其之七拾八

同日 午後5時52分

まだまだ明るい夕方の住宅街。時折買い物帰りの主婦や、自転車に乗った小学生が駆け抜けていく道。その真上を目にも止まらぬ速さでかけぬけていくものがあった。
「……」
(嫌になっちゃうな……。ここまで正確に道が分かるなんて)
その長い髪を風になびかせ、その細い足からは重いもよらない強さでブロック塀を蹴って走りながら凛は胸の内でつぶやいた。
今走っているこの道を今まで通ったことは一度もない。この付近の道を通ったことも一度、あの場所から逃げるときだけ。それでも、鮭が生まれ故郷を目指すように、鳥が自らの巣にたどり着くように、何か本能じみたものが彼女をそこへと導いていた。
「……あった」
やがて、目の前に現れた一つの家の前で立ち止まる。一見すれば普通より少し大きいだけの一軒家。だが凛にとってその扉は一度入ればもはや後戻りなど出来ない、最後の一線であった。
「……」
ふっと後ろ髪を引かれる様な気がして、自分の走ってきた道を振り返る。
徹とは30分も前に別れた。彼は凛がどこに向かったかは知らないし、凛が戻ってきてしまえば徹にまで奴の手が及ぶことはないはず。彼女が戻ってきたことを知れば、いずれ朋も呼び戻されるだろう。それで終わりだ。
(そう、もう終わり)
思いを断ち切るようにさっと勢いよく、その家の方を振り向くと、辺りに人の気配がないのを確認して背中を丸め、目を閉じる。
それは常人ならば皆が目を疑う光景だった。長い彼女の金髪が風も無いのにたなびき、その背中からは紛れもなく、鳥のような翼が生えていた。
「……」
そのままさっと飛び上がって風に乗ると、静かに二階の一室の窓の前まで舞い上がる。
(開いてる……)
鍵のかかっていないことを見止めると、静かにそれをあけて部屋の中に体を滑り込ませた。
「相変わらず……嫌なところ」
床に隙間無く散乱している色とりどりのコードに、ちかちかと点滅するライト。薄暗い部屋とあいまって、到底人の住む場所とは思えなかった。
ともすれば足にからみつきそうになるコードを丁寧に避けながら、凛は狭い部屋の中をぐるりと見回す。と、部屋の隅に、目的のもの―たとえるならば黒塗りの電話ボックス―を見つけた。
(あった……)
迷いはない。振り返る必要も。ともすれば足を止めてしまいそうになる自分を奮い立たせてその扉を開けて、大人一人が辛うじて入れるスペースにあっさりと体を入れると、壁にかかっている、無数のコードがつながったヘルメットのようなものをかぶり、扉を閉めた。
………
同日 午後7時00分

(遅いな……)
30分ごとに時を告げるオルゴールの音の方へ目をやって徹は起き上がった。
いくらなんでもとっくに日も落ちている。
(どっかに寄ってるだけ、っていう時間かよ……)
徹が凛と分かれてから既に一時間半が経っている。夕飯だってとっくに済ませてしまった。それでも一向に凛が帰ってくる気配は無かった。
「ねえ、まだ帰ってこないの?」
部屋の扉がゆっくりと開いて心配そうに巴が顔を出す。少なくともこの夏休み中、凛の帰りが巴より遅くなるようなことは一度も無かった。
「ああ…。向こうから連絡してきてくれると助かるんだけど…」
「大体ねえ。なんであの子にあんたの携帯持たせないのよ?そうすりゃこんなことには……」
「うるさいな!大体、『寄りたいところがある』って言われただけでそこまで心配するか、普通。アイツだってそこまでガキじゃないだろ!?」
「ストップ、ストップ!」
語気を荒げる徹と巴の間に朋が割って入って両手を広げる。
「どこか心辺りは無いんですか?その『寄りたいところ』っていうのに……」
「あったらとっくに探してるよ。分かれたのは電車の中なんだぞ?今どこにいるのかも……」
「………」
三人が三人とも言葉をなくして黙り込む。まるで手がかりのない中で3人は余りにも無力だった。
「……仕方ないわね」
と、沈黙を破って巴が口を開く。
「待ちましょ。どの道3人じゃあ探し出すのは無理だろうし……。せめて帰ってきたときに迎えられるようにしといてあげなきゃ」
「そう…ですね……」
椅子に座り込んでいる徹を心配そうに横目に見ながらそう答えて、朋はポケットから携帯電話をとりだす。
   新着メール:なし
もうここ30分の間で10回はこんな確認を繰り返してはいたが、来るべきはずのメールは未だに届いていないようだった。
(またやってる)
そのまま眉間にしわを寄せ、携帯の画面を見つめながら部屋を出て行く朋の背中を見つめていた巴。その視界の隅ですくっと徹が立ち上がった。
「ちょっと、どこいくのよ」
無言のままに身支度を整えている徹に問いかける。
「できるかぎり探してくる」
「探してくるって……」
小さくも力のある徹の言葉に巴は言葉を詰まらせた。
「無理かもしれないけど、何もしないで待つよりはましだろ?」
「そりゃそうだけど……」
「だったら、行くしかないじゃん」
「…そ。じゃ、行ってらっしゃい。でも、程度は考えなさいよ?あんたまで迷子になったりしたらしゃれにもならないんだから」
「おっけ」
短くそう答え、自転車の鍵を片手に出て行く徹を見送りながら、巴は小さくため息をついた。