11.隙間

「だからね、もういい歳なんだから、しかるべき距離感が必要だと思うわけだよ、適度な隙間というかさ」
 夏の空、蝉の声、嫌味なほどに照りつける太陽。早くも浮かぶ汗を拭いながら、わめく男が一人。
「よく言うね。突然人の部屋にやってきたかと思ったらご飯食べた上にそのままソファーで寝ていく人が」
 どこかで聞こえる子供の笑い声。つばの広い麦藁帽を片手で抑えて、男の手を引く女が一人。
 時間が経つほどに暑くなる夏の朝、住宅街と駅前の繁華街の境を走る通り、そこにぽっかりと開いた地下鉄の出口を、言葉を交わしながら登ってくる男女の姿があった。
「金も時間もろくに無い新人にはああいう日も必要で、日曜日は貴重な安息日なんだよ! それをなんの……」
「はーいはい、わめかない。近所迷惑でしょ? このあたり一歩入れば住宅街なんだから」
 涼しげなワンピースの上から薄いシャツを羽織って、短くそろえた髪を揺らすのは三木佳織。
 対してTシャツに量販店の麻のズボン、後ろのポケットから財布をはみ出させて行く三木裕行。
 社会人一年生の兄が大学生の妹に半ば引きずられるようにして、住宅街の方、駅前への近道へと入っていく。
「いい? 確かに壊れたのは私の部屋の扇風機。でも、アレを一番よく使ってたのも、拾い上げた紙くずを飛ばして部屋を散らかしたのも、挙句寝てる間に蹴飛ばして壊したのも、全部お兄ちゃんじゃないの?」
「最後の一つに関しては記憶が無いと何度言えば……」
「朝、人の部屋で目覚めるたびに何度同じことを言えば気が済むの?」
「……」
 黙りこむ裕行。どこかでなる風鈴の音が、悲しい。
「それに、今日はお昼から学校に顔出すんじゃなかったっけ? 今朝私が起こしに行かなかったら何時まで寝てたのかしら」
「わかった、わかったから……。さっさと済ませるぞ。チンタラしてるとお前の部屋に置きに行く時間がなくなるだろ」
「ああ、そんな時間いらないから大丈夫」
「え?」
 裕行の表情が輝く。やる気も乗り気もしないがことの責任が自分にあるのは確かなわけで、だから妹に新品の扇風機を買ってやった後、そのまま部屋までの荷物持ちも頼まれるくらいのことは覚悟していて。だから、体力まで消費せずには済むのかと、一瞬、あまりに淡い期待を抱いた。
 そして、そんな期待は大抵、砕かれる。
「私も久々に様子見に行こうかと思ってね、くっついていくから。その跡で運ぶんだったら、時間は十分あるでしょ?」
「な……っ!」
 そんな無茶苦茶があるか。
 ここ数日最高気温35度以上は当たり前。汗をかいた分水を飲み、食欲がわかずに翌日余計に辛いという悪循環。
 未だ台風も訪れず、ただひたすらに夏真っ盛りのこの中で、扇風機のダンボールをいつまで持ち歩かせようというのか。
「昔、練習帰りそのままぶっ倒れてるお兄ちゃんの荷物を一緒に片付けてあげたのは誰だったかな?」
「……」
 そして、やっぱり何もいえないわけで。
「まあほら、晩御飯、ちょっと豪勢に作ってあげるからさ。いいよね?」
 文字にすれば「?」がついていても声にしたときに「♪」がついているのは質問とは言わない。
 結局裕行は首に見えない鎖をつけられて、ずるずると引きずられるように……。


『五月蝿いですね、朝から』
「というか不幸というか情けないというか……」
 そんな二人の後姿を、レースのカーテンの隙間から、本を片手に見下ろす亮と霞の姿があった。