〜5〜

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(時間をつぶせって言われてもな……)
 厨房でもらってきたティーパックとポットを手に、真新しいカップの中に湯を注ぎこむ。その中に紙の包みから出したティーパックを沈めてやると何かが漏れ出すかのようにカップの中が赤く染まり、薄紅色の渦を描いた。
「紅茶はストレートでいいか?」
「はい。なんでも」
 背中越しに返ってくる返事にわかった、と答えるとポットを置き、二つのカップを手に振り返る。ベッドの上に腰掛けていたシーナは机のほうに伸ばしかけていた腕をあわてて引っ込めると立ち上がった。
「…その本、気になるか?」
「え?」
 差し出されたシーナの手に紅茶のカップを渡すと、自分のカップを片手に机の上の本を一冊手に取る。ミンに半ば押し付けられるようにして渡されたうちの一冊だ。表紙には『最新版・世界史』と記されていた。
「本当は俺が読めって言われてるんだけどそんなに一気に読めるような量でもないし。なんなら読んでいいぞ」
「じゃあ……」
口調は遠慮気味に、それでも顔は輝かせて本を受け取るシーナを見ながらその横に腰掛ける。すくなくともマークの知っているシーナはこんな風に自分から進んで分厚い本を読むようなことは無かった。
「……書いてあることの意味、分かるのか?」
「はい。大丈夫です」
「ふうん、そう」
本から目を離さずに答えるシーナを見ながら言うと紅茶をすする。どうやら知識がなくなっているわけではないようだ。ただ記憶だけが飛んでいる。
(ちゃんと戻るんだよな……)
 大きく息を吐くとカップを机の上においてベッドの上に転がった。
「どうかしましたか?」
 突然マークが倒れこんだので驚いたのだろうか、体をよじってマークを見ているシーナに無言で大丈夫、と合図を送ると、布団の上に仰向けになって天井を見上げた。マークの中をかき乱すかのように次々とおこる出来事にうんざりしていた彼の眼の中で、僅かに汚れた白い天井が渦を巻くかのようにゆがみ、マークの意識はどこかをふわふわと漂うかのようにぼんやりとしていた。
「……よし。じゃあちょっと図書館の方に顔出すか」
「図書館ですか?」
ふうっと大袈裟にため息をついてそんな意識をつなぎとめ、ごろりと横に転がってベッドから降りるマークを見ながらシーナが尋ねる。
「そう。こんなせまっくるしい部屋で読んでるよりもそのほうがいいだろ。あっちだったらもっと色々種類もあるし」
「はあ」
 目をぱちくりさせながらも本を閉じ立ち上がるシーナを見やりながら自分の紅茶を飲み干し、シーナの分も預かって部屋の棚のそばに置く。ポットを夕食の時に返すついでに厨房で洗ってもらえばいいだろう。
「しかしいつまでもその格好って訳にもいかないよな」
手ぶらで行ってミンかシーマに見つかれば何かしら言われるのは目に見えているので、しぶしぶ読みかけの一冊を手にとってシーナを見る。おもえば研究棟から来てから一度も着替えていないので、シーナは未だに白い検査着一枚の姿だった。
「とりあえずお前の部屋に行ったほうがよさそうだな。部屋に入れるものもお任せにしておいたから、たぶんなにかしらあるだろ」
「わかりました」
シーナが頷いて近づいてくるのを確認すると、マークは戸を開けた。
 恐らくこの昼前後の時間がいちばん忙しいのだろう。マークが開けた扉の向こうには廊下を忙しく行き来する職員達の姿があった。なにやら書類を持った男性職員とぶつかりそうになりながらしばらく廊下を進み、『シーナ』という名札の入った扉を開ける。ジャイルといい、ザイルといい、どうやら半獣たちは苗字というものを持たないらしい。もっとも世間一般的には人間ではないのだから仕方の無いことなのかもしれないが。
「うん、まあ予想通り。そこそこそろえてくれてるな」
 シーナの部屋の中には一面にどこかふわふわとした感触の赤い絨毯が敷かれていた。壁はマークの部屋同様白かったが、角や梁、柱の部分には黄色がかった別の壁紙があしらわれていた。まさか一晩でここまで色々準備ができるとは思えないので、壁のことは恐らくもともとなのだろう。あるいは前の部屋主が―居たとするならばだが―よほど部屋のつくりに凝っていたか。
マークはそんな部屋の中を見渡しながらクローゼットの戸を開けると、中から適当に服を選び取る。単色のTシャツにジーンズ。ネスターバでよくシーナがしていた格好だった。
「何か部屋に欲しいものがあれば俺に言ってくれ。俺から事務の方に頼むから」
「はい」
頷きながらマークの手からそれを受け取ると、シーナはそれを目の前にかざして、考え込むように首をかしげた。
「どうした?……気に入らないなら自分で選んでもいいぞ?」
「じゃあ……」
マークの方にチラッと目を流すとクローゼットの前にたつ。しばらくごそごそとその中を探った後でシーナが手にしていたのはピンク色のワンピースだった。
「こういうののほうがいいです」
「…そっか」
短く答え踵を返すと、マークは戸を開けた。変に考えてもつらくなるだけなので、深くは考えないことにした。
実際のところ、少しして着替えを終えて出てきたシーナは見違えていた。真っ白い肌の上に検査着を着ていたときに比べれば、今の彼女はよっぽど人間らしく思えた。もちろんそれでもそこに居るシーナはマークがよく知っている彼女ではなかったし、彼女が半獣であることも変わらなかったが、徐々にマークの心の中に、今のシーナに対する親しみすら生まれていた。
「確かこっちだったよな……」
昨日の記憶をたどりながら角を曲がる。すると、大して迷うことも無く、彼の目の前に大きな木の扉がそびえていた。
できるだけ静かに、絨毯と擦れ合ってかすかな音を立てる扉を押し開けると、先にシーナを図書館の中に入れてゆっくりと扉を閉める。パッと見ただけでもゆうに30人以上の人が二人の前を横切ったり、立ち止まって新聞を読んだりしていた。
「ちょっと待って。ついてきて」
早くも本棚目指して歩き出すシーナを止めて、本棚とは逆の方に歩き出す。シーナは一瞬名残惜しそうに背中の本棚を見やると、とんっと床をけって早足でマークの後ろに追いついた。
「お前を紹介しておきたい奴がいてさ。あ、いたいた」
 ふっと視線をカウンターの方に流すとそこに見つけた人影に向かって軽く片手を上げて近寄る。
「よっ、シーマ」
「ん、おお。おはよう」
 突然肩を叩かれて驚いたようにパソコンの画面から眼をそらすと、マークの方に振り向いて軽く片手で応じる。すぐ横の机には色々な本がきれいに並べて積み上げられ、シーマはそれをなれた手つきで三つの山に分けてからもう一度マークの方に振り向いた。
「で、どうかした?」
「いや、たいしたことではないんだけどさ」
そういって半身横にずれ、すぐ後ろに立つシーナを前に出す。
「こいつ。シーナ・チェルスタインって言って、俺の幼馴染でその……」
「あー、ストップストップ」
言葉に詰まったマークの前に手をかざしてそれ以上の言葉を遮ると、軽く立ち上がってマークに耳打ちする。
「この子半獣か?」
「……ああ」
短くマークが答えると、うんざりしたようにシーマがため息をつく。
「ちょっと来い。ベルさん、ちょっとお願いします」
「え、ちょっとって?おい……」
 訳も分からずにうろたえているマークを無視してそばにいる職員に声をかけると、シーマはマークとシーナの背中を押して、カウンターの後ろにある保管棚の裏に入っていった。
…………
「とりあえずな、お前はこれ着とけ」
 本棚の裏、小さなワードローブからフードつきの水色のパーカーを取り出すと、それを半ば押し付けるようにしてシーナに渡す。シーナが手にした本をマークに預けてそれに腕を通すのを確認すると、今度はすぐ横にいたマークの方に振り向いた。
「お前も。知らなかったのかもしれないけど、半獣をうかつにこっちにはつれてこないこと。本当はこんなところにいちゃいけないはずなんだからな」
「……なるほど」
 静かに諭すシーマに短く答え、フードをかぶったシーナを見やる。少なくとも顔がある程度隠れたおかげで周りから変に怪しまれることは無いように思えた。
「まあとはいえ、シーナって俺たちと同い年なんだろ?ある程度の注意をそっちが払ってくれるんなら、俺も協力してやるよ」
「は?え、いいの?」
思わず自分が間抜け顔をしているのにも気付かずにマークが聞き返す。
「ん、まあ俺はそこまで半獣のこと毛嫌いしてるわけじゃないからな。そりゃ人間じゃないかもしれないけどよくみてりゃあただのバケモノって訳でもないんだしさ。そこまで嫌うことも無いと思うんだよな」
「へえ……」
「驚いた、見たいな顔すんなよ。お前だってそういうクチだろ?」
 感嘆の声を上げるマークの方をポン、と叩いて横をすり抜けると、棚の上の方にある本を見上げているシーナの横まで脚立をスライドさせてやる。
「俺の知る限り、ミンとドミニオン姉弟もそうだぜ?だいたいそうでもなきゃリーダーなんてやってられないだろ。まあ後の二人は……よくわからないんだけどさ」
「ふうん」
 内心マークは安心していた。どうやらここには少なからず自分と同じような概念の人間がいるらしい。十五年間生きてきてはじめてそういう者に出会えたのはマークにとってささやかな喜びだった。
「で?シーナはやけに熱心に読書に励んでるみたいだけどお前はどうなんだ?」
「聞かないでくれよ……」
 意地の悪い笑みを浮かべたシーマにため息で答えると、半分まで読み終わった分厚い本を開く。ずらりと並んだ活字が何かマークを拒絶する壁のようにさえ思えた。
「まあ暇な時にゆっくり読むといいさ。俺もそれを全部読むのに一年かかったから。まあ最後の方は流し読みだったけどな」
そういって笑うシーマにつられて、マークも軽く笑い返した。
「あーあ、にしてもうらやましいなあ」
不意に、声高にシーマが口を開き、周りの職員ににらみつけられてあわてて口をつぐむ。へこへこと辺りの大人たちに頭を下げ、周りの目が離れたのを確かめてから再びシーマは喋り始めた。
「これでマークもシーナと一緒に任務につけるわけだろ?いいよな。俺なんか一日中この図書館の中で司書係だぜ?」
「いやいや。そんなすぐに任務にはつかないよ」
「え?どうして?」
「なんせシーナが今朝目覚めたばっかだから、当面はミンの手伝いだって言ってた。それに……」
 ふと自分の苦悩を打ち明けようとして言葉が詰まる。
「どうした?」
 訝しげに尋ねるシーマの後ろで、シーナが興味深そうになにやら表紙の大きい本を抱えていた。
「いや、なんでもない。まあシーマが思ってるほど楽じゃないってとこかな」
「んなこたぁ百も承知さ。それでも俺はお前らリーダーがうらやましいんだよ」
「ふうん。そんなもんか」
 おどけた調子でそういってまた笑う。結局、マークはシーマにそれ以上シーナについては話さなかった。とりあえずシーナがすぐそばにいるときに話すのは今のシーナにとって可哀想な気がしたし、心のどこかでどうせわかってもらえないと諦めていたのかもしれない。とにかく、マークはいちばんの苦悩の種を打ち明けなかったのだ。
…………
「じゃあ、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
 夜。マークの部屋の前でマークとシーナは軽く言葉を交わした。風呂はそれぞれの部屋にあるバスルームか大浴場を使うことになっているらしく、その日は二人ともそれぞれのへのバスルームで済ませることにした。一日中図書館で本を読みふけっていたにもかかわらずシーナは3冊もそこそこ分厚い本を持ち帰り、マークもシーマと話しながらではあったが何とか2冊目を半分読み終わる事ができた。
 夕食は、一日中ろくに運動していないにもかかわらず吸い込まれるようにマークの腹に消え、横でミンが呆れていた。マーク自身、ほとんど一日中本を読んで過ごすことなどはじめてだったので、自分の食欲に驚かれてならなかった。
 夕食の席でのミン曰く、とりあえず一ヶ月間、マークたちはミン、ザイル組の手伝いをすることになるらしい。横でこっそりテレスが、チェロが教育係になろうものならこっちが仕事のほとんどをやらされる羽目になるからそれよりはましかもしれないが、ミンは時々妙に厳しいことがあるから……と言っていたが、マークは既にあの読書地獄でそれを嫌というほど実感していた。
 当面はこのような毎日が続くのだろうか。ぼんやりとそんなことを考えて欠伸をしながら鏡の前に立つ。まだ2日目では無理のない話しかもしれないが、マークはまだここがどのようなところなのかをほとんど知らない。なにか暗く長いトンネルの中に単身、目隠しをして放り込まれたような気分だった。
「……寝るか」
 どうせ明日の朝もそこそこ早い。なれない場所での朝はどうしたってそうでない時よりも遅くなるし、実際今日はもう眠かった。
「おやすみなさい」
 誰もいない部屋のベッドの中、静かにつぶやいてマークは目を閉じた。