其之弐

二年前   八月  十日 午前11時32分

徹は、いつものように家の近所のレンタルショップまで行った帰り道を、出来るだけ日陰を選んで、自転車で進んでいた。
部活も合宿が終わってしばらくは休み。宿題ももともと無いようなものなので、ほとんど遊んですごしていた。
(暑くなる前にと思って出たけど…この時間でこんな暑かったら午後はどうなることやら……)
他愛も無いことを考えながら、袖で額の汗をふき取る。と、その時。うっかり腕で眼鏡を、よりにもよって汗がいくつも雫を作っている瞼に押し付けてしまった。
「あっちゃ……」
あわててブレーキをかけると、眼鏡をはずして、自分の少し上にかざす。
(あーあ…こりゃ帰ったら洗わないと駄目だなー…メンドクセ)
あきらめ半分のため息を小さく漏らすと、何の気なしに後ろを振り向いて、ギラギラと照りつける太陽のほうへ目をやる。
(ん?)
刹那、視界を何かが横切ったような気がして視線を右のほうへと流す。と、その「なにか」と思しきものが視界の中心に小さくうつった。
(なんだ、あれ?)
それは、道に沿って立つビル群のなかでもひときわ高いビルの上に、まるで人間が下を見下ろすような姿勢で立っていた。
「人?……まさかな」
一瞬頭をよぎった、あまりに現実離れした考えを拭い去って、徹はその「なにか」に背を向ける。
(気のせいだよな。それよりさっさと帰ろ。いい加減喉が渇いてきた)
徹はそのまま、それまでどおりに家の方へと重いペダルをこぎだした。
………
「やっとついた〜」
徹はマンションの玄関の前で思わず歓声交じりの声を上げた。
その右には、ざっと見ただけでも70メートルは続いているのではないかというほどの長く、急な坂がある。後から家が建った以上文句の言いようは無いのだが、徹はこの坂には毎回閉口させられていた。
「お前もご苦労さん」
家の鍵を取り出してドアを開けると、今まで自分を乗せていた愛車に声をかける。この折りたたみのMTB(マウンテンバイク)はかれこれ5年間使っているものだった。付き合いが長いせいか、最近は妙に愛着がわき、友人に気味悪がられるのにもかまわずに時々声をかけていた。
「ただいまー」
慣れた手つきで愛車をたたむと、エレベーターに乗り、誰もいないとわかっている家の中に声をかける。
(っていっても、親父とお袋は出かけてるし、姉ちゃんも大学のサークルだから俺しかいないんだけど…)
胸のうちでつぶやきながら靴を脱いで家に上がる。と、その徹の耳に聞こえるはずのない音が飛び込んできた。
ガサゴソ……ガサゴソ…
(おいおい…、どういうことだ?)
徹は玄関に入ったところで、じっと立ち尽くして耳を澄ました。
確かにこの家には今、徹しかいないはずだった。それは間違いない。にもかかわらず、
(台所から…か?)
家の奥の方から、何かを探る音が聞こえてきていた。
(泥棒か?にしちゃあずいぶん堂々としてるが……)
一応警戒しながら、徹は廊下に踏み出すと、台所の方へと歩いていった。

………
(な……)
リビングルームとの対面式になっている台所の扉をくぐった徹は言葉を失った。それは台所の散らかりようが予想以上だった(冷蔵庫は開け放たれて中身がぶちまけられ、棚の中の調味料の類もいくつかは叩き落されてビンが割れていた)こともあるが、それよりも……
「えーっと…なにをやってるのかな?」
出来るだけ遠慮気味に(後から考えて、なんでここで遠慮する必要があるのかと不思議になったのだが)目の前にいる人影に問いかける。そこに居たのは、水色を基調にしたワンピースを身にまとい、腰にまで届くかという長く、ふさふさとした金髪をした、俺より二つほど年下であろう少女だった。