〜4〜

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 朝。さして広くもない部屋に一つだけ開いた部屋の窓、カーテンの隙間から都会の朝日が差しこむ。ほっそりと差し込んだその光は部屋の中をうっすらと照らし、部屋の壁にそって置かれたベッドを浮かび上がらせた。と突然、ベッドの上を完全に覆い隠していた掛け布団の淵からぬっと人の手が頭を出した。ゆっくりと、だが迷うことなくまっすぐに伸びていくその腕は、ぴんと伸びきって止まり、天井を支えるかのようにその掌は開かれる。しかし、その手がいつものように冷たく、ところどころへこんだ金板を受け止めることはなかった。そのかわり腕の持ち主を襲ったのは部屋中に響き渡るほど大きくけたたましいベルの音。程なくして掛け布団はめくれ上がり、その下からまだ眠そうな顔をしたマークの姿が現れた。
(……そっか、目覚まし時計、入れてもらったんだ)
 しばし目を瞬かせて状況を把握すると、ゆっくりと布団の中から這い出る。机の上にはまだシーマから渡された本が一冊開いたままで残っており、残りの三冊はそのそばにそろえて並べられていた。
 (……朝飯まですこし時間があるな)
 いつまでもしつこく鳴り続けている目覚ましのベルを切るついでに時間を確認して、一つ大きな欠伸をする。一晩経ってみてもう一度部屋の中を見渡すとどこか知らないところにいるような妙な感覚に襲われたが、それは大して気にしないことにした。もともと昨日だけであれだけおかしな事があったのだ。今更ちょっと部屋の様子が違う程度のことなどどうでもいいことのように思えた。
 とりあえず開きっぱなしの本を閉じて新しく部屋に入った箪笥の中からタオルを一枚取り出すと、まだ力の入りきらない足で部屋の出口の方まで歩いていく。マークはもともとそれほどいい暮らしをしていたわけでもなかったので新しく部屋に欲しいものといわれてもあまりピンと来なかったため、ミンとシーマに頼んで適当に入れてもらった。結果、追加されたのは箪笥と衣服と目覚まし時計。あとはシーマがもう使わないからということでミュージックプレイヤーと何枚かの音楽ディスクが机の上に並べてあった。まあとりあえずはこれで、毎朝天井から落ちてくる金だらいに起こされずにはすむわけだ。
全く突然に家を出てきたために着替えも持っていなかったので、箪笥と一緒に適当なものをそろえてもらった。いくつか趣味に合わないものもあったが、頼んでやってもらった以上それは目を瞑ることにした。
部屋のドアを開けて外に出ると、右に曲がってすぐのところに二つ洗面台がついている。ミン曰く職員達の共用の洗面所だそうで、歯を磨くにも顔を洗うにも、大抵のことはここで済ませることになっているらしい。
どうやらマークの起床時間は相対的にみて若干早いようだ。廊下に見受けられる人影はせいぜい片手で数えられる程度で、皆少なからず眠たげな顔をしていた。
(昔行った林間学校みたいだな……)
ふっとそんなことを思い出しながら鏡の前に立つと蛇口をひねって水を手にすくう。一瞬その暖かさに驚いたが、やはりそれほど長く気を留めるわけでもなく、辺りに水を撒き散らさない程度に顔を洗う。たしかに蛇口から流れる水はこれまでマークが触れてきた水道水よりは随分と暖かかったが、それでもマークの眠気を吹き飛ばすには十分冷たかった。「ふう……」
「あら、おはよ〜」
「あ、おはようございます……」
 ぬれた顔をタオルで拭き、朝の空気を吸っていると見知らぬ女性に声をかけられた。30とまではいかないだろうが、ミンほど若くもない。大方26,7歳くらいだろうか。マークが適当な返事を返してやると、その女性はマークのことなど眼中にないかのようにふらふらと洗面所の前まで歩いていった。
(……だれだ?)
 小さく首をかしげると自分の部屋の扉を開ける。
西のはずれにあるネスターバと違い、世界のほぼど真ん中に位置するこの国立図書館の朝は、マークにとっては随分と暖かなものだった。朝日は惜しみなく差し込み、優しくマークの寝起きの体を包み込む。まだ堅い体が心地よい日差しに包まれてほぐれていく様はなんとも心地よいものだった。
「まあこんなところでいいか」
適当に引っ張り出した服を身につけ、ざっと自分の身なりに目を通すとドアを開ける。なんだかんだでのんびりと過ごしているうちに時計は朝食の時間を知らせていた。
………
…………
……
 食堂まではすんなりたどり着いた。もともと比較的分かりやすい道のりだったこともあるが、何より朝のすきっ腹を抱えた体は、いつにもまして食べ物の匂いに敏感だった。
(ここか)
 目の前にあるのは図書館の入り口にあるのと同じ、大きな木製のドア。隙間から漂ってくる匂いがマークの体を手繰り寄せる。何もここで我慢して自虐に浸ることもない。素直にマークは人の流れに乗ると、ドアを開けて食堂に滑り込んだ。
「わお……」
 思わず息をのんだ。長い机の上に並べられた大きな皿の上に盛られた料理はどれもみなその姿だけで食欲をそそり、取り皿を取りに向かうマークを一層急かすようだった。
 サラダやなにやらさまざまな種類のフルーツ。中にはマークの見たことのないものも並んでいる中を適当にうろつき、口の中に満ちる唾を飲み込んで適当に料理を皿に山盛りになるまで取ると、開いている席を探して辺りを見回す。と、広い食堂の中に一箇所、僅かに周りとは違う雰囲気を放つ空間があった。
 なんだろう。ふと気になってそちらの方へ歩いていく。と、マークがそれほど近づくよりも先に、そのそばに座っていた一人の背中が振り向いた。
「ああお前か」
 振り向いたザイルはマークの顔を認めると、つまらなそうにして再び彼に背中を向ける。しかし、その一言で少なくともその空間にいた者は皆少なからずマークの方に目を流していた。
「おはよう、マーク君」
「おはよう。それにテレスとジャイルも」
「はいおはよう」
 ミンに軽く答えると、彼女の右隣の席に腰を下ろす。マークから見てミンの向こうにはザイルが、向かいにはテレスが座りその隣、ミンの向かいにジャイル。さらにその奥にも何人か座っていたが、そのどれもがマークは知らない顔だった。
(なるほどね)
 とにかくペコペコな胃袋に詰め込むようにしてパンを口に運びながら思う。マークの左側、そのすこし変わった空間の中にさらに変わった雰囲気を放つ者が幾人か見て取れた。ザイルとジャイルとあと3人。11、2歳程度にしか見えない少女と逆に20くらいに見える青年が隣り合って座り、またはなれたところにジャイルと同い年くらいの少女がグラスの中の水を飲んでいた。
「ねえ、あの3人って……」
「ああ……そう。半獣だよ」
(やっぱり……)
 そう、と短く答えると、正面に向き直って次の一口をむしりとる。昨日からどこか敏感になっているのだろうか。少なくとも今までは、一目見ただけでそれとなく半獣とわかるなどということはなかった。もちろん容姿の良し悪しである程度の判断が出来ないわけではないが、容姿の良い者が全て半獣というわけでもない。今のマークのカンの良さはそういった判断とは一線を画すものに思えた。
「ついでだから紹介しとくね。ザイルの隣にいるのがミンレイ。その向かい側がマース、さらに隣の女の子がミル」
「どうも」
「……よろしく」
「よろしく」
 立ち上がって軽く頭を下げるマースと、マークには見向きもせずに、つぶやくようにいうミンレイに軽く答えて水を飲む。ミルと呼ばれた、ウェーブのかかった長く、淡い金髪の少女は、小さくマークに頭だけ下げると俯いて黙り込んでしまった。
「それで、ミルの奥にいるのが彼女とマースのリーダーのメディスさん。特に決まってるわけじゃないけどウチの顔みたいな人かな」
「よろしく」
「ああ、よろしく」
マークが頭を下げると、メディスもそれに応える。長すぎず、短すぎず、程ほどに伸びた黒髪は寝癖を直した程度に整えられ、彼の身につけた、軽く乱したスーツによくあっていた。
「でも一人で二人の半獣のリーダーになることってできるの?」
「二人?」
「あ、いや。二匹」
 眉をひそめて問い返すテレスにはっとして、あわてて言い直す。
「まあ、できるんだな、これが」
対するテレスは大して気にするでもなく、椅子の背もたれにもたれ掛かって続けた。
「結局自分のリーダーを決めるのは半獣の方だから、そういうことだってもちろんありうる。もっとも、そう多い話じゃないけどな。ここで2匹の半獣のリーダーをやってるのはメディスさんとアスティさんだけだ」
「アスティさん?」
 はじめて聞く名前に、頬張っていたベーコンエッグを飲み込んで聞き返す。なんとなく目を流すと、ジャイルが空になった食器を重ねて立ち上がろうとしていた。
「ああ、あの人は今日はいないんだ。ウォーレーン……って知ってるよな?」
「東の一番端にある港町の?」
「そう。あっちの方で出た半獣発見情報の裏をとりに行ってる」
 テレスがそこまで言ったとき。食堂のドアが突然、ゆっくりと開き、意気揚々といった調子で入ってくる女性がいた。かなりの大遅刻にもかかわらずまるで悪びれるふうのないその女性は取り皿の前もほとんどなくなった料理の前も素通りし、まっすぐマークたちのいるテーブルへと歩いてきた。
「よっ、みんなおはよう!」
 元気良くそういうと、ミンレイの奥の開いている席に座る。
「私の分、取っといてくれた?」
「はい、どうぞ」
「ありがと〜!」
 ミンレイの差し出した皿を受け取ると、突然立ち上がって彼女の頭に横から抱きつく。さすがにミンレイも驚いたのか、何とか腕を振りほどこうと両腕をばたつかせてもがいていた。
「あの人もリーダー?」
 その様子を遠巻きに見つめながら最後のパンを口に放り込んでミンに尋ねる。と、返事は顔の右、テレスから返ってきた。
「そう……。俺の姉貴でミンレイのリーダー。チェロ・ドミニオンス、二十はっ…!」
「そこ、余計なことは言わない」
 突然眉間を押さえてうずくまったテレスを得意気に見下ろしながらチェロが言う。見れば、マークの少し前に一つ、やけに角ばった氷が転がっていた。
「ん?ああ、あんたさっき洗面台の所で会った子じゃない」
「え?」
突然投げかけられた言葉に思わずびくりとしながらも振り返ると、チェロの顔をまじまじと見つめる。しかし、どうにもマークの記憶の中に彼女の顔はなかった。
と、眉間にしわを寄せてチェロの顔を見つめていたマークの視界の中、チェロの後ろでミンレイがすっと立ち上がると、チェロの髪についていた2つの髪留めをすっと引き抜いた。
「ん?え、あ!」
事の次第を理解したチェロがあわてて振り向き、今まで留められていた髪がストンと落ちる。首より上にきれいにまとめられていた茶髪は、彼女の肩甲骨の辺りまで降りてきていた。
「ああ!あの時の……」
 ようやく記憶の中に彼女の姿を見つけたマークが、ポンと手を打つ。長い髪を重力の引くままにたらした彼女は紛れもなく、起きたばかりのマークに突然話しかけてきたあの女性だった。
「思い出した?いやあ、あの後二度寝しちゃってね〜」
 またも悪びれる風もなく笑うチェロにあいまいな笑みで応える。小さく、テレスのうんざりしたようなため息が聞こえた。
「あ、そうだ。お前と一緒に連れてきた半獣が目覚めたらしいから、飯食い終わったらついてきてくれるか?」
「え!?あ……」
驚きと喜びではやる気持を抑えて、静かに、深く呼吸する。
「はい。分かりました」
落ち着いた声でそう答えるとコップの牛乳を口に運ぶ。ようやくシーナの目が覚めた。もちろん素直に喜べないのは分かっていたが、それでも放っておけば口元が緩んでしまいそうだった。
と、そのとき。左の肩を軽くつつく感覚にマークの意識は現実に引き戻された。
「はい?」
「その……さ」
 ふっと振り返ったマークを前に、言葉に詰まったミンがすっと視線をそらす。その後ろで彼女の胸中を悟ったザイルが小さくため息をついた。
まったく、とでも言わんばかりの面倒くさそうな顔でチッと小さく舌を打つと、言葉に悩んでいるのだろうか、黙り込んだミンの背中を軽く肘で小突いてやる。僅かにはっとミンが息をのむのが聞こえたが、ミンが振り向く前に自分の皿を重ね、ザイルは立ち上がった。
「俺もう部屋に戻るから」
「…わかった」
それだけ言うとザイルは食堂の出口の方へと歩いていく。ミンはその背中を見ながら優しい笑みを浮かべると、再び顔を上げてマークを見た。
「もしかしたらちょっとつらいかもしれないけど、こらえてね」
「はあ……。わかりました」
「がんばって」
 きっと本当は何のことだかわかっていないのだろう。あいまいな返事で返したマークの肩を軽く叩くと、ミンも席を立った。
「さて、それじゃあそろそろ俺たちも行くか」
「あ、うん。オッケイ」
先に自分の皿を重ね、立ち上がっていたテレスに促されてマークも席を立つ。先に帰ったのだろうか、テレスの横にジャイルの姿はなかった。
………
…………
……
「あんまり食後には行きたくないところかもしれないけど、我慢してくれ」
食堂の前から続く階段を下り、真っ白い扉を開けながらテレスが言う。程なくして、薬臭い嫌なにおいがマークの鼻をついた。
「においは凄いけどヤバイもんではないから」
「はい……」
申し訳程度に言うテレスに頷いて見せながらも、においと気持の悪さに耐え切れずに口を覆う。実際のところ、満腹の状態でこようものならまず間違いなくマークは吐いていただろう。それほどそこの空気は独特だった。
「で、試験って何をするの?」
「ん、まあそんな大層なものでもないんだけどな。本当にお前があの半獣のリーダーかどうかを確かめるんだ」
 胸を軽く叩きながら言うマークに答えながら真っ白い廊下を進む。ところどころに並べられたビンの中には時折妙な色の液体が詰まったものもあり、それぞれに貼り付けられたラベルには細かい字でびっしりと何かが書き綴られていた。
「まああの現場にいて一人だけ無事だったんだからまず間違いはないと思うんだけど、何分俺たちはお前がリーダーとして認識されるのを見てないからな。その確認」
「認識されるっていうのは?」
「あいつらはリーダーを定めると、その相手に向かって服従の姿勢を示すんだ。頭を垂れたり横になったり……」
途中ですれ違った白衣の男に軽く頭を下げながらテレスは続ける。マークも彼にならって歩きながら頭だけ下げた。
「お前の時はそういうの、なかったか?」
「……あった」
つい昨日の出来事を思い出しながら答える。確かにあの時シーナはマークに向かって頭を垂れていた。もっともあの時は余りにショッキングな光景に目を奪われて特に気にも留めなかったのだが。
「ならもう間違いないな。この確認もすぐ終わるだろ」
「どうすれば?」
「半獣の首の後ろに手を触れる。それだけだ。もしもリーダーじゃない奴がうかつにそんなことをすれば、覚醒したばかりの半獣は確実に変態して襲い掛かってくる。っと、ここだ」
危うく通り過ぎそうになった扉の前で立ち止まると、押し戸にそっと手を触れる。銀色の扉は鏡のような輝きを持ち、テレスとマークの姿を映していた。
「半獣のほうはまだ起きたばっかで意識が朦朧としてるかもしれないから。まあ手早く済ませてくれや」
「はい。……あの」
短く答えてテレスの開けた扉をくぐると、ふと振り返って口を開く。
「テレスは?」
「俺は行かないよ。そういう決まりになってる。俺は外から見るだけだ」
「…ふうん」
そうなんだ、とつぶやいて踵を返すと、部屋の中に置かれたベッドにかかったカーテンを開く。背後で、テレスがそっと扉を閉める音が聞こえた。
「シーナ?起きてるか?」
 これまで時たまそうしてきたように、一気にカーテンを開いて呼びかける。普段はシーナの方がマークを呼びに来るのだが、極稀にシーナが寝坊した時はこうして起こしてやるのがマークの仕事だった。
「だれ……?」
 シーナにしては珍しく、おとなしげな声で返ってきた返事が気になってふっとマークは視線をベッドの上に落とす。その視線がしばらく宙を漂ってシーナの青い瞳とぶつかった瞬間、思わずマークは言葉を詰まらせた。
 恐らく昨日のうちにここの職員がやったのだろう。体についた血を落とし、汚れた服を真っ白い検査着に着替えたシーナは見違えて美しくなり、いつもの活発さなどはとても見て取ることは出来なかった。
(首の後ろに手をあてる、だったよな)
「ちょっと触るぞ」
 テレスの言うとおり寝起きだからだろうか。ぼうっとしているシーナに呼びかけると、彼女の後ろ髪を軽く持ち上げてその首にそっと手を触れる。シーナは一瞬ビクッと肩を震わせたが、それ以上は一切抵抗することなくマークを受け入れた。
「……」
(前のシーナなら『なに?』くらいは言ったよな……)
 余りにあっさりとしたシーナの態度に現実を突きつけられたような気がして、マークは小さく俯きながらシーナの前を離れた。
「えーっと、テレス?聞こえてる?」
「ああ」
キョロキョロと辺りを見回しながら呼びかけると、天井のスピーカーからテレスの声が響いた。
「終わったらその半獣をつれて出てきてくれ。そのあとのことはミンに聞けばいい」
「わかった」
「俺はもう戻るから、お前とその半獣とで勝手にミンのところに行ってくれ。ロビーで待ってるはずだから」
それだけ言うと、テレスがマイクをきったのだろう。ブツッという音がして、それ以上テレスの声は聞こえなくなった。
「だそうだ。立てるか?」
「はい」
(「はい」?)
すくっと立ち上がってベッドの上から下りるシーナを見ながら眉をひそめる。からかっているのだろうか。妙に丁寧なシーナの口調が気になって、もう一度マークは話しかけた。
「なあシーナ。俺のこと、わかるよな?」
「はい。マーク・グレイス様」
 にっこりと微笑むシーナの顔を見つめながら、マークの中で何かが崩れ落ちた。
………
…………
……
「……来たみたいだぞ」
 職員ロビーの一角。椅子の背もたれにもたれてのけぞっていたザイルが口を開き、向かい側に座っているミンに呼びかける。
「そう…。どう?」
「まあ本調子って感じではなさそうだな」
心配そうに尋ねるミンにさらっと言うと立ち上がり、ミンの後ろに立つ。程なくして、まだ検査着のままのシーナをつれたマークがやってきた。
「……お帰りなさい」
 返事が無いのを知った上で声をかけ、席についたマークにジュースの入ったグラスを差し出す。案の定、沈み込んだ様子のマークはそれを受け取ると、口もつけることなく手元に置いた。
「言ったでしょ?つらいかもしれないって」
「どういう…ことなの?」
ゆっくりと顔を上げてマークが口を開く。その横に立ったシーナはまるでマークの付き人か何かのようにじっと立ち、黙り込んでいた。
「昨日までのシーナは俺に向かって敬語を使うようなことはなかったし、こんなふうにおとなしい奴でもなかった」
「……半獣はね。皆そうなの」
 自らの呼吸を整えるかのようにふうっと息を吐くとミンは続けた。
「半獣に『本能的判断』と『自我に基づく判断』があるのは知ってるよね?」
「自我が強くなるにつれてリーダーの強制力が弱まる、っていうあれ?」
「そう。覚醒したばかりの半獣はね、この強制力が極端に強いの。って言うよりも一時的に本能的判断の力が強くなってそれまでの自我が埋もれちゃってるんだけど」
「いまのシーナがそうなの?」
「そういうこと。たぶん今のその子は昨日までのことはほとんどおぼえてないよ。今の彼女はあなたに忠実な一匹の半獣でしかない」
 そこまで言うとミンは自分のグラスに口をつけた。
「幸か不幸かその子はもう十五歳でしょ?自我が元通りになるのにかかる時間は年齢が上がるにつれて短くなるけど、まあ大体一ヶ月くらいはかかるかなぁ」
ふと目線を上げると、独り考え込んでいるのだろう、俯いているマークの顔とその横で窓から差し込む朝日を受け、相変わらずすっと立っているシーナの姿があった。
「さて、じゃあこれからのことね。とりあえずこの先しばらくは私とザイルの任務についてきてもらいます。訓練をしようにも半獣の戦闘訓練なんてできっこないからね。今日この後はその子の部屋に最低限のものを入れて、後は一緒に時間つぶしてちょうだい」
「え?」
「まずはある程度コミュニケーションとらないとね。何をしてもかまわないけど、必ず一緒にいてある程度言葉を交わすようにすること。いい?」
「……わかった」
唇をかみ締めながらそう答えるとジュースを飲み干し、マークは立ち上がった。
「じゃあ……シーナ。行くか」
「はい」
「あ、ちょっと」
短く答えてシーナも踵を返す。その背中に向かって突然、ザイルが口を開いた。
「お前、シーナって言ったっけ?」
「はい?」
くるりと振り返ったシーナにまっすぐ向かいあうようにザイルももたれ掛かっていた壁から離れると、シーナを見つめながら口を開く。
「半獣として忠告。自分のリーダーとほかのリーダー以外の職員にはこっちからは話しかけないほうがいいぞ」
「……どうして?」
「あいつらは大抵俺たちのことをただのバケモノだと思ってるからな。そんなことしてもいい思いはしないから」
「そう…わかった。ありがとう」
感情のこもらない、風のような声で言うと、マークの少し後ろに並ぶように彼の後ろをついていった。
「大丈夫かな?」
ロビーを出て行くマークとシーナの背中を見送りながらミンがつぶやく。コップの中にはまだ少し、ジュースが残っていた。
「どうだろうな」
「……さあ、それじゃあ行こっか」
ザイルの返事に短くため息をつくと、コップの中身を飲み干してミンも立ち上がる。それに並ぶようにザイルも彼女のそばによると、二人もまたロビーを去っていった。