其之九拾七

「徹!」
驚きと歓喜の入り混じった、上擦りぎみの涙声で凛が叫び、思わず徹に抱きつく。その光景にいらだたしげな目を向けながら、ゆっくりと智も立ち上がった。
「お前…どうして?」
「なに、大したことじゃないんだけどね…。いてて……」
自分の傷の様子を見て間の抜けた声をあげながら言う。
「なにぶん血の気のおおい姉を持ったもんでね、ひたすら耐えることとやられたふりをして場を治めるのにはちょっと自信があるんよ」
そういって朋と凛ににっと笑ってみせ、凛の傷を見て眉根をひそめる。大きな傷は確かに治ってはいたがはっきりとした痣として残り、細かい傷の中にはまだ血がにじんでいるものもあった。
「へえ…それは知らなかった」
智も体の調子を戻すように首を回すと、ゆっくりとナイフを構えながら徹のほうへ足を踏み出す。
「おいおい、まだやるつもりか?」
おどけた調子で言いながらも拳を構える。対する智も肩をならしながら立ち止まると、もう一度ナイフの刃先を徹の眉間にピッとつけた。
「当たり前だ。このままめでたしめでたしでお前ら二人に終わってもらうのは癪なんだよ」
「ちょっと、智!」
低く押し殺した声で言う智にあわてた様子で朋が叫ぶ。
「ああ、分かってるよ。そろそろ時間がない」
「……ならいいけど」
そういって座り込む朋から目をそらすと、再び徹のほうへ目を戻す。
「そういうわけだ、手っ取り早く済ませるぞ」
(動きを止めて、仕舞いだ…!)
ナイフを持っていない、左手の中指と親指を強く突くあわせ、ゆっくりと横にスライドさせる。しかし、その指が音を鳴らすことは無かった。
「な…!」
左の拳に鋭い痛みが走る。いったいいつの間に近づいたというのだろう。本当に目の前に徹が立っていた。
「させるわけが無いだろうが、馬鹿」
そのまま腹めがけて右の拳を繰り出す。ぎりぎりのところでそれをかわした智はもう一度体勢を立て直していった。
「参ったな。これは長引きそうだ」
その声にはどこか芝居がかった焦りが見え、そして同時に何かを狙っているということを徹に悟らせた。
「あいにく俺にはもう10分ほどの時間しかない。あんまり長引かせるわけにはいかないし」
「だったらなんだ?」
智の言葉を遮って徹が口を開く。
「さっさと来いよ。俺は頭に来てんだ。凛にあれだけ色々やってくれたからな。さっさと来いよ。手負いとはいえ……返り討ちにしてやる」
「徹!ダメ!」
自信たっぷりに拳を突き出す徹を凛が諭す、しかし、智はそれに乗っては来なかった。
「遠慮しとくよ。そのかわり、別れを告げる前にいい事を教えてやろう」
「いいこと?」
「ああ、その通り」
ナイフを持った手を下に下ろし、朋をそばに呼び寄せながら続ける。
「あと十分ほどでバーチャルワールドに俺は移住するわけだがな、それと同時に起こる事がもう一つあるんだ。なんだか……分かるわけがないよな。ああ、分かってるから急かすなよ」
ぐいぐいと腕を引く朋に手を振りながら、黙り込んでいる徹のめを見据える。
「それは、この空間の崩壊だ。俺がバーチャルワールドの中にはいって本格的に動き出したら、そのデータ量は半端なものじゃなくなる。それに俺が居なくなればそのデータが入っているPCを管理する人間も居なくなるしな。自分の命をそんな危険に晒すわけには行かない。」
「そこで俺はこうすることにしたんだ。俺がバーチャルワールドに完全に移住すると同時に、その全てのデータをバックアップも含めて3つ作成し、世界中を駆け巡るインターネット回線に放出する。何十にもロックをかけ、しかも常に場所を変えるプログラムデータは簡単に排除されないし、仮にどこかが傷ついてもほかの二つと比較して定期的に修復するから問題はない。」
「だが、それをやるとなると今度はそういう事が起こっているという情報は抹消しておいたほうがいい。それを知られて探されたりしたらたまらないからな。そのために、俺らが完全に移住すると同時に、俺のパソコンの中のバーチャルワールド、すなわち今俺たちが居るこの石壁だらけの空間はプログラムごと抹消することにした。」
「この空間はできるだけ安全にするためにほかの一切のプログラムとの関係を絶っているから、逆にこの空間から俺のPCのメモリーの中に逃げ出すことも出来ないようになっている。つまるところ、お前達はもはや何も出来ずにこの空間で消滅するしかないってことだ。……ああ、どっちかを見捨てて一つしかない脱出口、まあお前が入ってきた時の奴だが、を使えば一人は助かるけどな」
できるのか?といわんばかりの笑みを浮かべて徹を見る。
「そんなことして……一晩で俺と凛とそいつが居なくなったらひどい騒ぎになるぞ?いいのか?」
「それがならないんだな」
「何?」
自身たっぷりといった様子の智に、徹が眉をひそめる。
「お前があちこち駆けずり回ってる間にさっき消した4人を駆けずり回らせてな、お前らと近しい人間の記憶をちょっといじった。お前達が消えたところで誰も騒ぎはしないよ。さて……」
いよいよ時間が押してきて、もはや有無を言わせずに智を引きずっていこうとする朋になんとか逆らいながら智がゆっくりと部屋の一角に向けて歩き始めた。
「そろそろ時間だ。俺たちはもう行く。お前達は……まあ自分達の非力さを嘆きながら消えていくがいいさ」
「待て…!」
(そんな目にあってたまるか……!)
脳裏に蘇る4人の男や女の最期の光景をかき消しながら智の背中を追いかける。次の瞬間、数歩目の足を出そうとした徹の体が固まって動かなくなった。
「かかったな」
罠にかかった獲物を見るような目で智が振り返る。徹の手足にはまた、あの強力な麻紐が結びついて拘束していた。
「いろいろ言いたいところだが本当に時間がない。一発で終わらせてやるよ」
ニイッと口の端を上げながらナイフを持った手を肩越しに振りかぶる。その瞬間、獲物を見据えた智も、ナイフに全ての神経を集中させた徹も、呆れたように腰に手をやった朋も、3人の誰もが気付かないうちに、凛が床をけって飛び出していた。