10

「……」
「はあ……」
 休み時間。晋治はため息をついた。
 場所は教室を出てすぐの廊下。肩の上には、こちらの困るのをみて楽しいのか、笑っている白い猫又。眼の前には、いつのも笑顔を貼り付けた藤崎陽菜。にっこりと、その真意を知っているからこそ、背筋の凍るような笑みを浮かべて、少し下からじっと晋治の目を見つめてくる。それこそ、逃がす隙も与えまいとするかのように。
 あのとんでもない、かつ晋治にとっても訳の分からないアクシデントの後、授業が終わるなり、猛然と歩み寄ってきた陽菜に、有無を言わせずといった様子で腕をつかまれ、足元にまとわり着く小さな居候にからかわれながら、廊下に出されて、状況は今に至る。つまり、一体なにがどうなっているのか説明しろと、この眼の前の笑顔の少女は言っているわけだ。それはまあ、気がついたらいつの間にか教室の中に猫がいて、しかもそれが喋っているのだ。しかもよく見れば、尻尾が二つに割れているとあれば、何か感じないわけが無い。まして、文芸部で日ごろから話のねたを溜め込んでいるような人間ならばなおさらだ。事情を知っていそうな人間が身近にいれば、問い詰めないわけが無い。
「えーっと、あのな?」
 どうせこのまま黙っていても見逃してはもらえないのだ。諦めて、言葉を選びながら晋治は語る。
「とりあえず、お前がなにを期待してるか知らないけど、俺はお前に教えられるようなことは……」
「ねえ、加藤君」
 知らず農地に横に逃がしていた視線を、その一言で真前に戻す。この笑顔からは、どうにも逃げられない。
「な、なにか?」
「お願い。そのねこまたちゃん、私に貸して?」
 ……一体なにを言い出すのだ、こいつは。
 この、無礼極まりないうえに訳の分からないというたちの悪い居候を、よりによって自ら貸せと?いや、大体それ以前に、「ねこまたちゃん」?
「あ、心配しなくていいよ。その子を貸してくれたら、このことは誰にも言わないから」
 なぜさらに脅す?
「……悪い。そんなことよりも俺はお前の頭が心配になってきた」
 言ったとたんに陽菜の笑顔が顔のより広くに広がって、慌てて晋治は顔を適当に背けて誤魔化す。笑いながら怒る人は、男でも女でも大抵他より恐ろしいのだ。
 一体どう答えた物なのかと、黙り込んで思案する。状況の説明を求められるならばいざ知らず、それを丸々吹き飛ばして、この居候を貸してくれといわれようとは思っても見なかった。そんなものだから、
「どうしたの?なやむことなんてないでしょ?……女の子の間の噂は怖いよ?」
 そう言われるまで、つい対応に悩んでしまった。
 そう、ここで断れば、絶対に悪いことしか待っていないのだ。万が一晋治がここで彼女の願いを突っぱねでもすれば、翌日にはこの一時間の間の晋治の挙動不審に対して、それはもうさまざまな解釈がなされてクラス、あるいは学年に広まっていることだろう。眼の前の少女の手にかかれば物語はそれなりの現実味を帯びるであろうし、この、変なところで妙に律儀な少女は、それくらいはやってのける。
 それに、そもそも晋治がここで悩んでやる理由が無い。たちの悪い居候を引き取ってくれるというならば、貸すどころかいっそ身柄をまるまる引き渡してしまってもいい。むしろその方がいい。
「ああ、す……いってえ!」
 好きにしろ、と言おうとしたのが悲鳴に変わる。振り向くまでも無い、件の居候に力一杯引っかかれた足を抱えて飛び跳ねる。痛みをこらえながら、何が起こったのかわからない通行人たちの視線がどうも冷たい気がした。
「人様の話を本人抜きでするんじゃねえ、この馬鹿が!」
「わあ、やっぱり喋った!」
 何とか再び襲い来る爪は逃れた晋治などとっくに視界の外。悪態をつくソイツを見つけるなり、陽菜が歓声を上げる。というより、目の前にいるのが猫又だとわかったとして、それが存在するという事実に少しくらいは妙な物を感じたりしないのだろうか。不思議に思ったり、違和感を抱いたり。少なくとも、陽菜からはそのようなものの燐片も感じられないのだが。
「ねえ、あなたってやっぱり猫又なの?いろいろ話、聞きたいんだけどなあ」
「あ?なんだお前」
 ただの猫となんら変わらない顔を不愉快そうに、さながら人間のごとくに歪められても少しも怖気づく様子も無い。あれはあれで、晋治としてはなかなか見ていていい気はしないものだと思うのだが。
 そんなことを考えながらなんとなく蚊帳の外の晋治を他所に、一人と一匹の会話は続く。別段どちらが優勢で話を進めるわけでもなく、あくまで対等な会話がそこにはあって、今のところ、一度たりとも優勢どころか対等な立場での会話すら出来ている気のしない晋治には、それだけでも陽菜に感心してしまう。ただ一つだけ、何も無い空間に向かって、屈みこんで熱心に話しかけているこの様を、一体どうやって、後で説明するつもりなのだろうかと不安にはなるのだが。
「!」
 刹那、殺意めいた危機感を感じて横に飛びのく。一体何事かと右、ついさっきまで自分の立っていた場所に目線を落としたのもつかの間、僅かに一瞬だけ白い物体が視界に映って、
 ガブリ
 結構深く、脛に噛み付かれた。
「避けるんじゃねえ、偉そうに」
 無言で屈みこんで、痛みに振るわせる肩の上に、理不尽な追撃者が飛び乗ってくる。
 今更文句を言ったところでどうせ余計に痛い目を見るだけなのだから、と黙って立ち上がる晋治に、ソレはご丁寧に耳元ぎりぎりまで鼻面を寄せて、なめるように囁いた。
「今日、アイツの家に行くことになった。お前も付き合えよ?」
 アイツ、と言って目線が示す先は、確かめるまでも無く陽菜の笑顔。一体肩の上のこれをどうやって言いくるめたのか、そしてその猫以外の何物でもない顔を不気味に歪めた妖怪はなにをたくらんでいるのか。晋治はなにか、とても恐ろしいモノ二つに挟まれてしまったような気がした。