其之九拾五

「おい凛!聞こえてるか!」
智が何も言わないのをいいことに声を張り上げる。
「いまそっちがどうなってるかは分からないけど!耐えろ!絶対そっち行ってやるから!」
徹の顔はどこか笑っているようにも見えたが、対する凛はその瞬間、背筋が凍りつくのを感じた。
恐る恐る顔を横に向ければ案の定、不愉快さと苛立ちにただならぬ気配を放つ智の姿がそこにあった。
『なるほどねえ』
愛想のいい声で智が口を開く。
『そこまで言い切ったんだから、ちょっと趣向を変えようか』
そういって智が片手で合図を送ると朋が壁に設けられていたキーボードを幾度か叩く。と、まるで最初からそんなもの無かったかのように、徹をつないでいた麻縄は消えていた。
「なんだ、逃がしてくれるのか?」
『俺はな、お前みたいな自信たっぷりな奴がどうにも嫌いなんだ』
徹を無視して、ねっとりとした声で再び智が言う。
『それにあそこまで言い切れる奴を動けなくして殴るのは失礼だしな。自由になった状態でそいつらと戦って、改めて自分の無力さを思い知るといい。……はじめろ』
その声を合図に男達が突っ込んでくる。徹は辛うじて4人とも交わしたが、そのたびに体に走る痛みは隠し通せなかった。
………
…………
……
「がんばるな、あいつ」
祈るように窓の外を見ていた凛に向かって不意に智が口を開く。
徹が拘束を解かれてから15分は経っただろうか。体が自由になったことではじめのうちは何とか男達の拳をかわし、時々反撃までしていた徹ではあったが、さすがにそれまでに20分以上も殴られ続けていた体でそう長くもつはずも無く。痛みに耐えながらも何とか避けようと足掻くので、傍から見れば拘束されていた時異常に惨めに見えた。
「どうしてよ……」
震える声で凛がつぶやく。
「どうして徹にあそこまでするの!?徹は関係ないはずでしょ?どうして……!」
キッと智をにらみつけ、手で押さえていた布の端を握り締める。智は振り向きもせずにただ窓の外を向いたままで立ち、部屋の入り口に控えて凛の逃げ道を塞いでいる女は目を閉じ、表情を少しも崩さずにただじっと立っていた。
「関係なくは無いだろ」
いつまでも自分をにらみつけている凛に嫌気が差したのか、悟るが口を開く。
「ほかでもない、おまえ自身があいつを巻き込んだんじゃないか。そのせいであいつは俺の気に障って、あんな目にあってるんだ」
「だったら!……だったら、徹はもう開放して…。その分私に何をしてもいいから」
言葉を詰まらせながら凛が言う。窓の向こうでは腹に鋭い蹴りを受けた徹が吹き飛ばされるようにして倒れた。
「おかしなことを言うんだな。いつからお前に、自分がされることを選ぶ権利が与えられたんだ?……まあ最も、仮にそんな権利がお前にあったとしても俺の知ったことじゃないけどな」
「……」
何も言えず、ただただ憎しみに満ちた目で智をにらみつけることしか凛には出来なかった。
「それに……」
もはや何も言わないかに思われた智が再び口を開き、凛の目がその背筋の凍るような笑みを捕らえる。
「もう手遅れみたいだぞ?」
「え……」
はっとして視線を窓の方に流す。頭の中で意味も無く「手遅れ」という単語を反芻しながらにごった窓に目を凝らす。
(徹……?)
一瞬、徹がどこに居るのか分からなかった。凛の視界に映ったのはぼんやりと欠伸をしている朋と、一箇所に固まって何かを見下ろしている男達。彼らが蹴飛ばしているなにかが力尽きて倒れた徹だと気付くのに数秒はかかった。
「徹!」
悲痛な声でその名を呼んで駆け出す。智の合図で女が道を開いたことすら気に止めずに扉を開け放つと、男達がしつこくけりまわしている徹のもとへ駆け寄る。女と同じく智の合図を受けた男達も、徹と凛をあざ笑いながらその場を数歩離れた。
「徹!?ねえ、徹!」
いつものように頬を叩いてみたり、軽く頭を揺すってみても徹は一向に答える様子が無い。その体はあちこちに痣ができ、血のにじんでいるところもいくつも見受けられた。
(そんな……嘘でしょ?)
最悪の結果が脳裏に浮かぶのを必死にかき消しながら、何度も凛は呼びかけた。今にも徹がにっと笑って起き上がるような気がして、頬を叩く手も、肩を揺する手も止める事が出来なかった。
「よう、やったか?」
ふと背中から聞こえた智の声に涙を湛えた目で振り返る。凛の飛び出して行った後をゆっくりと突いてきていたのだろう。振り向いたすぐそこに、ポケットに両手を突っ込んでこちらを見下ろしている智の姿があった。
「まあかれこれ40分近く4人で殴り倒しましたから」
「まだ息があるのが不思議なぐらいです」
虫の息ではありますが、と付け加えてほくそ笑む男に、同じように片頬を上げて応じてやる。
「まあ、どの道この調子なら長くは持たないか」
様子を確認するように、凛を片手で強引に横に押しやって徹の顔を覗き込む。目を閉じ、細い息を繰り返すその様はまさに瀕死というにふさわしかった。