ある夏の夜のことでした。その日はとても蒸し暑くて、寝つきが悪くて。それに耐えかねた私はなんとなく玄関の戸をあけて外に出ました。
 そもそも、どうしてそんなことをしたのか、今にしてみると自分でも不思議なのです。本当に暑かったのなら、冷房をつけて冷やした麦茶でも飲んでいれば良かっただろうに。
 外に出た私は、ジャージ姿のままで住宅街を歩いていました。いくら夜とはいえやはり夏。風が無ければ家の外も中も大して代わり映えがするわけでもなく。その蒸し暑さに耐えかねて家に戻ろうとしたのとほぼ当時
 グチュ……
 と、嫌に生々しく、耳につく音が聞こえました。
「なんだろう」
私はつぶやいて、音のしたほうに顔を向けました。それは本当にただの好奇心で、その瞬間までは私の心も平穏を保っていたのです。
そこに、丁度子供ほどの大きさの黒い影が見えました。そう、小学生くらいの子供が道端に仰向けに倒れている、そんなふうに私には見えて、もちろん、私は慌てて駆け寄りました。もし本当に子供が倒れていたのなら、早く人に知らせて助けないといけませんから。
でも、私はその影に駆け寄る前に立ち止まりました。
よく見ると、その人影のほかにもう一つ、小さな影があったのです。
それは、おおかたの人が一目見ればそうとわかる形。まして家に三匹も猫のいる私にとっては見慣れた姿。そう、一匹の猫が、倒れた子供の身体に寄り添い、擦り寄るようにして居たのです。
不思議と、私はその光景に不気味なものを感じ取りました。何か、近づいてはいけないような……。そのとき、一体何の因果か、それまで弱弱しく光っているだけで何の役にもたっていなかった街灯が、突然フラッシュのように瞬いたかと思うと新品のように明るく輝き出したのです。
「うっ……」
私は思わず後ずさりました。
そこにいたのは猫。一匹の白い猫。その鼻先をすぐ横に倒れている男の子の身体に擦り付けて、私の声に反応したのでしょうか、ゆっくりと上げられたその口元は、他でもない、男の子の血で真っ赤に、不気味なまでに染まっていたのです。

 ………
『馬鹿馬鹿しい』
『な!お前それは酷いだろ』
『諦めな、お前にホラーは向いてないよ。怪談くらい、ネットであさればもっといいのがいくらでも転がってる。
追伸:化け猫が舐めるのは血じゃなくて油だぞ』
 ため息混じりにメールを送りつけると返事も待たずにノートパソコンの画面を閉じる。
 そもそも、八月末日、お盆も過ぎて翌日からは新学期というこの夜に、何が悲しくてこんなC級怪談を読まされなければならないのか。そりゃもちろん、俺は帰宅部としての放課後の暇な時間の大半を、入学後のこの一年半にわたって趣味のもの書きに費やしてはいる。だからと言って、この高校生のうちたった三回の夏休み、その二回目の、最後の一夜を勝手に奪わないでもらいたい。
「ふう……」
 ため息をついて、一時間前から冷房をきかせておいた自分の部屋の戸を開ける。親父は久々に会社の付き合いで飲み会。お袋は十時過ぎには布団の中なので、もうあと数分で日付が変わろうかというこの時間に起きているのは俺一人。窓を開ければ都心の明るさが目に付く我が家も、カーテンを閉めて部屋の電気を消してしまえば、外から聞こえてくる虫の声と相まってそれなりに風情もある。エアコンのリモコンを手にタイマーをセットして、床に敷いておいた布団の上に倒れこむ。いつもだったらもうあと二時間ほどは起きてるんだけど、まあ始業式前日くらいは日付が変わる前に寝ても罰は当たらないだろう。
 その時だった。
 布団の下、フローリングの部屋の床を、爪か、ペンの先か、そういうなにか固いもので軽く叩いたような音が聞こえた。
 ペンが落ちたかな、と思って起き上がる。俺に割り当てられたのこの部屋はどうにもつくりが細長いので、横幅のやたらと広い机と反対側に箪笥、その間にこの布団を床に敷いてしまうともう、窓のすぐ下と部屋のドアを開けてすぐのスペース以外にはまともな足の踏み場がなくなってしまう。敷布団の柔らかい感触に足を取られながら、落ちたペンはどこかと机の下を覗き込んだ俺は、なにか妙なものを見た。
 窓の外、カーテンの隙間から僅かに入ってくるマンションの廊下の明かり。その光を受けて、赤と緑に輝く丸いものが暗闇の中で横に並んでいた。
 なんだ……?
 訝しんで、じっと見つめる俺の視線の先には微動だにしない赤と緑。まだもう少し安っぽい色であれば何かの切れ端か、欠片かとでも思うけれど、あんなふうに輝くものを俺は知らない。大きさからするとビー玉のようにも思えるが、そんなものにはかれこれ五年程触ってもいない。
「……」
 とりあえず、それが動くようなものではないのを確認した俺は、ゆっくりと手を伸ばした。その、なんだかよく得体の知れないものを摘み上げて、もっと明るい場所に引っ張り出そうとして、
「っ……!」
 思いがけず、その丸いものに触れる前に、なにかの毛か硬い糸のようなものに指先が触れて息を呑んだ。
 そのまま反射的に腕を少し引っ込めた俺の目の前で、机の下に差し込む光が少しだけ強くなった気がした。眼が慣れてきたこともあるのだろう、机の下の暗闇も、覗き込んだ当初よりは隅の方までいろいろと視認できる。
 しかし俺は、その隅の方に落ちている消しゴムにも、恐らく少し前の音の発生源であろうボールペンにも手を伸ばせなかった。目の前に、我が家にはあるはず、いや、いるはずのないものがいたから。赤と緑に輝く球体、眼でジッとこちらを見据え、真っ白い身体をかすかな光に晒し、ほっそりとした身体で座り込み、大きめといえば大きめなのであろう耳を立て、尻尾をゆらゆらと揺らす一匹の猫が、そこにいた。
 一体どこから入り込みやがった……。
 俺は腰をより低く、片膝をついて両腕を広げる。あいにく猫に触ったことは無いが、下手に逃げられると面倒だ。この場で、とっつかまえて家から放り出してやろう。
 と、
「うん。お前、悪くないな」
 猫が、紛れもなく俺の前にいる一匹の白猫が、驚くほどに澄んだ声で人の言葉を喋ったのだ。ああもちろん怪談を始めフィクションの中じゃよくある話だが、現実的には絶対に起こりえない怪奇現象ではあるまいか。
「……油はやらないぞ」
 この状況でよく俺はこんなことを口に出来たもんだ。固唾を呑んでその場に固まって、目の前のおかしな客を凝視する俺を、そいつは小さく鼻で笑った。
「ああ、大丈夫。油はいらねぇ。あれは後でやたらと咽喉が渇いて駄目だ」
 つくづく流暢に喋る猫だ。あまりのことに関心さえしてしまう。
「その代わり、血をくれ」
 言った猫の顔が、まるで人がそうする時のようにニッと、笑った。それはいざ目の前にしてみるとどんな怪談や物語に伝え聞くよりも不気味で、異常で。一瞬意識が宙を泳いだその後、気付くと真っ白く細い身体が座り込んだ俺の目線の高さまで飛び上がっていた。
 息を呑んで反射で腕を振るっても、そもそも懐に飛び込まれているのだからあたるはずが無い。そのまま反動で倒れこむのとほぼ同時、細い前足が俺の両肩に掛かり、Tシャツの生地越しに刺さる爪の鋭さに奥歯を噛み締め、いっそ振り払おうと上体を大きく捩った直後、首筋に一瞬変にくすぐったい感触がして、ついで文字通り刺すような鋭い、それでいてどこか鈍い痛みが走った。