そう、確かに、下心がなかったわけではなかった。
 久々の、雪が舞い散るほどに寒い冬。『賀正』の文字が消えて久しいコンビニで買ってきた、弁当やパンの入ったビニール袋を片手に、渉は玄関にぼんやりと立っていた。
 大学に上がって少ししてからはじめた一人暮らし。もうすぐ住み始めて一年になるアパートの部屋の中に、主である彼を置き去りにして、少女が長い髪を揺らしながら入っていく。つま先で、冷たいアパートの床の上を跳ねるように、何が面白いのか、汚らしい部屋の中をきょろきょろと見回しながら、この時期にはあまりに季節はずれな、多少分厚い程度の白いサマードレスのようなワンピースの上から、とりあえず渉がかけてやったロングコートを羽織って、その裾を床に引きずって。そのたびに、腰までもあるかという長い黒髪が跳ねて、波打って、揺れて、落ちて。横に並べば渉の胸辺りまでしか届かないような少女が部屋の中にいるという光景に、今更ながら違和感と、なにかいけないことをしているような感覚を覚えた。
 切欠は、些細ながらも変わったことだった。何を思うでもなく、いつものように立ち寄ったコンビニの、その駐車場。扉の取っ手に手をかけた拍子に、なんの気なしに横に顔を向けたら、コンクリートのタイヤ止めの上に、ちょこん、と彼女が座っていた。三枚も重ね着をした上にコートを羽織って、それでもなお渉が背を丸めて歩くような夜風が吹き始めた頃、少女は何をするでもなく、ただ膝を抱えて、髪を風になびかせて、すわっていた。
 最初は、こんな子がこんな時間になにを、と不思議に思った。次に、親らしき姿はないものかと一通り辺りを見回した。それから、寒くないのだろうかと首をかしげて、コンビニの中へ。お茶のペットボトルと、弁当と、お気に入りのカレーパンとを籠に放り込んで、しばらく雑誌を立ち読みして。それでも相変わらずガラス越しに微動だにしない彼女を見て、もう一人分、パンと弁当を放り込んだ。
 常識的に考えればその場で駅の方まで引き返して交番に彼女を預けることも出来たわけで、だからきっと、下心がなかったわけではなかったのだと思う。それでも、この光景は、なんというか……。
 ため息を軽くついて、渉も住み慣れた部屋に上がる。何を頼りにしているのか、安さの割には広い部屋の中を明かりの一つもなしに姿を消してしまった少女を探しながら、フローリング調の床を軋ませながら部屋の電気をつけて、ガスのスイッチを入れる。広さと値段の差の分だけ汚い部屋、こと、最も頻繁に水を使う上にトイレと一緒になっている風呂場については格別で。だからあまり意味も感じられないが、一応湯船は朝のうちに洗ってあるので、コンビニ弁当の夕食を済ませている間に蛇口をひねれば、食べ終わる頃には丁度いい具合に湯が溜まる。あいにく渉の部屋の近所には銭湯という物が存在しないので、必然的に、一世代あるいはもっと前の雰囲気の漂うこの風呂での入浴にも慣れてしまった。
「おーい。どこいったー」
 途中、風呂場で蛇口をひねってから、もう一度部屋の中を見回して、
「……なにやってるの?」
 何を思ったのか、ガスコンロの上によじ登って換気扇を覗き込んでいる彼女を見つけた。渉の声に答えて覗かせた顔の頬には、黒い汚れが両側についていて。それを手でこする物だから、渉が「あー……」などと止めかねている間に色白の顔の左右が見事に黒く染まる。
 たしかコンビニでお手拭をもらってたはず……。
 きょとんとしている彼女を他所に白いビニール袋の中を探っていると、とん、というかろやかな着地音。つられるようにして顔を上げてみれば、すぐ眼の前、どころかすぐ下に少女が座り込んでいて、
「……」
 渉の黄色いフリースまで、台所独特の黒い油汚れが染み付いていた。

「フゥ……」
 帰って来てからゆうに三十分。ようやく休められる体を床に横たえて、渉は思いっきりため息をつく。
 件の少女は、さすがにあのままで食事というわけにもいかないので、今頃シャワーを浴びている頃だ。最も、彼女が出てきた後、風呂場がどんなことになっているかはあまり想像したくないというのが本音なのだが。なんせ、こちらが風呂場に案内するなり、何を思ってか、湯船の縁に手をかけたかと思うと、ぐっと上体を突き出して湯船の中を覗き込もうとするのだ。もしも渉が止めなければ、彼女はあのまま湯船の中に落ちていた。そんな彼女だから、文字通りに、何をしでかすか分からない。
 一体なんだってんだ……。
 胸の内で、つぶやく。
 疑問の働く余地は、ありすぎるほどにあるのだ。あんな時間に、コンビニの前で、たった一人で何をしていたのか。一体なにを思ってああも妙な行動ばかりをしているのか。そもそも彼女は一体何者なのか。考え始めればきっとこれはきりが無い。せめてなにか一言でも喋ってくれればまだましであろうものを、渉はまだ、彼女がまともに言葉を喋るところすら目にしていない。故に、そもそも彼女との意思疎通が可能であるのかさえ、渉にとっては定かでない。
 余計なもんに手をだしちゃったかね。
 自然に、そう思った。そして直後から自分を責める。もし、こんなことになった責任を問うとすれば、それは間違いなく自分にある。他に手段はあったのに、むしろ普通は交番に預けるのが常識であろうに、勝手に彼女を自分の家に連れ帰ったのは自分であって。それどころかそも、あの場で彼女に声をかけないでいることもできたのに、話しかけたのもまた自分であって。しかもそれはきっと、あの時の彼女の現実離れした姿ゆえに。それに心のどこかで見惚れてしまったがゆえに。だから、余計に救えない。
 馬鹿か、俺は。
 もう一度、ため息をついた。そして、決意する。
 どのみちもう夜も大分遅い。今夜だけは、彼女にも寝床を用意する。それは、自分の責任。それで明日、家を出るときに連れ出して、交番に預ければ良いだろう。彼女には悪いが、きっと自分ではこれ以上面倒は見切れない。渉だって昼間は部屋をあけることになる。その部屋に彼女を一人で置き去りにしたらどうなるかなど、考えたくもない。大体、たとえば彼女が極普通の迷子であったとしても、夜が明ければその家族を探さなければならなかったのだ。そして、当然ながら渉にそこまでのことはできない。だから、明日の朝まで、という制限は彼女がだれであれかわりのなかったこと。
「……」
 手の甲を額に当てて、もう一度、ふぅ、と息をついた。
 直後、風呂場の戸の開く音が聞こえた。
「おう、随分と長風呂だった……」
 口に仕掛けた言葉が、詰まった。
 そこにいたぶかぶかのトレーナーに首を通した少女は、渉が見つけ、部屋につれてきた少女であって、同時に彼女とは違った。いや、否。彼女は渉が見つけた少女であって、部屋につれてきた少女ではなかった。その表情は、全くの無。玄関から部屋に上がるなり部屋の中を見回していた好奇心も、頬についた油を渉の服にこすり付けていたときの笑顔もなく。ただ、真っ直ぐに、澄んだ瞳で渉のことを見つめてくる。それはちょうど、あのコンビニの前で冬の夜風を気にも留めず、真っ直ぐに、目の前の道を行く人々でもなく、時々通り過ぎる車でもなく、緊張した夜闇を見つめていた時のまなざしにそっくりで。渉の言葉が、足が、手が、その場で止まって、縫い付けられた。
「……」
 少女がかすかに口を開いて、一歩近づく。古びた部屋の床が、彼女の歩みには静まり返って、気配さえ感じさせない。
 もう一歩、彼女が前に踏み出す。水に濡れた長い黒髪は艶やかさを帯び、ただ真っ直ぐに垂れるそれに、部屋の照明が反射して妖しさを感じさせる。
 さらに一歩、彼女が歩を進める。そして、白い顔の中、一点、赤みを帯びた唇が、微かに、しかし確かに、小さく微笑んだ。
 逃げないと、と思ったときには遅い。彼女は一瞬膝を曲げ、上体を沈め、倒れこむように前に飛び出す。濡れた黒髪が舞い上がり、波打ち、毛先に残った雫が中に舞って、一瞬輝いた。その姿はさながら獣の如く。渉が踵を返し、彼女に背を向けるまもなく、その身体は床に押し倒され、少女に上から押さえつけられていた。
「っ……」
 ひどくぶつけた頭に手をやりながら、反射で瞑った目をうっすらとあける。そして、見下ろす彼女の視線と、見上げる渉の視線がぶつかった。
 少女の口元には、相変わらず小さな微笑が。渉の視線を確認すると、嬉しそうに、あるいはたのしそうにその目を細めて、ゆっくりと、少女の状態が倒れてくる。逃げなければ、というのは分かっている。実際、たとえばこのまま渉が全力で抵抗すれば、今まさに渉の胸の上に顎をおいて、ジッと渉を見つめているこの小柄な少女は、コンビニ弁当を広げてある、背の低いテーブルにぶつかって、渉はその隙に逃げられるだろう。だというのにああ、どうしたわけか、体に、力が入らないのだ。投げ出された左手は、その上にかけられた少女の髪を湿りだけを感じ、同じく投げ出された右腕は、少女の小さく、冷たい左手によって指を絡められ、左右の足は、腿の上、脇に彼女の足があるという感覚だけをのこして、萎えてしまったかのように力が入らない。だから、逃げようにも逃げられない。
 それを知ってのことか、渉の胸に当てられていた少女のほそい右手がすっと伸びて、渉の左肩を捕らえる。強張り緊張する肩を滑るように、その掌は鎖骨をなでて肩の筋を捕らえ、彼女はその腕を頼りに自らの体を渉の体に滑らせ、上へ、上へ。程なくして彼女の前髪が渉の顎をくすぐり、その冷たい頬が渉の咽喉に触れた。
 少女の右掌が、下から上に、渉の首を撫でる。状況の異常さにも関わらず、思わずこそばゆささえ感じるほどに、ゆっくりと。そしてその指先はやがて顎の下に至り、渉に頭上を向かせるように、それをそっと、押し上げる。
 もはやなされるがままに顎を押し上げられて、ふと、渉は少女の思うところを察した。否、ただ本能的に、首筋に危機感を感じた。しかし渉にはその危機感の示すところもわからなければ、どの道、今更抵抗などできようはずもなかった。
 いつの間にかほとんど脱力仕切ってしまっている渉のからだの上で、少女の瞳が彼の首筋を見つめる。まるでそれを愛でるかのように、目を細めると、唇の間から差し出した舌の先で、そこを軽く突く。反射で跳ねる渉の腕をそっと押さえ、渉の息を呑む音に笑みを浮かべる。そして、両手をそっと、渉の首筋にあてて、もう一度、ゆっくりと、その顔を近づけて。
「……」
 一秒か、二秒の沈黙。そして、赤い飛沫が二、三ほど、部屋の床に飛んで絵を描いた。
「っ!」
 同時、これまでになく激しく、渉が息を呑む。異物、なにか鋭く、堅いものが皮膚を突き破り、血管に食い込む激痛。そして本能が警鐘をならし生命の危機を伝える恐怖。噛み付かれている首筋からではなく、胸の底から何かが一気に吸い出されていくような。理性などどこかへ消え去り、ただ腕の、足の、体の動くがままに暴れて、テーブルからは弁当の容器が落ちて、床に広がって。それなのに、少女は噛み付いた渉の首筋から離れようとしない。次第に、痛みは熱さに変わり、恐怖はどこか狂気じみて。そんな折、
 ちぅ……。
 微かな音を立てて、首の傷口から外へ、何かが吸い出されるのを感じた。それは痛みを伴い、熱さを伴い、恐怖をももたらしたが、同時に、僅かに一瞬だけ、渉の首筋は、えもいわれぬ快感に震えた。首の、肩の筋に始まり、前進を駆け抜けていく快楽。そして、その僅かな恍惚の余韻を残しながら、渉の意識は闇に沈んでいった。