「ありゃ、まだ少し早かったか」
 川沿い。町の夜景から少し離れて、それでも一応の舗装はされた、そんな岸辺を歩きながら巴が言った。
 日はすっかり暮れて、屋台もあちこちに立って。雰囲気はもう準備万端だというのに時間がまだ、予定時刻まで四十分もある。
「少しなんてもんじゃないだろ。早過ぎだって」
「うるさい」
 ほとんど反射的に繰り出される軽いグーパンチを横に飛びのいてかわす。それ以上なにもしてこないのは優の手前だからか、それとも巴なりにも大人しくなったということか。
「まあ、せっかくだし場所探しがてら屋台でも見てようよ。なにかしてると、案外早く時間も過ぎるもんだよ」
と、助け舟を出したのは優。もう、巴に制圧される一方というのが十九年間で完全に慣習化してしまった徹にとって、これほどありがたい存在もそういない。
「そうね。じゃあ……凛!」
「はい!」
 なんせ、あんなに簡単に姉ちゃんが従うんだもんな……。
 と、駆けていく巴と凛の後姿を目で追いながら徹は思った。
「さて、じゃあ僕達は……」
「場所探し、ですね」
 残された男二人も慣れたもの。諦めたように肩をすくめてゆっくりと人ごみの中を歩き出す。
 並んでいる暖簾は、たこ焼き、焼きそば、リンゴ飴に綿菓子と、毎年恒例、定番の顔ぶればかり。時々その隙間に顔を見せる金魚すくいや射的の屋台に群がる小学生を避けながら、徹と優は川沿いの土手を行く。
「大学では、どうしてる?」
 走っていてぶつかってきた子供の肩を支えて、後ろに走り去っていくその姿を見送りながら優が尋ねてくる。
「まあ、それなりに。気楽にやってます」
「確かに、思いつめてる風ではないね」
「でしょ?」
 ハハハ、と笑いあう。歓声を上げて走っていく子供達が、吊るしてある提灯を手で揺らしていった。
「じゃあ……」
 その、いつまでも揺れている提灯をそっと手で止めて続ける。
「凛ちゃんとは?」
「あ〜」
 一応言葉を詰まらせて、夜空を見上げて考える。
 特に大きな事件があったわけでもなく、喧嘩をしたわけでもなく。
「まあ……そっちも適当にって感じですかね?」
「そう。よかった」
 そもそも質問自体が半分気まぐれだったのであろう。短く答えて、優が次の句を探すように土手の下に目をやる。と、丁度その視線の先にビニールシートの間に空いた空間がぽっかりと空いていた。
「お、あそこなんか……」
「悪くないですね」
 じゃあ決まり、と土手を降りていく優。どこに持っていたのか、小さく折りたたんだビニールシートを広げる背中を徹は見つめた。
 あれは、聞いて……いいのかな?
 しばし考慮。徹が緊張することでもないだろうに、どうしてか気持ちが構えてしまう。
「さて、じゃあ僕らはのんびり待ってようか」
 言ってシートの上に座り込む優。
 ま、いっか。
 その横に胡坐をかきながら、徹は口を開いた。
「優さんと、姉ちゃんが結婚するって話、本当ですか?」
 視線は自分の足元に向けたままで、だから徹に優の表情は分からない。ただ、なんとなく、視線がまっすぐに注がれていることだけは感じ取れて、逆にそれが居心地を悪くしていた。
「……本当だよ」
 どれほどの間の後か、そう、優が答えた。
「まあ、隠すことでもないけどね」
 徹と同じように胡坐をかいて座っていた優が、そのまま上体を後ろに、腕で体重を支えて夜空を見上げる。
「でも、だれから聞いたの?やっぱり巴から?」
「はい。なんかやたら酔って機嫌良く帰ってきたと思ったら、人の部屋に乗り込んできて……」
「ハハハ……。それはまた」
 光景が想像できるのであろう、優も、思い出して笑う徹と一緒に苦笑い。
「まあね、さすがに僕達もまだ二十四だし、今すぐにっていうわけではないんだよ。ただ、将来的にはっていう話。だから、そういう現実味に溢れた話っていうことじゃないんだけど……。飲みにいった時に話したのがまずかったかな?」
「そう……ですね。大喜びで帰って来ましたから。……ああ、親は寝静まってたんでまだ聞いてないと思います」
 もの言いたげな優から察して付け加えると、返ってくるのは押し殺した安堵のため息。聞こえなかったふりでそれを流すと、徹も夜空を見上げて言った。
「あんな人ですけど、よろしくお願いします」
「……任されました」
「……」
「……」
 ……
 無言。胸の内、思考の中でさえも、無言。あの巴が結婚というのもいまいち想像が出来なかったし、何より自分の姉が結婚ということに実感を抱けなかった。
「……あ」
 と、その沈黙を払うように、思い出したような声で優が口を開く。
「カラオケには、また付き合ってよ。相変わらず僕一人じゃ、さ」
「ああ……」
 そういえば久しく行ってないな……と思い出して、ゆっくりと頬が綻ぶ。
「はい、了解しました」
 一発目の、花火が上がった。

「あ、いたいた。徹〜」
「遅いぞ」
「あんたが言うな」
「ハハハ……」
 頭を抱える徹を他所に、買い集めてきたビール、ジュースの缶計四本にたこ焼きのパック二つを並べる巴。空には黄色い向日葵が咲いている。
「へえ……、なかなかいい感じね、優?」
「そうだね」
 ビールを手に並んだ二人の邪魔をしてもなんなので、徹は徹で凛と並んで隅の方に。と、
「あの話、なんだって?」
「ああ、どうも本当らしいよ」
「へえ……!」
 目を丸くして、こちらの会話に気付いていない巴を一瞥する凛。
 巴が突然上機嫌で帰って来れば当然それに真っ先に起こされるのは徹よりも凛な訳で、徹から優への質問は、同時に凛からも質問でもあったのだ。
「そっか……、巴さんが結婚かぁ」
「て、言ってもすぐにってことじゃないらしいけど」
 一応付け加えてみたところで、一人物思いにふけってしまった凛には聞こえていない。こういうところは佳織の影響だろうかと思う一方で、この手の話を聞くと途端に騒がしくなる巴の影響を受けなかったのは幸いだったと、徹としては思うのであった。
「……ほら」
「!?」
 冷たいジュースの缶を頬に押し当てられて、肩を跳ね上がらせる凛。抗議の言葉が浴びせられる前に徹が続ける。
「花火、見ないでいいのか?」
「え?あ……わあ!」
 言われて夜空に目をやったとたんにもう、凛の意識は花火に釘付け。
「……お前」
 ため息混じりに、何か言ってやろうと思って……やめた。
 まあ、これでもいいか。
 これで、普段の生活になったとたんに凛の方がしゃっきりしていて、最近は徹が助けられてばかりなのだ。こんなときくらい、こういうのも悪くない。
 そう、花火の色に照らされて色を帯びる、凛の横顔を見ながら思った。