〜7〜完結

………
…………
……
「……」
部屋のベッドの上に寝かせたシーナの横に椅子を置いて座り、その顔を覗き込む。
 よく寝てる。
 図書館に来てからのシーナにも変わらずにあるものがあった。そっと目を閉じ、すこし開いた口から寝息が聞こえる。昔から、どうしてあれだけの乱暴者がこうも安らかな寝顔を浮かべられるのだろうと不思議に思ったものだった。
「いい?」
 ふと扉をノックする音に振り返る。「どうぞ」と返事をすると水の入ったコップと絞ったタオルを手にしたミネルバと、ミンが扉を開けて入ってきた。
「どう?シーナの調子は」
「見ての通りです」
 いいながらそばまで来くミンに、シーナのほうに目を向けて答える。
「どうも眠っちゃったみたいで……」
「ふうん……」
 安らかな寝息を立てているシーナの顔を覗き込み、考え込むようにして答える。ベッドの反対側ではコップを机においたミネルバが濡らしたタオルを手に同じくシーナのことを見下ろしていた。
「ストレス、かしらね……」
「ストレス?」
顔を上げてベッドから離れるミンのほうに、不思議そうにミネルバが振り向く。
「なにかあったんですか?」
「ちょっとね。いろいろあったの」
 シーナの額にタオルをあてて尋ねるミネルバをはぐらかす。まさか事情を逐一説明するわけにもいかない以上、当然の行動だ。
「いろいろ、ねえ……」
「俺の方見られても困ります」
「いやあ、だって彼女ずっとあなたのそばにいたじゃない?喧嘩でもして気まずかったのかな〜、なんて」
 楽しそうにいって微笑むミネルバに「勘弁してください」といって目をそらす。そう、喧嘩程度ならまだいいのだ。マークの憂鬱の原因はそれほど単純なものではない。横目でシーナの寝顔を見てマークは眉根に少ししわを寄せた。
「……そうね」
 そんなマークの様子を見かねたミンが口を開く。
「どうもシーナも熟睡してるみたいだし、今夜はこのまま寝かせておきましょう。マーク君は今夜はこの部屋で一晩ついてるように。寝るなとは言わないから」
「わかった」
 てきぱきと言うミンに短く答えて頷く。その返事にさえろくに答えずにミネルバと何か話しているミンの素っ気無さが、いまはとてもありがたかくて、マークは自分の手を見つめて俯いた。
「それじゃあ」
 一通りのことは伝えたのだろうか、先に部屋をでたミネルバに続いて部屋を出て、半分閉めかかった扉の隙間からミンが声をかけた。
「私とザイル、マースは向かいの部屋にいるから。なにかあったら呼んでね」
「はい」
 相変わらず短く答えたマークに小声で「がんばって」とつぶやいてミンは首を引っ込める。木の扉が小気味の良い音を立てて閉まった。
………
…………
……
 真っ暗な部屋の中。窓の外も静まり返って、弱い月明かりがカーテンの隙間から部屋に差し込む。
 部屋の中に聞こえる寝息は一つだけ。すこし顔を横に向けて、片手で頭の下の枕の端を握って眠るシーナ。そのすぐとなりのベッドの上で、マークは天井を見つめていた。
 シーナの寝息は穏やかで、とても突然倒れてしまった者だとは思えない。だが逆にその寝顔を見ているとかつての彼女が思い出されて、マークは寝るに寝れずにいた。
 そういえば昔もこんなことあったよな。
 胸の内でつぶやく。
 四期生のころだっけ。突然シーナが熱出して、無茶して行った学校でぶっ倒れて……
 頭の中に鮮明に懐かしい光景が浮かび上がる。廊下で崩れ落ちたシーナの体。保健室で顔を火照らせて眠っていた顔。普段からは想像できないほどにおとなしく、弱弱しいその姿。マークはその横にずっと張り付いていて、まるでなにか小さな花を見ているような気分で、一度帰宅する昼休みまでの時間を過ごしたのだった。
 今のシーナはそのときのと同じ顔をしていた。僅かに熱を持って赤らんだ頬。静かに聞こえる寝息。どれもがあの時にそっくりだ。そう、そっくりなのだ。だから、余計にマークはつらかった。同じ顔をして眠っている彼女。別にそっくりな他人などというわけでもない。目の前の少女は紛れもなくシーナであるというのに、一方で彼女はあの時の彼女とは違う。まどろっこしくて、腹ペコの状態で目の前に触れることの出来ないご馳走を並べられているような、そんな気分だった。
「……チクショウ」
 つぶやいた声が闇にとけていく。
 こんな時に頭に思い浮かぶことなんてろくなものじゃない。夜の静けさは人の考えを郷愁へと向かわせる。そんなことを考えたって何にもならないのだ。それはとっくにわかっているのに、マークの頭に浮かぶことといえば自分にはどうしようもない現実を嘆き、悲しみ、そんな自分を笑うことばかりだった。
「……」
 ハア、とため息をついて起き上がる。考えたくない時は体を動かす。気が沈んでいる時には一番の特効薬だ。もちろんとなりには眠っているシーナ。あまり派手なことをするわけにもいかない。
 ちょっと歩いてくるか……
 窓の外に目を流して大きく部屋の空気を吸い込むと扉の方に足を向ける。
 そばに脱ぎ捨ててあった靴をつっかけてベッドの脇を離れたそのとき、すぐそばで布がこすれあう乾いた音がした。
「ん……」
 続いて聞こえる小さな声。はっとしてマークが振り向くと、丁度シーナが布団から起き上がって辺りをキョロキョロと見回していた。
「……起きたのか?」
 遠慮がちに声をかけると、ゆっくりとシーナが振り向く。寝起きだからだろうか、彼女がきょとんとしてしばらく黙っていたので、暗い部屋の中に完全な沈黙が流れた。
「水、飲むか?」
「……はい」
 ぎこちないながらも変えてくる返事に「ほら、そこ」と机の上を指差して返す。シーナは相変わらず何かにとまどっているかのような様子でゆっくりと横を向くと、すぐそこにおいてあったコップを手に取った。
「腹は減らないか?」
「すこし……だけ」
「……そっか」
 中身を飲み干したコップを横においていうシーナに肩をすくめて答え、扉の方に向き直る。
「そんじゃあちょっと適当になにかもらってくっから、しばらくおとなしく寝てろ」
「はい」
 ようやくいつの通りのしっかりした声で答えた彼女に片手を上げて答えると、マークは扉を開けて廊下に出た。
………
…………
……
「どうしたんだ、あいつ」
 暗闇の中、手探りで階段を降りながらつぶやく。
 図書館に来てからというもの、シーナが黙っていることこそあったかもしれないが、あんなふうに戸惑いながら話すようなことはなかったはずだ。少なくとも、マークと話をする時に何かほかのものに気をとられたようになることは無かった。
もしかして……
ふと頭をよぎった可能性に足が止まる。
記憶が?
もしも記憶が戻ったのだとしたら、気がついたら見知らぬ部屋にいて驚いたのではないだろうか。それで戸惑っていたのだとしたら……。
「……まさか、な」
 ふうっと息をはいてまた歩き出す。早すぎる。ミンは記憶が戻るのは大体一ヵ月後と言っていたではないか。あれからまだ3週間も経っていない。それに、シーナの言葉遣いは相変わらず本来の彼女のものではなかった。
 きっとあれはただ、食事をしていたと思ったら気づいた時には布団の中で、それで戸惑ったというだけの話なのだろう。大したことでもない。まして記憶がもどったなどというわけでは絶対にない。
「……早くもどってやらないとな」
 小さな声でつぶやいて階段を下りきると、そこにたって周りを見回した。
「すいませ〜ん」
 声をひそめていってみる。店の主たる老人にミネルバにベルシャンディ。三人がどこにいるのかを知らないことを、すっかり忘れていたのだ。
「どうしたもんかな……」
 壁伝いに歩きながらなにか無いものかと目を凝らす。だが外の月明かりだけが頼りの部屋の中では、目の前の机の存在を知るので精一杯だった。
 困った……。
 万策尽きた、といった心持で立ち止まり、頭を掻く。シーナを部屋で待たせている以上あまりのんびりするわけにもいかないのだが、かといってまさか勝手に台所をあさるわけにもいかない。店の三人がどこにいるのかは全く手がかりが無いし、このためだけにミンを起こすのはどこか気が引けた。
 とはいえ、このままここで立ち尽くしているというのもバカな話だ。どうにかしなければならない。困り果てたマークがふうとため息をついたとき、突然背後から声がかかった。
「台所に明日のためにとりおきしてあるシチューがあるよ」
「え?」
 驚いて振り返ると、二階の階段のところから、おそらくパジャマなのだろう、半袖のシャツと半ズボン姿のミネルバがこちらを見下ろしていた。
「もっとも、あのかわいい彼女のところにはもうもって行ったけどね」
「え、ああ……」
 なんといったものかと戸惑うマークをよそになれた足どりで階段を降りてくる。褐色の肌が月明かりに照らされ、神秘的とさえ言える雰囲気をかもし出していた。
「なんだか今日は寝付けなくてさ、野生のカンっていうのかな?こういうのって」
「や、言わないとおもうけど……」
「いやいや、わからないよ?ここにじいちゃん以外の男が寝てるのなんて久しぶりだし。年頃の乙女としてはいろいろ複雑なわけよ」
「え?は、はあ……」
すぐそばまで来て顔を覗き込まれ、内心では相当焦りながらもどうにか平静を取り繕おうとする。だが、ミネルバには通用しなかったようだった。しばらく真顔でマークの顔を覗き込んでいたかとおもうと、突然ふきだして笑い始めた。
「はははっ!いやあ楽しいねえ、あなたみたいな人をからかうのは」
「勘弁してくださいよ……」
 不平をもらすマークに「ごめんごめん」といいながらも相変わらず笑っている。マークもここで何か言ってもどうにもならないだろうと悟っていたので、あえてそれ以上は言わずに彼女の様子を見ていた。
「はあ……いや、失礼。でもせっかく起きてたんだし、お茶にくらい付き合ってよね」
 ようやく笑い止んだミネルバが呼吸を整え、マークのほうに向き直るといった。
 どうやらはなからマークに拒否権は認められていないらしい。返事も待たずに台所へと消えていくミネルバの背中を見ながらため息をつくと、マークは仕方なくすぐそばにあった椅子に手を伸ばして腰掛けた。
「……」
 カウンターの向こう聞こえる水音に耳をすませながらもう一度部屋の中を見渡す。青白く照らされた店の中。うっすらと浮かび上がる木目のもよう。あらためてよく見てみればほとんど全てが木で出来た部屋を月明かりだけが照らしているというのもなかなか不思議な光景だった。
「お待たせー」
 運ばれてきたカップの片方をマークが受け取ると、ミネルバは目の前の椅子を引いてマークの横に腰掛ける。椅子の後ろにもたれて冷たい紅茶をぐっと一口。気持ちよさそうに飲む彼女をよそにマークもゆっくりとカップを口に運んだ。
「う〜ん。おいしい!」
 カップの中の氷を鳴らしながらミネルバが言う。よく冷えた紅茶は夏の夜の火照った体の中を駆け抜けて行き、その喉を潤していった。
「……」
 特に何を口にするでもなく、ぼんやりと窓の外を眺めながら口の中で氷を玩ぶ。奥歯に力を入れてそれを噛み砕く。そして口の中に散らばったかけらを飲み下そうとしたその時、思いがけず背中を叩かれて、透き通った小さな氷の破片が一つ机の上に転がった。
「……なにを!」
「!」
 いきり立って振り向くと、マークの勢いに驚いたのか、目を見開いてのけぞるミネルバの顔がすぐ目の前にあって。思わずマークは言葉を詰まらせる。
「いやあ、ボーっとしてるから、さ」
「だからっていきなり……」
「ゴメンゴメン」
 ため息混じりに言うマークに、悪びれることもなくミネルバが答える。どうやら自分は完全に遊ばれてしまっているようで、もう一度大きくため息だけつくとマークはまたカップを持ち上げた。
「そういえばさ」
 ふと、ミネルバが口を開いた。体を横に向けて机に肘をつき、マークの方を見て尋ねる。
「あなた達五人って何者?っていうかどういう関係?」
「……はい?」
 興味津々。好奇心丸出しといった様子。突然の突飛な質問に面食らうマークを気にすることもなく、彼女は続けた。
「だってそうでしょ?久々に客が来たかと思えばそこにいたのはふてくされた感じの男の子とそれに遊ばれてる男の子。女の子は何も言わずにただ一人の男の子の後ろをついて歩いてて、それを遠巻きに見てる男の人。で、なんでかよくわからないけどその全員を一人の女の人がまとめててって、普通の光景だと思う?」
「普通……ではないですね」
 って言うか俺はザイルに遊ばれてるのか……。
 内心で自嘲しながら答える。だがミネルバがそんな彼の胸の内を知りうるはずも無く、一層身を乗り出して瞳を輝かせながらさらに続けた。
「でしょ?実際のところどうなのよ?なんか訳あり?」
「……なんでそんなことを?」
「あ、やっぱりそうなんだ」
「いや、そうではなく」
妙に納得したように身を起こすミネルバにすかさず答えてカップを置く。もちろん「訳あり」であるのは確かなのだが、そうであればなおのこと素直に真実を話すわけにも行かない。どうしたものか。一瞬頭を抱えたマークが何か言うより先に、再びミネルバが口を開いた。
「いえいえいいのよ。他人にはいいにくいこともあるでしょ?」
「まあ……」
「まあせいぜいどんな面白い人間関係があるのかと想像させてもらうわ」
 その瞬間。一瞬であってもミネルバの対応に感謝の念を抱いたことをひどく後悔した。
「……私はね。じっちゃんに拾われたんだ」
「え?」
 突然落ち着いた調子で話し出したミネルバの方を振り向く。月明かりの下に空っぽのカップを揺らしながらミネルバは続けた。
「私ね。七歳ごろまでの記憶が無いの。何でもじっちゃんが言うには、戦争が終わった翌日に市場に買い物に出たら山道の入り口のところに私が倒れてたんだって。だから私、周りには十七歳って言ってるけど、本当はそれも正しいかどうかわからないの」
「……へえ」
 ほかに答えようが無いのでどうしても返事が単調、単純になる。だがミネルバがそれを気にした様子は無かった。
「最初はじっちゃんもどうしようか悩んだんだって。いくらパーン国内だったとはいえ終戦直後じゃあ多少なりとも生活は苦しいものがあるしね。でも戦争中に親を亡くしたベルの遊び相手に、って私を連れ帰ってくれた。そのあとしばらくしてベルに変な言いがかりつけられてお店が苦しくなってもちゃんと学校にも行かせてくれた」
「ベルシャンディは……店主の?」
「そ、実の孫娘」
 答えながらマークのカップを受けとると、自分のものと一緒にカウンターの上に上げる。
「だからね、あの二人にはどこかでちゃんと恩返ししたいなあ、って思うの。できるだけレストランに人も入れてあげたいし、ベルが虐められてたら助けたい。できる限りのことはしてあげたいんだ」
 マークに背を向け、カウンターに腕を置いたままで言う。いよいよどう返事をしたものかわからなくなったマークが黙っていると、突然ミネルバは振り向いて、どこか吹っ切れたような声で言った。
「なんてね。時々こんなことを誰かに話したくなるんだ。あなたはそういうの聞いてくれるような気がしたから。ごめんね、こんな辛気臭い話」
「……よくわからないですけど」
 これは信頼されているということなのだろうか。そんなことを考えながらゆっくりと口を開く。
「そういう場合、恩返しとか考えないでいいと思います。あの二人はきっとミネルバのこと本当に大切に思ってると思うし。恩返し、なんて考えるよりも今までどおり、自然にしているのが一番だと思います」
「そういうこと」
 自分でもまとめ切れていない思いをできるだけ言葉を選んで紡ぎ出す。とその時、ふと頭の上からミネルバともマークとも違う別の声がした。見上げるとそこにはやはり月明かりに照らされ、青白く浮かび上がったベルシャンディの顔があった。
「いまさら何言ってるのよ。ミネルバは家族。恩返し、だなんて思わなくていいの」
「うん……」
 優しく、なだめるようなベルシャンディの口調。ミネルバの頬にもどこか優しげな微笑みを浮かんでいた。
「さて、と。それじゃあそろそろ僕は失礼しますね。シーナの様子も見てやらないと」
 椅子から立ち上がると、階段を降りてきたベルシャンディとすれ違うようにして手すりに左手を沿わせる。もうマークが降りてきてから30分は経っている。いい加減シーナもシチューを食べ終わっているだろう。
「はいはい。従順な彼女を大切にね」
「ちがいますってば」
 からかうミネルバに笑って答えて階段を上りだしたそのとき。押し寄せる熱風、轟音、視界を奪う白い光によろめいて、マークは昇りかけの階段を転がり落ちた。
………
…………
……
 なん……だ?
 辺りに立ちこめる煙。すぐそばには無造作に二分された椅子。体の上には机の脚だろうか、角ばった木材が。幸い怪我はしていないらしく、痛む場所も無い。腹の上に重くのしかかっている木材をなんとかどけると、そばの瓦礫に隠れるようにしながらマークは辺りを見回した。
「マーク君……!」
 ふと欠けられたささやき声の方を振り向けばそこにはベルシャンディとミネルバ。二人も大きな怪我はないようで、カウンターのかげからマークに手招きしていた。
「何があったんですか?」
「わからない。突然入り口の方で爆発があって……」
「ちょっと、あそこ」
 マークが壁から突き出している木の板にぶつからないように、身をかがめてカウンターの後ろに回ると、カウンターの上から向こうの様子を伺っていたミネルバがベルシャンディの服を引っぱる。
「なに、あいつら」
 ミネルバの目が示す先。ガラクタと化した机と椅子の山の向こうにはなにやら人のシルエットが二つ。恐らく二人とも男だろう。一人は人の腕ほどの大きさのものを両手で構え、もう一人は右手に鈍く輝く小さなものを。どちらも本当ならば街中で持ち歩くなど、いや、所有することさえ許されないはずのもの。それでいて誰もがそれがなんであるかを知っているもの。
「あれ、ピストル、よね?それにもう一つは……」
「……パーンの正規軍が使ってた中でも一番小さいロケットランチャー。もちろん、小さくても人を殺すには十分すぎるほどの威力があります」
「詳しいんですね」
「いろいろありまして」
 ベルシャンディにそう答えて、男達の会話に意識を集中する。ミンも、ザイルもマースもシーナも。四人とも今はそろって上の部屋だ。もちろんさっきの物音を聞いてすぐに駆けつけてきてくれるだろうが、困ったことには今、マークのそばには武器らしいものが何も無い。にもかかわらず男達の足音は早くも店の中に入ってきたようだった。店の中を物色しているのだろうか、会話をしている様子は見られない。無言のうちにただ近づいてくる足音を聞きながら、マークは固唾を呑んだ。
「言ったとおりだろう?何も無いじゃないか」
 突然、男の片方が口を開いた。
「ただでさえここはレストラン。しかも客が入ってないんだ。盗る物なんかあるわけがない」
「まあ、そういうなよ」
 苛立った声で言う男に、もう一人の男が答える。
「朝にはこの街を出るんだ。今までの恩返しぐらいに思ったっていいじゃないか」
「恩返し、ねえ」
 最初の男のため息が闇に広がる。
「そう、恩返し。なんせ俺らが今まで暴れられたのはこの店のおかげなんだからな」
 この店の、おかげ?
 訝しみ、横を向くと、ミネルバ、ベルシャンディもどういうわけか、といった顔で耳をすませていた。
 三人の周りの空気が静まりかえる。男はそんな三人の存在を知るわけも無く、転がっている椅子を蹴り上げながら続けた。
「ここなんだろ?あの半獣って噂の姉ちゃんがいるのって。あの子がいるおかげでどんなに壊しても誰も俺たちを疑わなかった。随分得させてもらったじゃないか」
「まあな……」
さも楽しそうに笑う男。ため息混じりにそれに同意するもう一人の男。
そういうことか。
マークは理解した。
つまり、そういうことなのだ。一連の事件の犯人はすぐそこにいる二人の男達だった。どうやって手に入れたのかはわからないが火器をつかって店の建物を破壊し、めぼしいものを盗み去る。あとから適当な噂をつくって「半獣事件らしい」という話を本当であるかのように流し、周りの目をベルシャンディに向けることで自分達はうまく逃げおおせる。そうやって何軒もの店を破壊してきたのだ。
「あいつら……」
 ふと、耳元で押し殺した声が聞こえた。振り向けばそこには怒りに目を見開いたミネルバ。握り締めた拳が赤く染まっている。
「ちょっと、落ち着いて……」
 あわててマークが止めるもとき既に遅し。立ち上がろうと動かしたミネルバの足がそばに転がっていたガラス瓶を蹴り、ガラス独特の音が辺りに響き渡った。
「……誰かいるな」
 拳銃の方の男がつぶやく。そばに近づいてくる足音。
万事休す。マークが大きく息を吸い込んだその時、頭の上で何かが地を這うような乾いた音が聞こえた。
「遅いよ……」
「え?」
 助かった。その思いが顔に浮かんでいたのだろうか。マークの方に振り向いてベルシャンディが尋ねる。何も知らずに近づいてくる足音を聞きながらマークは二人に言った。
「これからちょっと見られちゃ困ることがあるんで。二人とも目を閉じててください」
「え……」
 返事を待たずにそっと二人の瞼を手で覆ったその時。マークの頭上を飛び越えて、二階から何かが宙に飛び出した。
「な!なんだ!?」
 突然現れたザイルの姿に戸惑い、ロケットランチャーの男が叫ぶ。
「少し黙れ」
 獣の足をしたザイルは静かにそうつぶやくと、男の足、かかとの少し上に噛み付いた。
「ギャァアアアア!」
 絶叫。血の吹き出る足を抱えてうずくまる男から離れると、ついでとばかりにその両肩の筋にもそれぞれ一閃、爪で深々と切り傷を刻み込む。これでもうこの男は片足、両腕を使えない。武器を持つことも立って逃げることも出来ないというわけだ。
「この……!」
 仲間の危機に焦ったのだろうか。少しは落ち着いて見えたもう一人の男もピストルを構え、ザイルに標準を合わせる。だが、マースに言わせればそれは無謀以外の何物でもなかった。狼の半獣たるザイルを、この距離から仕留めようなどというのは無茶もいいところだ。もちろんそのとことはザイル本人が一番よくわかっている。「来いよ」といわんばかりに頬を吊り上げて笑う。
男の指に力が入り、引き金がゆっくりと動く。
だが……。
銃声が響き渡ることは無かった。
「止めておきなさい」
 突然男の背後から投げかけられる声。男の肩に手を置き、諭すように言うマース。
「貴様……!」
「警告はしましたよ」
 男が振り返ろうとしたその瞬間。マースは男の両腕を一気にねじ上げると、そのまま一瞬のうちに男をその場で組み伏せてしまった。
 終わったな。
 カウンターの向こう側の様子を確認して、ミネルバとベルシャンディの瞼の上から手をどける。動きを封じられた男達は武器をすて、地に伏してもがいていた。ピストルの男の両腕は男の背中でマースによって極められ、うかつに動くわけにもいかず、もう一人の男はザイルの乱暴な応急処置を受けながら悲鳴を上げていた。
「もう大丈夫ですよ」
 頭上から聞こえたミンの声に振り向くと、階段の上にはミンに付き添われて降りてくる老人の姿。手すりにつかまりゆっくりと歩く老人の姿を見ると、何ガァこったのかと辺りを観察することに忙しかったミネルバとベルシャンディも立ち上がってそちらへと駆け出した。
「おじいちゃん!」
「大丈夫?」
 これでこの二人の男が捕まればシャグの街は平穏を取り戻すはずだ。ベルシャンディに対する周りの接し方も少しはましになるかもしれない。
 そう思ってマークが小さく微笑みを浮かべたその時。店の中にザイルの叫び声が轟いた。
「伏せろ!」
 そう叫ぶや否や、一直線にミンの方へ駆け出したザイルを追うかのように鳴り響く、連続した銃声。薬莢が地に落ちて転がる音。無数の弾丸が空を切り、機の壁に突き刺さって穴を開けた。
「……!」
 考える暇など無い。自らのリーダーを狂気の矛先から連れ去るザイルを背後に感じながら、すぐそばにいたミネルバの体を抱き寄せて机のかげに滑り込む。ピストルの男を取り押さえていたマースはとっさに変態して飛び上がると、一瞬のうちにマークの隣に、人の姿で身をかがめていた。
「しとめられたのは二人だけか」
 惜しむような声が店の外から聞こえ、新たな足音が響く。
「言っただろ?俺の嫌な予感は大抵当たるんだ」
 自慢げに言いながら、機関銃を片手に、なんとか立ち上がったピストルの男に言う。はっとしてマークが階段の方をみると、無残なまでに血に付している、老人とベルシャンディの体があった。
「そんな……」
 耳元に聞こえるミネルバの声。今にもそちらへ行こうとする彼女をなんとかその場に引きとめながらマークは男達の様子を伺った。
「おい、起きろ」
 痛みにほとんど気を憂いなっているロケットランチャーの男に呼びかけるも、よほどザイルの荒療治が効いたのか、まるで答える様子が無い。使っている薬自体はミール特製のものなので効き目は確かなのだが、これがひどく沁みるのだ。傷口にたっぷりとすり込まれては、男の方もたまったものではないだろう。
「ちっ、ダメだな。しかもどっかよそで無駄遣いしたな?もう全弾使い切ってやがる」
 舌を鳴らしてロケットランチャーを投げ捨て、自分の機関銃を正面に構える。ピストルの男もそれを横目で確認すると、自分の銃の先をミンに向けた。
「そこの坊主、動くなよ?動いたらその女を真っ先に撃つ」
 ミンのすぐ横で、いまにもとびかからんばかりのザイルに向かって言う。
恐らく男自身はこの言葉がザイルに与える影響の大きさを半分も理解してはいないだろう。だが半獣であるザイルにとって、リーダーに銃口を向けられてしまってはまともに動くことなどできるはずもなかった。
 そして身動きが取れないのはマースも同じ。いくら彼の動作が速く、手馴れているとはいえども、この状況で二人の男に真正面から向かって行ったのではあまりに分が悪い。武器を持たないマークにいたっては言うまでもないことだった。
 圧倒的危機の中、息を潜めて機関銃の男が近づいてくるのを感じる。唯一チャンスがあるとすれば、それは機関銃の男がこちらの手の届く範囲まで近づいてきたとき。そうなればそれをマークが殴って黙らせ、マースがピストルの男のもとに跳ぶことで何とかかたはつけられる。だが、そんなマークの思惑を裏切るかのように男は立ち止まった。
「まあせっかく飛び道具をもってるのに近づいてやる必要もないよな」
 つぶやくようにそういうと跳びあがり、机の上に乗る。見下ろした男の視線の先にはマークたち三人の姿があった。
「そうだな……。まずはその震えてる奴から行っとくか」
 二人の死からか、膝を抱えて肩を震わせているミネルバに機関銃の口が向く。マークが固唾を呑み、マースが動こうと足に力を入れたその瞬間。空中にザイルとは違う、ザイルよりは少し小さく、しなやかなそれが飛び出した。
「つっ?」
男がその存在に気付くよりも先に鋭い爪で男の手の甲を引っかき、ひるんだ隙に機関銃を奪い取る。そのまま机の上に着地すると、手にした機関銃の先をピストルの男に向けた。
「かあっ……!」
 机を転がる薬莢。二の腕を貫く鋭い痛みにそちらの男もピストルを取り落とす。次の瞬間、猛然と駆け下りてきたザイルの手によって男の体は再び地に押さえつけられた。
「……ご苦労様。三人とも拘束して」
 ミンの指揮のもとに動くザイルとマースを横目に、すくと立っているシーナに向かってマークは口を開いた。
「体は?もう大丈夫なのか?」
 その言葉に他意はなかった。ただ純粋にシーナの体を案じての言葉。だが、返ってきた返事は思いがけないものだった。
「当たり前でしょ?私があの程度のことでいつまでも寝てると思ったの?」
 口に悪戯な笑みを浮かべて言い放つ。ミンも、マースも、ザイルもはっと固まって振り向き、思わずマークは言葉を詰まらせた。
 それは、いつ聞けることかと待ち望んだ、聞きなれたあの声。どこか生きた人形のような口調ではなく、弾むようなシーナの口調だった。
「お前、記憶戻ったの?」
 戸惑い、確かめるマークに向かって微笑みながらシーナは言った。
「ただいま、でいいのかな? こういう時って」
 そういって照れくさそうにへへっと笑ってみせる。それは紛れもなく、十五年間共に育ってきたシーナの笑顔にちがいなかった。
………
…………
……
 マークとミン、ザイル、それに記憶を取り戻したシーナを乗せた車は、先を行くマースのバイクを追い、石畳の上を左右に揺れながら走っていた。見上げれば東の空はうっすらと明らんで、はやくも起き出した小鳥が屋根の上で囀っている。
 結局シーナの記憶が戻ったのはミンの見込みよりも一週間も早かったことになる。マースから見てもやはりこれは異例なことであるらしく、ミンもマースもただただ不思議そうにするだけであった。
 件のシーナはといえば、この三週間の記憶もちゃんと残っているらしかった。ミン、マース、ザイル。三人が誰であるかも自分の身に何があったのかもよく理解しているようで、複雑な心境ではあったが一応マークは安心した。もしこの三週間のことをシーナが何も覚えていなかったとすると、必然的にそれを逐一説明してやらなければならなくなる。彼女が半獣であったこと、もう生まれ育った街には帰れないこと、自分達の仕事。マークはそれを全て彼女に説明するだけの勇気と自信がなかった。
 本当ならば少しかわった再開を果たした二人とそれを祝う言葉で車の中はもっとにぎやかであるべきなのだろう。しかし、現実は違った。
 沈みきった空気の中、それを紛らわすように交わされる言葉。時々笑って見せてもその笑顔はどこか曇り、必ずしも楽しげには見えなかった。
 理由ならある。ミネルバのことだ。
 三人の男達は無事警察に引き渡せたが、一方で老人とベルシャンディは決して帰らぬ人となってしまった。ただ一人残されたミネルバはひどく沈んでいて。しかしマークたちはそんな彼女を置き去りにして宿を出た。
 そもそもただの旅行客が町中の店を荒らしていた、武装した男達を捕らえられるはずもない。半獣が三体もいる以上、下手に言及される前にその場から消えなければならなかった。別にこれは今回に限ったことではない。図書館の職員は皆、任務を終えたらできるだけ早く帰還しなければならない。それはもちろん次の任務にそなえるためでもあったが、それ以上に『図書館』の存在を知られないようにするためでもあった。世界中の人間からひた隠しにされた秘密の武装組織。おおっぴらにその存在を知られるわけいにはいかない者達の宿命とも言うべきものだ。
「どうせ僕達がいたところで彼女にできることはありません。長居しても感傷に浸りながら時間を浪費するだけですよ」
 僅かなためらいを覚えたマークに投げかけられたマースのその言葉も、たいした慰めにはならなかった。
ミネルバさん。これからどうするのかな?」
「……するようにしかしないだろ」
 うわごとのようにつぶやいたシーナに、窓の外を見ながらザイルが答える。
「悲しみはどっかで乗り越えなきゃならないんだ。遅かれ早かれさ」
「うん……。そうね」
 かみ締めるようにシーナが答え、四人ともが黙り込む。
 そのときだった。
 車のはるか後ろからとどく爆発音。狭い道を吹き降ろしてきた突風が空調用の通気口に吹き込んで、車の中で口笛のような音が、ブレーキの音と重なった。
「何だ!?」
 振り向いたマークの目に映ったのは、まだくらい空に立ち上る黒い煙。なにか大きな破壊があったことを予感させるそれ。
「行くぞシーナ!」
「わかってる!」
四人はそれぞれに扉を開けると車の外に飛び出した。車二台がすれ違えるかどうかといったくらいの道だ。バイクに乗ったマースはとっくに煙のほうへと引き返していったが、今から車をターンさせたのではどれだけかかるかわからない。
「ザイル、あの場所は!?」
 走りながら尋ねるミンの声。しばらくしてザイルは答えた。
「あの、店だ」
………
…………
……
「見えてきた!」
 ざわつく通りを駆け抜ける。まだ明け方であるにもかかわらず轟いた爆音は当たり一体の人々をもれなく眠りの園から引き戻し、皆が何事かと表に出たせいで通りは昼間並みの混雑を見せていた。
「マーク!ミン!」
 時々人にぶつかりそうになりながら店があったはずの場所を目指したマークの耳に、先に着いていたマースの声が飛び込んできた。
 つんのめりながら横を向くと、石造りの建物の間の小道からマースが手招いていた。
「どうしたの?」
 呼ばれるがままに駆け寄ったシーナの手に紫色のマントを手渡して言う。
「見ての通り。この先は人目がありすぎます。四人ともこれで顔を隠して」
 マーク、ミン、ザイルも手渡されたマントを広げると方に羽織り、大振りなフードで顔を隠す。
 任務中において、万が一にも半獣が変態している時、あるいはリーダーを含めた作戦要員が武器を携帯している時に顔を見られるような事があってはならない。そんなことがあればその後の任務にどうしても影響がでてしまうからだ。そのために、人目につく可能性のある場所で実力行使に及ぶ場合にはこの紫のマントで顔を隠すことになっていた。
「何かわかった?」
「近づかないとなにもわからないということは」
 フードをかぶりながらミンに答えると、シャツのポケットから小さな通信端末を取り出す。
「念のため、メディスさんに連絡を入れておきます」
「よろしく」
 手短にそう答えるとザイルに目で合図を送り、マーク、シーナと並んで通りに出た。
「シーナ、なにか聞こえるか?」
「野次馬の声と……誰かの鳴き声。店の中にまだ人がいるみたい」
「……ミネルバか」
「たぶんね」
 言葉を交わしながら騒ぎの中心。黒煙の立ち上る、店のあったはずの場所の前に立つ。
 ひどい有様だった。
 辛うじて屋根も壁もまだ残っていて建物の形を保ってはいたが、ガラスは割れ、階段は落ち、店の中は廃墟同然だった。
「ひどいわね」
 遅れて現れたミンが思わず漏らす。しばし黙り込む四人。と、それまで黙っていたザイルが叫んだ。
「おい、あれ!」
 その指差す先には炎にその姿を揺らめかせてたつ人の姿。ベルシャンディと老人の遺体の前に立ち、それを見下ろしているミネルバ。ザイルの声に気がついたのだろうか、ゆっくりと振り向き、その視線がマークの視線に絡まった。
「……!」
 金色の……眼。
 人のものではない。獣のそれ。
 赤い涙を流すその瞳を見た瞬間、何かこの世ならざるものを見たような気がして、マークはその場で固まった。
 そのつぎの瞬間だった。店の中の炎が渦を巻いて巻き上がり、ミネルバの姿を隠す。赤い火の粉ごしに見えていたミネルバの影がかすかに揺らいだかと思うと、一瞬でその場から消えうせた。
「な……!」
どこに……!?
とっさに店の中から視線をそらすと、ミンは辺りを見回す。と、ミネルバの姿を再びみとめるよりも先にミンの体はザイルの手で横に飛んだ。
「痛っ……。ありがとう」
地面にぶつけた腕をさすりながらも、頭を庇って手を差し入れてくれたザイルに礼を言う。立ちあがって顔を上げると、そこには思いがけないものが存在した。
狼?それにしても大きすぎる……!
 ミン、ザイルと反対側にとんだマーク、シーナの目の前にいたのは茶色い毛の巨大な狼。その鼻面は大の大人の頭のような位置にあり、荒れ狂い、牙をむいた口からは涎が滴る。むき出しにされた爪は重々しい輝きを宿していた。
「半獣だ!」
「半獣が出たぞ!」
 いっせいに逃げ出す野次馬達。それをなぎ払うかのごとく、二、三度その大きな前足を左右に振るった。
 言わずともや。その爪に当たった者は弾き飛ばされて石の壁に激突し、荒い毛の生えた脚に当たった者は振り飛ばされてやねの上を飛び越える。まさに大惨事。燃え盛る炎の前で悲鳴が空に響いた。
「ザイル!許可レベル3!」
「わかった」
 悲鳴に混じって聞こえたミンの声の直後、狼の背にしがみついた黒い影。
「いい加減にしろよ」
 完全変態し、黒毛の狼と化したザイルがマントを投げ捨てる。同じ狼といえどその大きさの差は歴然で、まるで普通の狼に犬が勝負を挑んでいるかのようだった。
「ガァアウ!」
 激しい咆哮と共にザイルを揺すり落とし、とどめの一撃を加えんと脚を振り上げる。だが、その一閃が振り下ろされるよりも先にシーナがそこを駆け抜け、ザイルの体を運び去った。
「大丈夫?」
「平気だよ」
 立ち上がりながらそう答えると、低くうなっている狼をにらみつける。
「まさかミネルバが半獣だったなんて……」
 ゆっくりと首を横に振りながらいうミン。だが、マークは下唇をかみ締めてじっとミネルバの様子を見据えていた。
 なんとなく、そんな予感はしていたのだ。はじめてみた時に感じた妙な違和感。図書館に来て与えられた部屋の中で、はじめてザイルを見たときの感覚に似たそれ。だが自分はそれを見逃した。なんとなくだが確かに感じたそれを無視したのだ。
「くそっ……」
 小さくつぶやくと身構える。もはやどうしようもない。なるようにしかならないのなら、向かってくるそれに全力でぶつかってやるだけだ。
「シーナ!」
 感情のままに、叫ぶ。
 そのときだった。
「……して」
 それまでただうなる一方だったミネルバが不意におとなしくなり、確かに言葉を口にしたのだ。
「どうしてよ……」
 あまりに悲痛な声。狼の表情は読めなかったが、その金色の目からは一筋の涙が確かに流れていた。
「じっちゃんもベルも……どうしてなのよ!」
 悲痛な叫び声と共にそばの建物の二階をなぎ払う。散らばったレンガが降り注ぎ、マークは思わず首をすくめた。
「どうして!どうして!」
 風を切り、うなる脚。歯を食いしばって身をかがめる三人をよそに、マークは一歩歩みでた。
「マーク君?」
 はっとして投げかけられるミンの声も無視してただひたすら歩き続ける。ミネルバは気付いていないのか、マークの頭のすぐ上を轟音を立てて爪が通り過ぎていった。
「どうして!」
 振り上げられた脚がマークの横、僅かに数十センチといったところに振り下ろされて石畳が砕け散る。マークはためらうこともなくその脚に手を触れると、グッと茶色い毛を握り締めた。
「……!」
 ミネルバの動きが止まり、辺りに緊張が走る。
「あんたは何がしたいんですか?」
 静かに、つぶやく。
「確かにベルシャンディも、店主も亡くなりました。で? あなたが暴れても二人は戻りませんよ」
「……っ!」
反対の脚が振り上げられるのを感じて、一層強く拳を握る。
「同じように嘆き悲しむ人を増やしてどうするんですか? 二人がそれを望みますか?」
 慎重に言葉を選びながら語りかける。落ち着いているのではない。緊張のあまりからだが動かないのだ。もしもミネルバが今本気で暴れればマークなどひとたまりもない。胸の内でなにかよくわからないものに祈りながらマークは言った。
「もう、やめましょうよ。ね?」
 見下ろしている狼の顔と見詰め合う。大きくぎらつく金色の眼。そこに徐々に暖かく優しい色合いが戻っていき、かすかに微笑んだかと思うと、ミネルバはゆっくりと瞼を閉じてその場に倒れた。
「なんとかなった、かな」
「かな、じゃないわよ!」
 ほっと胸をなでおろしたマークの頭にシーナの強烈な平手打ちが襲い掛かる。見事に後頭部にそれを受けたマークは思わずよろめき、首筋を押さえながら振り向いた。
「なにすんだよ!?」
「こっちの台詞でしょ!?無茶にも程があるのよ、バカ!」
 大声で叫ぶと、目を閉じてそっぽを向く。マークは謝ったほうがいいのかもというような気もしたがそこはシーナのこと、二発目の平手が飛んでこなかったということはそれほど怒っていないのだろうと解釈し、手玉に取られるのも癪だったのでマークも何も言わずにため息をついた。
 心配そうに駆け寄ってきたミンになんということはない、と答えて辺りを見回す。どうやら騒ぎが収まってもまだ様子を見に来る勇気は無いようで―あるいはそれすら知りえないほど遠くへ逃げたか―、野次馬達が戻ってくる様子は見て取れなかった。
「で?この後はどうするの?」
人の姿に戻り服に手を通したザイルの横でマントを脱ぐと、同じく人の姿で横たわっているミネルバの方へ、顔は向けずに自分のマントを投げてやる。物音からシーナがそれをちゃんと彼女にかけているのがわかった。
「そうね……。長居は禁物だし、ミネルバを連れて車まで戻りましょう。途中でマースに合流すればメディスさんとの連絡も取れるし」
「いや……その心配はないみたいだよ」
 マークが示す先にはマントを羽織ってこちらに歩いてくるマースの姿。
「丁度いま終わったところ」
「そうですか」
 愛想のいい声でミンに答えると、ミネルバのそばで座り込む。
「彼女が今の?」
「そう」
「そう、ですか……」
マークが答えると、何かためらうように言葉を詰まらせる。
「どうした?」
 いぶかしんでマークが声をかけたときにはもう遅かった。
「失礼」
 ただ一言、そう言うと、メディスは人のものとは思えないほどに長く伸びた上下の犬歯をミネルバの腕に深々と突き刺した。
「な……!」
 一瞬の狼狽。すぐにマークが飛びついて止めさせたが、早くも傷口の周りはうっすらと血の気が引いてきていた。
 マースはメディスをリーダーとする毒蛇の半獣だ。その隠密性、いざという時の俊敏さもさることながら、その歯から相手の体内に流し込む毒の致死性は相当のものだ。並みのものであれば人噛みされただけで徐々に意識が薄れていき、数分のうちに死に至る。いまミネルバの体内に入ったのはそういう毒なのだ。
「マース!なにを……」
メディスさんより伝言です」
 ミンの言葉には答えずに続ける。
「それほどに巨大な半獣であれば今後任務で使える可能性もほぼ皆無。だが一方で『紫のマント』が現れたのにもかかわらず半獣が平然とそこにいるというのもおかしい。事後混乱帽子のためにも『紫のマント』を来て出て行った以上半獣にはしかるべき処理で応じる必要がある。よって当件の半獣は処分するものとし、足跡を残さないこと、また研究利用の観点から死体を持ち帰るものとする」
「そんな……!それのどこに殺す必要がある!?」
 シーナの手の中でゆっくりと血の気をなくしていくミネルバを横目に叫ぶ。
「そんなもん、ほかにやりようはあっただろうが。それこそ図書……」
「しっ!」
 図書館といいかけたマークを黙らせ、小さくため息をつくとマースは答えた。
「もしもメディスさんであったならばこう答えるでしょう。『それはそもそも半獣にやらせるような仕事じゃない』。組織にとって僕達は道具でしかないんですよ。そんなことをさせるためだけに半獣を連れ帰るだなんて聞いたことも無い」
「……」
 返す言葉もない。半獣はあくまで半獣であり、人ではない。この世界の基本システムだ。
 だが、それでもまだ納得しきらない様子のマークに、困ったようにもう一度ため息をつくとマースは再び口を開いた。
「僕も好きでやっているわけではありません。ですがこれは僕に下された命令ですから」
「……命令されればなんでもするのか?」
「それが僕の仕事であるならば。それに、今回はもはや手遅れですよ」
 マースの言葉にはっとして振り返る。
 そこにあったのは相変わらずシーナのひざの上、瞼を閉じたミネルバの顔。血の気をなくして、その頬に温かみはない。
「……シーナ?」
「……」
 返事は、ない。
 あわてて駆け寄ってミネルバの首筋にふれ、マークは絶句した。
 あるはずの脈は感じられず、触った感触も心なしか冷たい。
「畜生……」
 拳を握り締め、奥歯をかみ締め、小さな声でそう漏らすとマークは俯いた。
………
…………
……
「あーらら、結局そうなっちゃうのね」
 ざわめく群集の中、鮮やかな花模様の薄手のマントを目深にかぶった人影が言う。声から察するに女性であることは間違いない。どちらかといえば小柄な、女性。
「もったいないわよね。もしかしたらまた一人仲間に加えられたかもしれないのに」
「全くだ」
 彼女がすぐ横の男、真夏にもかかわらずロングコートを羽織り、フードをかぶった男を見上げて言うと、肩をすくめて彼も答える。
「そんなことよりさ、ウィード。あのマントの半獣集団、なんだと思う?」
「俺は知らないな。ただ、少し前にネスターバで起こった暴走事故に同じマントを着た二人組みが出たって話がある」
「……つける?」
「いや……」
 今にも走り出さんばかりに軽くひざを屈めた彼女の肩においてそれをとどめ、彼は続けた。
「予想外の自体だし、相手の力量がわからない以上、下手に深追いはしないほうがいい」
「……意気地なし」
「なんとでも言え」
 駆り立てても手ごたえが無いのを確認すると、諦めたように彼女もすっと立ち上がる。
「じゃ、とりあえず戻りますか?」
「そうしよう」
 短く男がそういうと、二人は人ごみを起用に掻き分けてその場を去った。