5-3

 それは、アルテメネの想像の域を大きく超える規模の話であった。
 予定にして一週間後。一つの、小さな仮想世界を文字通り、消滅させる。智が最初に、ほとんど実験的に作ったような世界で、そのぶん不完全だから、住んでいる人間もただ一人を除いて皆、ろくに自分で物を考えることも出来ない出来損ないばかり。規模が小さいからそれなりに手を回せば不可能な話ではない、と。智も、それに時々口を挟む朋も、本当に何でもない事であるかのように淡々と、むしろ楽しんでいるようにさえ思える口調で語った。
 あれだけ常識はずれなことを語った挙句、何を言うのかと。アルテメネは僅かに二人の正気を疑って、しかし不意に理解した。
 つまるところ、この二人は楽しんでいるのだ。アルテメネを助けたのもそう。それをからかうのもそう。色々とアルテメネの身上を知られていることからして、もしももっと前からアルテメネのことを観察していたのだとすれば案外、アルテメネの身に起こったこの数日の話でさえも、内心でこの二人は楽しんでいるのかもしれない。そして今、この二人はアルテメネが名も知らぬ世界を一つ、消し去ると言っている。そこにどんな理由があるのかは知らないが、きっとそれさえもこの二人は楽しんでいる。正しいかどうかという問題はそこにはなくて、きっとこの二人はある意味、微妙なところで既に正気を逸脱しているのだ。
「で、ここからが大事なところ」
 頭の中では色々と目の前の二人組みに関する思案をめぐらせながら、静かに話しに聞きいっているアルテメネの方に朋が人差し指を突きつけて注意を促す。赤いマントを揺らしてふらふらとその辺を漂うように歩きながら彼女は続ける。
「その世界を潰す時に、できるだけ世界の内と外を隔てる境界面に強いダメージが欲しいの。そこで、君も他の大勢と同じように流れ人としてその世界に飛び込んでくれないかな?」
「流れ人?」
「そう。世界を書き換える力を持っている人間の中でさらに、仮想世界の壁を飛び越えて行き来する人間のこと。もちろん、その方法は教えるし、必要最低限のラインまでは力も上げてあげる。どうかな?」
 どうもこうも……。
 口も、心も唖然として言葉をなくす。つまり、この赤いマントの少女は、自分達が潰す世界に自分から飛び込んでくれと言っているのだ。どれだけ無茶な注文だというのか。なぜ、わざわざ死んでやらねばならぬのか。
 かすかな憤りさえ覚えて。でも、まさか本当にそれだけではあるまいと半ば願うような気持ちで思い直して、念のため尋ねる。
「そうすることで、私に何か得があるの?」
 ないのならば、これほど酷い話はそうざらにない。裏町に生きてきたアルテメネの記憶を辿ったとしても、だ。
 と、
「あるよ」
 特に感情がこもっているわけでもない、平坦な声で智が答えた。
「言っただろ?そのかわり、お前の努力次第では現実世界にいけるかもしれない」
「……しれない?」
「仕方ないだろう。最後の最後にうまくいくかどうかはお前次第なんだ。確実な保証はこっちだって出来ないよ。でも……」
 咎めるようなアルテメネにため息をついてそこまで言って、すっと言葉を区切った智の顔が小気味よくほくそ笑む。
「ちゃんとやれば、かなり確実に道は開ける」
「……」
「……」
「……いい?」
 疑いの色の晴れないアルテメネの顔と、それ以上言葉を紡ぐ気の感じられない智の顔とを見比べていた朋がため息混じりに口を開く。
「まず、全ての仮想世界には、力を持った人間が世界そのものを無闇に変容させないように、世界を出来るだけ最初の形に保つため、初めからそれなりに強い力を与えられた管理者がいるの。君の前に現れた、蒼いマントのオヤジ、ポルセイオスも君の世界の管理者だった」
 そういえば「この世を統べる者」とか……。
 今でも耳にこびりついている、憎憎しい、人を見下ろすような声を思い出す。
「その中でも何人かは特別でね、主に智の気まぐれで、何人かは現実世界と仮想世界をつなぐ道、神門を創造できる力を持ってる。そして、今回潰そうとしている世界の管理者も護るべき世界が荒れればそれなりに管理者の注意はあちこちに散らざるを得なくなるし、君だって力に関してまるっきり筋がないわけじゃない」
「そうなの?」
「だって、無意識に自分の身体の一部を好きに作り変えられるんでしょ?仮想世界における生物の身体ってもともとそういう形である事が当たり前になってて、その状態を本人が意識しないところで常に頭が勝手に意識しているの。物の形、存在を意識するっていうことは、『そういう状態であれ』っていう情報を書き加えるのと同義だから、それを覆すのって結構難しいことなんだよ?」
 そんなことを、人間を通り越してなにかよくわからない獣に化けてしまうような相手に言われても実感がわかないのではあるが……。それでも、やはりそういうふうに言われて悪い気はしない。かといってそれを露骨に示すわけにもいかなくて、手短に「そう……」とだけつぶやいて答えた。
「で?私がその管理者さんと正面衝突して、勝てるの?」
「正面から行ったんじゃ、無理だな。やるなら陣の奥まで忍び込んで逃げ場をなくしてからの方が良い。それなりの手引きは、俺達もしてやる」
 答える智の声には心配のしの字もない。ただ、智にとっては計画している事が思うように進めばそれでよくて、いちいち失敗したときのことを考えることに意味が無いのだ。だから、アルテメネの問いに答えて、「失敗しないための」道を語っている彼の声には悦びの欠片もない。その目が向いているのは、ただ成功という結果だけ。
「それで、ぎりぎりまで、もう抵抗できなくなるところまで追い詰めてから、無理やり神門を開かせればいい。そうでしょ?」
「……もしうまくいったら、私は何が出来る?」
「なんでも、だよ。外からであれば誰にも邪魔されずに世界を創りかえられるし、うまくすれば新しく世界を創り出せるかもしれない。なかなかいいと思うけど?」
 頬をほころばせていう朋にとりあえずはなにも言わず、考える。
 今の自分の力では、世界を創りかえるどころか正面衝突で一人の人間に勝つことさえ出来なかった。でも、現実世界とやらに行けば自分は絶対の力を手に出来る。逃げたいと願い続けた世界を、逃げるどころか変えられる。
 目の前の二人を疑うことはしなくても良いだろう、と思う。朋はどうだか知らないが、智の興味は明らかにその世界を潰すほうに向いていて、アルテメネのことなどおまけ程度にしか考えていない。そういう顔をしている。だったら、この2人があえてアルテメネを騙す意味などどこにもない。
「さあ、どうする?」
 尋ねてくるのは、朋。
「俺達は世界を潰す。お前は力を得る。利害は一致してるぞ?」
 次いで、智。
 流れる、沈黙。
 漂うのは、ただ暗闇。何もない空間。
 アルテメネは、ゆっくりと立ち上がる。同時に、アルテメネの意識を離れた「腰掛の感覚」が消えて。注がれる二人の視線に一度大きく息を吐いて。
「……」
「……」
「……乗った」
 そう、言った。