其之五拾四

六月四日 午前10時23分

「……タリィ」
机の上に上体を伸ばし、教壇の上をからこちらを見下ろしてしゃべる芹山の顔を見上げながら、徹がぼそっともらした。
すっかり梅雨入りした都内はもうここ一週間毎日雨が降り続き、完全に伸びきっている徹のすぐ横、窓の外でも、葉桜に雨だれが当たって徹のほうへはねていた。
(ただでさえここのところ寝かせてもらえないってのに……こんなじめったいんじゃ本当に寝れないっつの)
誰が言い出したことか徹には知るよしもなかったが、さすがに新学年になってから毎日何かしらの授業中に寝ている徹に教師がわ危機感を示したらしく、この一ヶ月はどんなに眠たい授業でも徹だけは必ずたたき起こされていた。
(こんなとき事務室はいいよなあ。空調設備が立派で…)
一通りの板書をノートにとったあとで、芹山の話を聞きながら、辛うじて窓から見ることのできる事務室の方へ目をやると、凛の背中と思しき影が僅かに見えた。
「おお。やってるやってる」
立ち上がって、恐らく隣には栗原がいるのだろう、横を向いて話している姿を見ながら小さくつぶやく。
(……あ)
とくになにかするでもなく、時々ノートを取りながら窓の外にやっていた徹の視線の先を、不意に何人かの女子生徒が通り過ぎた。その中に…
(鷹峰は…この時簡にうろついてるってことは休講か……)
いいなあ…とまたため息をつくと、頬杖をついて体を起こす。
先月以来、朋から徹へのアプローチはとどまるどころかよりその頻度を増し、徹の姿を見つければ必ずといっていいほど朋がそばに駆け寄ってきていた。
徹にしてみれば凛の目もあるわけで、正直あまりありがたくはなかったのだが、どういうわけか凛はそのことに全く触れず、かといって態度が変わるわけでもなかったし、朋も凛が徹のそばに来れば素直に引き下がっていくので、徹は中途半端な緊張感の中でここ一ヶ月を過ごしていた。
(本当に……なんだってんだろ?)
解けることのない疑問を胸に抱え、徹は大きくあくびをかました。
「ほらあ、春日!ぼーっとしてんなよ〜」
「へいへい」
すかさず寄ってくる芹山に気のない返事を返すと、徹は(態度だけ)熱心なふりをして黒板に向かう。
(まあこの雨でここのところ部活は簡単なトレーニングだけだし…。さっさとかえって昼寝でもするかな)
芹山に当たり前のように口答えする徹に対する、男子の感心の視線と女子の非難の視線。どちらもあまりありがたくない視線を体中に受けながら徹はまた一つ大きなあくびをした。
………
ピピッ
いつものように、暗い部屋の中でモニターに向かっていた智の目の前で、画面の片隅がチカチカッと瞬いた。
(きたか……)
いくつか開いていたウインドウを邪魔にならない場所に移動させ、普段は小さくしまってあるメッセージツールを引き出してくる。
普段顔を合わせているクラスメイト達には決して使わない、裏のメールボックスだ。
<ステップ1。今日仕掛けるよ。まずうまくいくだろうから、期待して待っといてね 朋>
「あと2ヶ月……時期としてはちょうどいい、か」
短く、「分かった」とだけ打ち込んで送信すると、机の上においたカップを口に運ぶ。暖かいコーヒーが喉を駆け抜けていった。
「やっと……動き出した」
右の頬を小さく吊り上げて笑みを浮かべると、カップの中のコーヒーを一息に飲み干した。