其之九拾参

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「おい、もういい」
徹の居る部屋の隣、凛と女の諸事を背中に立っていた智が窓の外を見ながら口を開いた。
徹のマジックミラーという読み通り、徹の側からは何も見えない窓も、智の側からは反対側で何が起こっているのかをはっきりと映し出していた。
「え〜、もうですか?」
智にはほぼ常に従順な女が珍しく不平を漏らす。智も一瞬不機嫌そうに眉をひそめると、ゆっくりと女の方を振り返る。
「私はもう少し愉しみたいんですけど……」
そういって視線を横に流す。その先に居る凛の顔はすっかり紅潮し、半開きになった口で荒い息をしていた。
「知るか、そんなこと」
そんな凛には目もくれずに言うと、部屋の隅、ナイフなどに並んでおいてあったバケツを取ってくる。中にはそこそこつめたいのだろうか、バケツに結露が起こるような水が入っていた。
「そいつをお前の好きにしていい、って言ったのは向こう側に居るあいつに見せ付けてやるためだ。あの四人の攻撃に耐えることで精一杯の彼にはそんなもの必要ない」
そういって顔を窓の外に向けながら二つ持ったバケツの片方を足元に置き、一つを両手に抱える。
「もはや責めとして役に立たないなら、こいつにこれ以上の悦びを与えてやる必要は俺には無い。そしてこれはお前の玩具じゃない。わかるな?」
「……はい」
もはや何も言わずに女は下がる。ぼうっとした頭で天井を見上げていた凛は、名残惜しそうな顔で自分を見下ろしてからはなれていく女の顔をぼんやりと感じていた。
「おい、起きろ!」
その顔にめがけて、突然冷たい水が浴びせられる。冷たさと、まだ癒えきらない傷口をちくちくと刺激する感覚に凛の意識は一瞬で現実に引き戻された。
「窓の外を見てみろ」
二杯目の水も思い切り凛に浴びせてから無理やり立ち上がらせると窓のそばまで、半ば引きずるようにして連れて行く。弱りきった体で凛が智の力にかなうわけも無く、たいした抵抗も出来ずに連れて行かれながらも辛うじてそばにあった最も大きい布を掴むと、ぎりぎり体に巻きつけて智についていった。
(何…?)
はじめ、その視線の先で何が起こっているのかわからなかった。一箇所に集まって何かをしている男達と、それを楽しそうに眺めていたかと思えば時々退屈そうに欠伸をする朋。その男達が何をしているのか、凛には分からなかったのだ。
しかし、男の一人が勢いをつけようとしたのだろうか、拳を引き絞りながら数歩後ろにさがったその時にあいた隙間から4人の中央を見た瞬間、凛は思わず息を呑んだ。
「徹!」
ところどころ血を流しながら抵抗も出来ずにただ歯を食いしばって耐えている徹の姿がそこにはあった。
「徹!ねえ、徹!」
「無駄だよ。いまこの部屋から向こうに、一切の音は伝わらないからな。あいつにゃ聞こえてない」
にいっと笑う智を強くにらみつけるとその視線を徹のほうへ戻す。智の言うとおり、徹には何も聞こえていないようで、ずっと下を向いたまま殴られるがままになっていた。
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…………
……
『おい、聞こえてるか?』
止まることなく繰り返された痛みがふいになくなったかと思うと、智の声が徹の耳に飛び込んできた。
「ああ……聞こえてるよ」
切れた唇をなめ上げながら答えると、口の中にたまった血を吐き出す。なにぶん手足が自由にならないので自分の体の状態を確認することは出来なかったが、じくじくと響く痛みはその被害の大きさを確かに徹に伝えていた。
『どうだ?抵抗も出来ずにやられる気分は』
「最悪だな……。やってらんねえよ」
憎らしげに言いながら周りを取り囲んでいる男達の顔を見渡す。どの顔も徹の様子が楽しくてならないらしく、陰湿な笑みがべっとりと張り付いていた。
『そうか……』
それだけ言うと、なにか考え込むように智が言葉を区切る。徹はまた下唇を噛んで、切り傷からあふれる血をなめていた。
『どうだ?ちょっと提案があるんだが』
「提案?」
『もともと俺がお前にこれだけのことをしたのは、俺の奴隷の逃亡に手を貸したからだ。もしその罪を認めて謝るなら、お前だけはもう帰してやってもいいぞ?』
いい加減つらいだろ?と、さも哀れむような口調で付け加える。徹は智が居るであろう辺りをにらみつけながらもう一度口の中の血を地面に吐きつけた。
「もし俺がそれをのんだとしてだ、その時凛はどうなる?」
『まあ、そう来るだろうとおもったよ』
鼻で笑いながら智は横に立つ凛のほうへ目をやる。彼女は徹の身を案じるだけで精一杯のようで、智の視線には気付いていないようだった。
『こいつはもともと俺のものだ。お前が帰った後も一通り遊んだ後で……そっから先は伏せとくか。まあそんなところだ。当然だろ?』
「ああ…そうだな……」
首をぐるりと回しながら答える。
「当然、お前はそう答えると思ってたよ」
徹の挑戦的な視線が智の目を捉える。
『で?どうするんだ?のむのか、のまないのか』
「のむわけがないだろうが、馬鹿が」
まさに即答。周りにいた男たちまで一瞬驚いたように目を丸めると、それぞれに肩をならしたり、指を鳴らしたりして徹を威嚇する。
『まあ待て。お前達は黙ってろ』
いまにも飛び掛りかねない男達を制止すると、身を乗り出して徹にたずねる。
『なあ、一つ聞くがどうしてそこまで必死になる?お前がこいつを助け出したいと願うのは別として、このままこの調子で続けられたらお前、確実に死ぬぞ?』
「……かもな」
周りの男達を一瞥して答える。実際彼らの一撃一撃の重さは半端なものではなかったし、まして身動きが出来なければその行き着く先は容易に予想できた。
『……まさかお前、いい年して諦めなければなんでもできる、なんて考えてるんじゃないだろうな?』
ふと思いついたように言う智に、へっと笑って徹が答える。
「まさか、そんな事があるなら世の中、夢のかなわない人間は居ないことになるな。そんなこと、考えちゃいねえよ」
よほど強く殴ったのか、いつまでたっても痛みの引かないわき腹と、そこに手を伸ばせないもどかしさを感じながら徹は続けた。
「ただ一つ。諦めなくても失敗することはあるか知れないが、諦めた時は最後、何も出来なくなる。これだけは確かだろ?だったら、俺は最後の最後まで可能性にしがみついてやるさ」
『ふうん……』
智が凛の横で短くつぶやく。聞いただけでは感心しているようにさえ取れるその口調に、徹は智の苛立ちを感じ取る事が出来なかった。