其之拾八

同年九月十九日 午前6時03分

………くすぐったい…
その日徹は鼻の下をくすぐられるような、ちくちくとした感覚で目を覚ました。
(なんだ……?なんか…黄色い……)
うっすらとあいた瞼の隙間から目に飛び込む景色が徐々に鮮明になってくるにつれて、徹の意識もはっきりとしてきた。
「……!」
驚きのあまり喉元で言葉が止まる。
徹の投げ出した腕の中に、まだぐっすりと眠る凛の体が抱かれていた。
(何でこいつ俺の横で寝てるんだよ…!)
自分の目線のすこし下、胸の辺りにある凛の寝顔を見ながらごそごそと腰を引く。
(ん……?てかそもそもここベットの上だから…凛が寝てること自体は問題ないのか……)
徹がきょろきょろと辺りを見渡していると、徹の腕の中で小さく凛が動いた。
「…ん……あ…おはよう」
自分のすこし上にある徹の顔を確認すると、すこし赤くなって話しかけてきた。
「おう…おはよう」
徹もそれに答えると、ごそごそと身を起こして布団からはいでる。
(そっか…あのまま寝ちまったのか、俺)
改めて自分の格好を確認して、状況を把握する。
「さ、じゃ行くぞ」
「うん」
いつもどおり、こっそり部屋の扉を開けると、音を立てずに廊下を進む。そして洗面所の前に差し掛かったその時、
ジャアアー……
突然聞こえてきた水音。
(ヤッベ……)
あわてて徹は、凛を背中に隠して、今出した足を戻そうとしたがときすでに遅し、
「ん?」
先客がこちらに気づいたのであろう、目線が自分の方に注がれるのを感じ……
「……なにやってんの、あんた達」
(え?)
恐る恐る首を横に向ける。
「そんなところに突っ立って…どうかした?」
ゴムを口にくわえながらくしゃくしゃと頭を拭く女。そこに立っていたのは巴だった。
「なんだ、姉ちゃんかよ……」
思いっきり肩を落として安堵のため息をつく。
「朝っぱらから心臓にわ……」
「あら、おはよう!凛」
「あ、おはようございます」
当然のように徹を無視して後ろの凛に話しかける巴をしばらくにらみつけてから、自分の分のタオルを取って顔を洗う。
「そうそう、徹」
「ブハァ!」
突然背中をたたかれて、豪快に顔をたまった水の中に突っ込む。
「なにすんだよ……!」
声を落として巴をにらみつける。
「あとであたしの部屋に来なさい。凛にプレゼントあるから」
「プレゼントだぁ?」
「いーから。ちゃんとくること。ほら、凛も終わったみたいよ」
巴に促されて横を見ると、早くもタオルを小さく畳んで洗濯機に放り込んでいる凛がいた。
「……わーったよ。とりあえず凛を部屋につれてったらそっち行くわ」
「はいは〜い♪」
……
…………
「で?何の用だよ?」
部屋に凛を送っていったあとで徹は約束どおり巴の部屋に来ていた。その目の前には……
「はいはい、ちょっとまってね〜」
箪笥の中を引っ掻き回している巴。
「あの子の服。いつまでもあんたのTシャツやズボンじゃかわいそうでしょ?私のでサイズの小さいのあげようと思って」
「ああ……そういえば」
(すっかり忘れてた…)
凛が住むようになった翌日、辛うじて下着類だけはそろえたが、洋服類は資金不足と洗濯の手間のためにいまだに徹のもので済ませていたのだ。ちなみに下着類は凛が風呂に入っているときに自分で洗っている。
「私のだったら洗濯機に入れても怪しまれないだろうしね。はい、とりあえずこれだけ」
そういって徹に押し付けるように、洋服の山を渡す。
「じゃ、俺はもう戻るよ。そろそろ着替えないと朝飯に間に合わないし」
「いや、ちょっと待って」
部屋を出ようとする徹を、巴が止める。
「もうひとつ言っておこうと思って」
「……なんだよ」
「昨日あのことお風呂入ったときに見ちゃったんだけどね……あの子の体、あちこち古傷だらけよ」
「なに?」
耳を疑って、もう一度問いただす。
「『なに?』もなにも無いわよ。言ったとおり。彼女の家出って言うのは大方本当でしょうね。しかもきっとその理由はかなり重い」
「……」
はじめてあったときの、下を向いてうつむく凛の顔が徹の脳裏に浮かび上がった。
「まああんたがこの先どうするつもりかは知らないけどさ。彼女それなりのことを隠してるわよ。そこのところわかってあげなさい。そんだけ」
「……ああ」
短く返事をして後ろ手に扉を閉めた。そのすぐ目の前にある扉を開ければ中には凛が待っている。
(古傷だらけ……か)
巴の言葉と、ついさっきまで横にいた凛の顔を重ね合わせる。
(ある程度覚悟はしてたつもりだけど……重いなあ)
胸の中でそっとつぶやきながら自分の部屋の戸を開けた。
「あ、お帰り。」
扉が開くと、すぐに飛び出してくる凛。
「うわ、これどうしたの?巴さんから?」
「………」
(何があったのかなんて……聞けるわけねえよな…)
「?どうかしたの?」
何も答えない徹を不審に思ったのか、凛が小首をかしげて聞いてくる。
「いや、なんでもない。これは姉ちゃんがお前にって……」
そして、何もなかったかのようにいつもどおりの朝が始まった。

同日 午前8時15分

「はい、みんなおはよう!」
性懲りもなく、ニコニコと笑みを浮かべて芹山が教壇に立つ。だが、今日はいつもとすこし違っていた。
ツイツイ
「どうした?」
最近徹は、服を引っ張られたりつつかれたりするだけで自然に凛の方に目線が行くようになってしまった。
(これじゃまるでパブロフの犬だな)
時々そんなことを考えて苦笑することもある。
「ねえ、あの人たちだれ?」
凛が、芹山の後ろに遠慮気味についてきた二人の高校生を指差す。
「ああ、あの人たちか。文実の広報係だな」
「文実?」
「そ、文化祭実行委員会。もうすぐ文化祭だからな」
「文化祭……」
そうつぶやいて、凛は考え込むように下を向く。
(あー…、こりゃあとでじっくり説明してやんなきゃだめだな……)
いい加減、徹は大体凛の考えていることはわかるようになっていた。もちろん、今徹が言ったことの意味を凛が半分も理解していない、ということも。
(ん……文化祭ってことは……)
「凛、今日の部活はたぶん無いぞ」
ぼんやりと芹山の話を聞き流しながら、横でまだうなっている凛に話しかける
「え?」
「これからしばらく、いろいろと忙しくなるな」