「いやあ、うまかった。ご馳走様。」
 突然襲い掛かっておいて第一声がそれか。
 俺はため息混じりに布団の上に胡坐をかいている。左の首筋にはとりあえず間に合わせで当てたティッシュ。そして目の前には……
「やっぱ久々に飲む血はうまいな。うん。」
 満足そうに顔を洗う、俺を襲った襲撃犯かつ金目銀目の白猫一匹。
 エジプトあたりの猫の像のようにチョコンと行儀良く座り込み、その背後でゆらゆらと揺れる尻尾。よくよく見ればそれは中ほどで二つに分かれていて、怪談に聞く猫又を連想させた。もっとも、目の前にいるそいつは、『人を襲う化物』という認識とは少しずれて、どうにも雰囲気が図々しく、流暢に喋る言葉の口調はどういうわけか澄み切っていて綺麗なのだが。
「……どうした?なんか喋れよ。お前、人間だろ?」
「……どう考えても猫に言われる台詞じゃないな」
「ん、まあ確かに。」
 顎を少しだけ開いて、目を細めて、カッカと笑うその表情はどうにも気味が悪い。
 背筋を掠める寒気に小さく肩をすくめて、その嫌な笑いを止めさせるためにも俺は言葉を紡ぐ。
「で、だ。一体お前は何なんだ?何がしたくて、どうしてこんなところに現れた?」
「おお、一度によくもまあ色々と尋ねる奴だな……」
 言って、悪びれもせずに大あくび。いっそデコピンの一つも食らわせてやろうかと思い立ったところで、ようやくそいつは俺に向き直った。
「しかし、言わなきゃ分からないかね?猫又だよ、猫又。知らねーのか?」
「……知ってる」
 そう、目の前にいるそれは、いうなればまさに猫又だ。尾が二股に分かれ、人語を理解し人語を話す。基本的な特徴は昔話や怪談に聞くそれに寸分たがわず合致する。
 そういえば、どうして俺はそんなわけのわからない、いるはずのない、妖怪に類されるものを相手にこんなに平然と話を進めているんだろう?……そもそも、どうしてそんなものがここにいるんだろう?
「で、何がしたくてって話だがな?」
 自分の神経だとか、目だとか、耳だとか、いろいろを疑って首をかしげる俺を他所にそいつは続ける。
「このたび晴れて猫又の仲間入りを果たした俺ではあるけど、まあせっかく人語が喋れたところで話し相手がいないんじゃ面白くないだろ?そんでまあ、とりあえずの話し相手とか、その他もろもろの確保のためにうまくいきそうな人間を探していたわけだよ。……ああ、この部屋にいたのはほとんど偶然だぞ?このマンションの前を通りかかったらこの家だけ明かりがついてたんでな、適当に上がらせてもらった」
「どこからだよ」
「風呂場の屋根裏。ついでに身体も洗わせてもらったけど、悪しからず」
 言って、また笑う。
 確かに風呂場の天井っていうのは大抵、ガスの整備のためだかなんだか知らないが、マンションでも屋根裏が簡単にのぞけるようになっている。どうやって屋根裏に入り込んだかは知らないが、まあ静かに行動してさえいれば、パソコンを触っている間は常に耳にイヤホンをつけている俺には気付かれずに入り込めるだろう。で、勝手に人の部屋に上がりこんで風呂上りの身体を冷やしてましたよ、というわけか。
「つくづく、図々しい奴だな」
「野良生活五十年の図太さを舐められちゃ困るぜ!」
「そこは別にかっこつけるとこじゃない」
 牙をむいて片方の前足を招き猫のように挙げているのは……おそらくこいつなりの決めポーズなのだろうと解釈。まあ、全然決まってないのだが。
「てか、野良だったのかよ、お前。変なもん持ってないだろうな?ん?それよりも俺、そのお前に噛まれてんじゃ……」
 冗談じゃない。夜中に身元の知れない喋る野良猫に噛まれて、高熱に魘されて苦しみながらの病院行き。最悪だ。
 今更ながらにうろたえる自分が情けない、が、格好を気にしている場合でもない。と、目の前のそいつは俺の不安を鼻で笑って、前足をぶらぶらと振りながらつまらなそうに言った。
「五十年も生きてりゃ、付く虫も付かなくなるもんさ」
「怪しいもんだ。どこになんの根拠があって……」
「何ならもう一度噛むぞ?さっきは軽くで許してやったが、そんなに確かめたけりゃぁ次はガブリといってやる。」
 浮かぶ笑顔の不気味さと、言葉に潜む冷たさに口を閉じる。しかしまあ、あれは一応『軽く』なのか。その割りにやられたときは痛かったが、事実、今はもう血はすっかり止まっていた。
「じゃあ、もう一つのほうだ。どうして俺なんだ?話し相手くらい他にも居るだろうに。」
 そもそも、昔話とかだとこういうのは大抵、優しい爺さん婆さんのところとか、しがない長屋暮らしの家族持ちのところに現れて、どこへともなく消えていくものじゃないんだろうか。そうでなければ、もっと妖怪然として、目のあった奴をその場で襲うとか。こんなどこにでもいる高校生のところに猫又が現れました、なんていう話は聞いたことが無い。
「そうだなあ……。」
 と、そいつもこれには返事に困ったのか、考え込んでいる。ああ、後ろ足で耳の後ろを忙しなく掻いたりしていなければ傍目にも思案に耽っているように見えただろうに。
「あれだ、なんとなく、お前は非常識人なような気がしたからな。」
「……は?」
 考え込んだ挙句、俺を選んだ理由が『非常識人みたいだから』?
 唖然とする俺を前にしかしそいつは一言、
「だってそうだろ?常識人はこんなふうに真顔で猫と話したりしないぜ?」
「まあ……、確かにその通り。」
 それが紛れもなく事実なだけに、痛い。本当に、俺の神経はどうかしているんじゃああるまいかと、一人首をひねった。
「それにだな」
「まだあるのか」
「お前、後ろに憑いてるもろもろの中に猫が居る。」
 またしても、俺は言葉をなくした。
 まったく、仰天ものだ。夜中に現れた猫又に、『あなたは猫に憑かれています』などと告白されるのだから。常識外れすぎて、案外そこらの心霊番組よりは信用できるような気がする。
「俺に良く似た若い雌猫だぜ?せいぜい十年くらいしか生きてないみたいだが、まあもう死んでるぶん俺よりはちょいとばかし偉いってことになるか。で、こいつがな、俺の顔を見るなり言うんだよ。『この子の世話は私で事足りてる。お前はさっさと失せろ』ってな。そんなふうに喧嘩ふっかけられたら、余計に退けないだろ?」
 そして、また笑う。
「なあ、それマジか?」
 ためしにそう聞いてみれば、
「おう、残念だったな。あんた、『この子』に存在そのものを疑われてるよ。」
 と言ってまた笑う。
 誰か、この猫を少しでも黙らせて大人しくさせられる奴が居るなら助けてくれ。
「ん?てことはお前も雌なのか?」
「ああ、そうだぞ。なんなら股座でも見てみるか?」
 言って腰を上げようとするが、いろいろと気を害しそうなので遠慮。それが面白かったのか、そいつはまた顔を歪めた。
「まあ、そういうわけだ。よろしく頼むぜ、加藤晋治君?」
「ちょっと待て、どうして俺の名前を知ってるんだ。」
「そりゃお前、これだけ机の上に名前書いた物が置いてありゃあな。生徒証に書いてあったんだから、本名なんだろ?……ああ、無視して寝ようとするなよ?」
 いっそ知らん振りを決め込めば、と布団に横になろうとしたところに冷たい一言。
「俺は『話し相手』を探してたんだ。少しくらい付き合えよ。」
「……」
 かくして、俺の夏休み最後の夜の平穏は欠片も残さずに消え去ろうとしていた。