pon

平成二十年最初の週刊朝日を読んで色々。思いついたままを並べているので結論までまとめてはいません。
 まず、私ジャーナル(微妙に表記違うかも)において。
 時々そうだけど、あれ書いてる人はラノベを比較対象に持ち出すとき、単純に比較対象としてるのか、それとも嫌味を混ぜつつ挙げてるのか微妙な持ち出し方をする。そこでふと思ったんだけど、そも、ラノベ編集者でも書き手でも、そしてあるいはやや専門化しつつあるちゃきちゃきの読み手でもない人間が、あるいは有川浩作品のように一般的な娯楽小説として新聞に紹介されるものもラノベレーベルから出てきて、あるいはラ板の読者達はもうそれなりに前からラノベの範囲を策定することを諦めているような中で、どうやってどこまでがラノベと定めているのか。
 そりゃもちろん「らしい」ラノベのイメージはあるけど、「らしい」イメージを全面に出して対象を語る事がときに重大な誤解を生むこともそれなりに現実で示されていることなわけで。
 で、また思ったのは、どこかのログで見つけた、その内容はどうあれ、好きで読んでるほうにとっちゃどれも等しく娯楽でしかない、みたいな話。確かにそれは真実で、純文読みがときに娯楽小説をけなし、一般娯楽小説読みがときにラノベをけなし、ラノベ読みがときにケータイ小説をけなすような、一時的なジャンル間の優劣策定はあくまで付属物でしかない。
 とすると、そもそもジャンルわけが必要ないのではないか、とも思うけど、それも違う。たしか東大か京大の現代文の過去問で読んだんだとおもうけど、芸術を体系化するためにはどうしたってジャンルわけが必要なわけで、そしてその体系化がなされなければ、基本的には模倣の中で発展していく芸術が、成長する事も無い。もちろん何の模倣も抜きに創作を進めていくことも不可能ではないのだろうけど、それには膨大な時間と労力が(今以上に)必要になり、芸術は発達しても繁栄はしない。


あと、今回の週刊朝日の中で幾度か名前を見かけた統制社会について。
 ヘーゲル(だったかな? ルソーかあるいはホッブズかも。倫理のチャートを見直す気分じゃないので)が言ったように、市民は一度自由を手に入れるとそれを手放したがらない。現状においてはそのことは市民に与えられた権利だし、それどころかそれを奪おうとすることの方が悪だとされているけど、でも実際問題少し前までそんな社会の方がありえない話だったわけで、それを考えると、そこの正しさをさだめているのは結局のところ、市民の権利を手放したくないという思いと、そういう思いを抱く市民のだれもが国家の側に席を移しうるし、国家の側からいつ市民の側に移ることになるかも知れない現行の社会制度でしかないんじゃないかと思う。つまり、それが必ずしも人間社会にあるべき正義を体現した形とは限らない、ということ(いまさら取り立てていうことでもないかもしれないけど)。それが別に市民の権利に限らず、社会のあり方とかその他もろもろについても言える中(例えば絶対王政とか領主制とかのなかでも、そこで暮らす被支配層の人間が必ずしも現状に不満を抱いている、悪だと思っているとは限らないわけで)で、自分が正しいと思うこと、求めることを確実に、安定して実現するための現実的な手段は、やっぱり大衆操作なんじゃあるまいか。うまくツールとソースを確保して、世相を味方につける事が、当面はこの社会で自分の言い分が善であるという保障を得る上での現実的な手段なんじゃないか。もちろん大衆操作の対象になるのも、してるやつをみるのも気分のいい話じゃないけど、自分でするのは結構たのしそうだし。
ところがここにわなが在って、他人のしている大衆操作は見ていて気分が悪く、自分が大衆操作を行うのは気分が良いという前提に立つ場合、二つの操作された大衆がぶつかり合った場合には治まりがつかない可能性がある。本格的な衝突であるほど前提とされる操作の完璧さは上がらざるをえないし、擬似的な支配者の立場にいる人間がそこに固執すれば和解も望めない。そうなると、それこそイデオロギー闘争に発展して、そこに熱狂できる奴はいいにしても、部外者は良い迷惑だし、終わってみれば当事者達にも大概はねっかえりが待ってる。
そこを考えると、理想的なのはやっぱり十七条憲法第一条として伝わる、徹底的に、互いに納得がいくまで話し合う姿勢なんだよね。利害とかもろもろを抜きに、心底誠実に話し合った結果の「納得」は、結果的に論を曲げることになったほうにとっても(それが客観的に正しいとは限らないのだけど)「自分が間違っていた」という認識があり、両者の間に新たに共通の善意識が芽生えているから、本当に心の底から同じ価値観を共有する相手として手を取り合えるはずだし。でも、そこに必要とされる時間の膨大さとかを考えると、あまりに現実性にかけるんだよね、これは。


最後。東工大の人が書いてた、実際は温暖化の心配なんか無くてむしろ怖いのは寒冷化、という話。
あいにく自分には実際の科学的データが無いからどこまでこの人の言う事が正しいのかは判断しかねるけど、実際に起こったときに恐ろしいのは、確かに寒冷化だと思う。少なくとも水分が地表に最低量存在している限り人間が生きることはできるけど、寒くなった結果の、食糧難は温暖化による水不足よりも簡単に怒りうるんじゃないかと思うわけです。縄文海進のころはいまより海水面がおよそ二メートル高かったらしいといわれる中、温暖化でこわいのは当面は人類の存亡よりも人類の社会、文化の存亡にかかわることなわけで(もちろんそれが間接的に人類の存亡にもかかわりうるわけですが)。ただし、今温暖化が進行しているという立場から立てられている予測では、百年後には海面は二メートルどころか五メートル上昇するとか。そうなると、ちょっと話もかわってきますよね。

ああ、あとあれだ。電機消費がどこまで温暖化を助長してるのか知らないけど、あっちこっちの政府は温暖化防止を叫ぶんなら夜間の宣伝照明、装飾照明(とくにこっち)の規制でもすればいいと思いますよ。夜の間なんていくら街中にいるっていっても人がたまるのは公園か建物の中かどっちかなわけで、外側にむかってあんなに電力消費する必要ないじゃないですか。
あと過疎集落の復興とかも頑張ろうとしてるみたいだけど、個人的には、そこに住みたいという人が少なくなりつつある場所に無理矢理人を集めようとがんばることも無いんじゃないかと思います。それよりは人のいなくなったところから国有林化でもすすめて緑化を進めてみるのもいいんじゃないかと。この意見が、その場所に住みたいって人のことをまったく考えていないことは百も承知ですが。