8.翼

ああ、なんと心地の良いことだろう。
両手を広げ、吹き付ける穏やかな風を感じながら、両の瞼を閉じて。
ざわめく青草の茂る丘の僅かに上空を、彼は文字通り飛んでいた。
体は、ちょうど翼が生えたかのように軽い。
降り注ぐ春の日差しは柔らかく、通り過ぎていく風の涼しさと相まって爽快なることこの上ない。
もう長いこと、ほとんど毎日、彼はこの夢を見ていた。
何も邪魔する物のない空間を自由に飛びまわり、丘の斜面を滑り降り
最後は大空に向かって舞い上がったところでこの上なく気分良く目が覚めるのだ。
そして、その時も彼は、いつものように大空に舞い上がろうとして
大きく息を吸い込むようにして、大空を仰いだ。
はずが、なぜか動いたのは首より下、顔は正面を向いたままに、勢い良く真下を向く自分の体。
もがこうとしても体は思うように動かず、振り回す手足がつかむ物は無く。
正面には、嫌味なほど青々と生い茂った若草と、その隙間に見て取れる土の色。


「ぶはぁっ……!」
そして、久方ぶりにいつもと趣向の違う――出来れば見たくもないような――夢の果てに、彼は目覚めた。
そろそろ三十路男も板についてきて、結婚後の生活も順調。
学校にもかつての天敵とも言うべき兄弟のような影はなく、心配することなど何も無いはず。
そんな芹山孝治の、変人ばかりが集う親族が皆集う都内の高層マンション、を数軒離れて見上げる四階建てマンションの一室で迎えたある日の朝。