされず、気付けばいつの間にか朝だったということで皆が何事かと言葉を交わすので、あっというまにその話は私達、白衣の間に広まった。そして、慌てて雑巾を手に部屋を飛び出した私は、一人他から離れたところで廊下の柱の前で、ぼんやりと雑巾をかけているたえの横に立っていた。
「本当なの?」
 飛び出してきたわりには何を言えばいいのかわからずに、そんなことを訊いてしまう。ああ、本当に言わなければいけないことはそんなことではないだろうに。ああ、でも、だったら何を言えばいいのだろう? 少なくとも私はこの子を責めることは出来ない。だって、たえが悪いわけではないから。むしろ部屋の中で誰かが話していたように、どちらかといえばたえはほかの皆の代わりになってくれたのだし。もし先になにも言ってくれなかったことを責めるのだとすれば、それはまず前の夜に話を聞き終わるなり眠ってしまった自分が悪いわけだし。でも、それなら、どうして、とでも訊けばいいの? でも、でもそれは……。
「だって、たつはあんな子なんだもの」
 思わず顔が強張った。
 どうして、どうして言ってしまうの。私が訊かなければあなたは言わなくて良かった。なのに、どうして言ってしまうの。
 わだかまる感情が言葉にならず、胸の奥に溜まる。そんな私の方に向かってたえは、まったく彼女らしくも無い困ったような顔で、言った。
「あそこで私が行かなかったら、他に誰も自分から行こうとはしなかったでしょう?」
 ああ、これでもう、私はどこにも逃げられない。
 確かに昨日の夜、たえは、たつを迎えに行ってしまった。
 足が柔らかくなって、胸には穴が開いて、頭が鍋で叩かれたような不安定で不愉快でどうしようもない気分。打ちひしがれた私の口からは、勝手に言葉が漏れ出していた。
「どうして……。自分で昨日言ってたじゃない。迎えに行ったら……」
「うん、そうなんだけどね……」
 私も、たえも、何も言えずに黙り込む。それぞれ握り締める手の中の雑巾。やがて、柱に添えられていた雑巾を握るたえの手が再び動き始めて、私は、それに促されるようして踵を返した。
 たえが呼ばれ、部屋から連れ出されたのは、あまりに早すぎる、それから僅か二日後の昼のことだった。