5-2

 ああ……、ああ、もちろんこんな状況を一度や二度思い描いた事が無いわけじゃない。趣味であれなんであれ、文章を書いていればこんなシーンを想像してみたこともあるさ。
 晋治は胸の内で独白する。
 そう、確かに、このような現実離れした状況をイメージしたことは何度かある。あるときはその状況を描き出す文章を読みながら、あるときはそのような文章を書きながら。しかし、それらはあくまで虚構の上での話だ。あくまで頭の中でのものであって、間違っても現実になることなど、ありえるはずもないことであるはずなのだ。
 だというのに、どうしたことだろう。もう、目を疑うまでも無い。目の前、先ほどまで金目銀目の白猫がすわっていたはずの場所、それが一度だけ顔を洗ったその場所には、一人の女が立っていた。
 身に纏うのは白い浴衣。その襟元から、袖から、裾から、あるいは浴衣とは対照的に艶やかなまでに黒い髪から、覗いて見える素肌もまた独特の白さを持っていて。それだけならばはかなげにも上品にも見えない事は無いのに、唯一つ、意思の強さを体現するかのような深々と、しかし確かな存在感を持った黒い瞳がその印象を完全に壊してしまっていた。
「……おい、いつまでぼさっとしてるんだ。」
 まあ、こんな口の利きようでは見た目の差異など大した差ではないのかもしれないが。
「あ〜、なるほど?こうやって人の姿に化けていろいろやってましたっていうことか。」
「そういうことだ。」
 機嫌良さそうに口元をほころばせるので、「ホントに雌猫だったんだ」という感想は言わないでおく。もちろん猫の姿の時のような爪も牙もないかもしれないが、そのぶん拳骨や蹴りの一つは飛んできてもおかしくないように思えた。
 そうだ。有名な話、確かに化け猫や猫又と称されるものは時に人の姿に化けると聞く。というより、この手のある種神格化した動物は、日本の昔話などでは大抵人に化けるのだ。それを、晋治はすっかり失念していた。
「まあ化けようと思えば他にもいくつか顔は持てるんだろうけどな。いまんとこはこの顔だけだ。」
 言いながら浴衣の袖を整える。
 物語だとこの場合、耳だけが残ったり尻尾だけが残ったりするものだがそういったものはどこにも見受けられず、その姿に似合わぬ物言いだけが辛うじて、あの口利きの悪い、現実離れした化け猫と、目の前の姿だけは上品な女性の姿を結び付けていた。
「さて、と」
 晋治が特にかける言葉もないでいると、なにかもったいぶったような仕草、しかし一方で慣れた様子も見て取れる、そんな調子でソイツが一度、顔の前に掲げた浴衣の袖をさっと振り、靡かせた。
 妙な、そう、まるで視界が一瞬混濁するような違和感。眼球になにかしらの衝撃を受けた時に似たそれを感じて、直後に晋治が瞬きしながら視界を回復した時には、目の前からは浴衣姿の女性は姿を消し、さも当然のごとくに座り込んで毛づくろいに励む一匹の白猫の姿があった。
「なんだ、元に戻るのか。」
「あ?ああ、何だかんだ言ってもあの格好は慣れきらない上にかさばるからな。……それとも、中身がこれでももう少し女と一緒が良かったか?」
 ほくそ笑んだ顔に浮かぶのは、不気味さとどこか癇に障る嫌味。それと先ほどの女の顔を重ね合わせて、ああ、こいつは確かに『化け猫』だ、と晋治は思い直した。