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 見慣れているはずの道を、行く。見慣れた店先を通り過ぎ、曲がりくねった細い路地を歩いていく。アルテメネと、長身黒髪の男と、二人の間に会話は無く。ただ並んで、黙して歩く。別に、思うところは無い。今を生きていられればそれでよし。それは、この街に生まれたそのときから変わりもしないこと。だから、今自分はこの男と並んで歩いている。
 それなのに。
 俯き加減に考える。
 どうして、どうしてこうも、世界が歪んで見えるのだろう?変わったことなど何もない、いつもどおりにその日の所業をなしているだけのはずなのに、どうしてこうも、めまいにも似た感覚で頭が回って、重いのだろう。引きずる足が、どうして前に出ないのだろう。
 どうして……。
「おい」
 と、突然に声をかけられて思考が断絶する。はっとして顔を上げた先に、少し前で顔だけ振り返っている、男の顔があった。
「一応聞くが、どこに向かっているんだ?」
「あ……」
 聞かれて、思い出す。この方面の本職は、最低一つは仕事場たる部屋を持っているものだ。そうでなければ、本来この仕事は回らない。しかし、当のアルテメネにはそれがない。当たり前のことだ。昨日の今日で、半ば思いつきではじめただけのこと。準備も、そのための貯えも無い。しかしそれでは……。
 なんといったものか、と思案した矢先。またもその思考は男の声に断たれる。
「……いいだろ」
「え?」
 つぶやくようにいって、踵を返し、身体ごと振り返る男。近づいてくるその姿に口ごもる。
「無いんだろ、目的地が。おおかた、今日が初仕事ってところか?」
 すぐ目の前、下を見下ろそうと首を傾ければ額がぶつかってしまうような距離でようやく男が立ち止まる。あまりに大きな身長差で見下ろす男。その姿は、道端で座り込んでいたくたびれた姿とはまるで別人で。
「幸い人の通りも無いみたいだし、もう少し奥まったところなら別にかまわないだろ?」
 男の手が、頬に触れる。予想以上に冷たい手。同時、意図せず、意識せず、しかし確かにアルテメネは恐怖した。頭の片隅で、コワイという声が響く。
「どうした、何を震える事がある?誘ったのはそっちだろうが」
 言って、瞬きする間の素早さで男がアルテメネを抱え上げる。今はもう、はっきりと逃げ出したいと思っているのに、身体が動かない。腕は固まり、脚は硬直し、声すらも出ない。しかし男の方はといえば容赦など欠片も見せず、否、そもそもアルテメネの内心の怯えにどれほど気付いているのかすら定かではなく、いつの間にか入り込んでいた細い路地をさらに奥へと歩いていく。
 コワイ
 逃げたい
 コワイ、コワイ
 逃げ出したい
 コワイコワイコワイ
 振り払って逃げ出したい
 コワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイ
「……やめた」
 不意に、男の歩が止まった。
「お前みたいなの抱いても面白くもなんともねえよ。欲しいのはなんだ、金か?それとも食い物か?なんだ?」
「……お金」
 乱暴に、地面に下ろされて、よろめく。消え入りそうな声で答えて、震える肩をそっと抱く。
「そう……、こんだけあれば十分か?」
 言って、男が崩したスーツ、羽織ったそれの中に片手を差し入れ、引き出した。
 その手にあったのは、おおよそアルテメネが今まで見たことも無いほどの紙幣の束。男の片手でかろうじて掴みきれるほどの、異常とも言えるその量。一体桁にしていくらになるというのか。アルテメネにはとても見当がつかず、ただただ唖然と言葉をなくすのみ。
「……欲しいか?」
 なにか、どうでもいいものを見る時のようなその目、声。それに、思わず必死になって一度、大きく頷く。あれほどの金が手に入れば、それこそ何でもできる。自分にも、まともな暮らしが出来る。届かないと思っていた空に、手が、届く。
 既にその顔は懇願するかのよう。すがるように、男の目を見つめる。と、見つめ返す男の目が不意に奇妙に歪んで、頬が吊り上って、悪魔の声が囁かれた。
「や、だ、ね」
 そして、その札束は、まるでもとからそこに無かったかのように、文字通り消えうせた。
 なに……。
 呆然と、絶望に言葉をなくす。そのアルテメネを嘲笑って、男は続けた。
「見ちゃいらんねえな。哀れなもんだ。自分でもそう思わないか?身体を売る決意もできず、すがり付こうとした金には逃げられて、お前に一体何がある?何もないだろ?」
「そんなこと……」
「そんなこと、なんだ?そんなこと、あるだろ。それとも、その汚らしい髪を鬘にでもするか?」
 言って、笑う。まるで、本当にそれが面白くて仕方が無いといわんばかりに笑う。悔しくて、言い返したくて、なのに……。アルテメネの口からは一言たりとも言葉らしいものが出なかった。
「じゃあな、メスガキ」
 そのアルテメネに背を向けて、男が言う。
「何の足しにもならない時間だったけど、まあ暇つぶしにはなったよ。どうも、ありがとう」
 厭味ったらしい、形だけの礼。否、礼の形をとった厭味。それを残して、男は去っていく。アルテメネの背後には、高くそびえる壁、狭い袋小路の最奥に取り残されて、アルテメネの目から、一粒、雫が流れた。
 なんだ。今の私、本当に、目もあてられないや……。
 拭うこともせず、ただ少しずつ大きな染みを作っていく地面を見つめて思う。考えてみれば、とんでもないお笑い種だ。自分にとって、身体とは、誇りを護る最後の一線ではなかったのか。この銀髪は、自分の誇りそのものではなかったのか。それを、自ら売り、馬鹿にされても何も言い返せず。
なにが誇り。
どこか誇り。
馬鹿らしい。結局、自分にそんなものは無かったのだ。
「……帰ろう」
 つぶやいて、立ち上がる。それからようやく、自分に帰る場所はもうないと言うことを思い出して、それでもゆっくりと歩き出した足は止まらなくて。揺れるように、揺られるように、アルテメネの身体は路地の出口の方へと流れていく。
 そのとき。
「あ……」
 ふと、耳に届いた賑わいに足が右に向いた。そこに在ったのは、辛うじて人一人が通れそうな隙間。その向こうには、なにやら明るい輝き。自然と、身体はその輝きの方へと流れていき……。
………
「……」
 呆然と、アルテメネはその光景を眺めていた。そこに在ったのは、貴族街の賑わい、明かり。白いもやの立ち込めた、生まれ育った街とは何もかもが違う、澄み切った輝き。知っている。あの街と貴族街が隣接していることも、だからすこし歩けば貴族街に出れてしまうことも。そしてこれが、自分が夢に見続けたその輝き。
 ああ……
 感動と、同時に押し寄せる諦めと。アルテメネは思う。これは、自分とは根本的相容れない世界なのだ、と。理由など無い、たとえば小石を見てそれが小石だと思うように、一目見てそういうものなのだと理解した。自分では、絶対に手の届かない世界なのだ、と。
「お父さん!早く!」
 不意に、遠くの方でそんな声が聞こえる。無意識に、人の目に止まらないように、建物の影に隠れて声の方に目を流す。
 そこにいたのは、アルテメネとそう歳のほども変わらないであろう少女。カールした茶髪を揺らせて、笑いながら時々うしろを振り返っている。その身には、黒地に白のアクセントが利いた裾の長めなドレス。どこかのパーティーにでも出かけるのだろうか、始終その顔に笑顔は途絶えず。見つめることしかできないアルテメネの前を、さっと駆け抜けて行った。