今晩は、あるいは今日は。ご機嫌はいかが?
 今あなたが見上げる空はどんな具合なのかしら。
 小鳥の囀る春の青空?
 空気が重たくなる夏の夕立?
 薄の揺れる秋の夕暮れ?
 寒さの沁みる冬の月夜?
 私のところは相変わらず。
 冷たい石の壁にも狭い部屋の暗さにも慣れたけど、それでも外の様子が分からないのはつまらないわ。
 きっとそろそろお祭りの季節だと思うの。せめてこんなときぐらい、鍵を開けてくれてもいいと思わない?
 まあ良いわ。
 私とあなたの間においては、どうでもよくて、どうしようもない話ですものね。
 さあ、そろそろ今日の物語を始めましょう?
 そうね……今日は、こんなお話でどうかしら?

 闇に通じると言われ、人の寄り付かぬ森の中に、その城はあった。
 月影も凍りつくほどに、冷え切った冬の空気を纏って、その城はあった。
 年月を重ね、厳しさを増した石の壁。夜闇の天幕を貫かんとするが如く、あるいは、天井を支えるが如く、そそりたった尖塔。
 静まり返った満月の夜、森の中には獣の鳴き声さえ聞こえずに、ただ夜風が木々を揺らして去っていく、その中に、夜闇にとけるようにして、しかし確かにその城はそびえていた。
「良い月ね、エミール」
 その城の重厚な玄関の門の前、月明かりが降り注ぐ林の中、ぽっかりと開けた木々の隙間に、女の声が聞こえた。それは丁度窓枠におかれた、月光を受けて光を放つ硝子の花瓶のような、澄んで、夜闇に心地よく響く声。声の主はまるでその月に見惚れたかのように、もう一度、ため息混じりに、「いい月……」と呟いた。
「そうだね、ルディア」
 その横、少し上から答えるのは、男の声。落ち着いていて、少しだけ辺りの空気を揺らしたかと思うとあっという間にどこかに消えて行ってしまう、丁度林の夜風のような声が、優しく女のため息に答えた。
「この感じ、もうそろそろ満月なのかしら?」
 男の袖を掴んで夜空を見上げていた女が、彼の方に顔をやる。見上げたその顔が頭上の月光をうけて、その瞼を硬く閉ざしたままの表情がうっすらと浮かび上がる。
「そうだね。綺麗な宵待月だ」
 彼女の横に立って一緒に夜空を見上げていた彼は、青草の絨毯の上で歩を進め、女の正面に。気付いたころには自分の目線よりも低くなっていた女の顔を見下ろして、男は小さく微笑む。
「欲しい?」
「そうやって焦らすのは良くないと思うわ」
 そう言ってむくれた女の、ビロードのドレスの袖から伸びる白い腕が男の肩に掛かる。恍惚にも似た表情でそれを引き寄せようとする女の力に従って、男は膝を曲げてやる。やがて月光の下に露出した男の首筋を前に、女は唇の間から微かに覗かせた舌の先で自らの唇を舐めて、笑みを浮かべ、そして、口付けるかのようにゆっくりと、その顔に悦びを満たして、男の首筋に、針のように鋭く、真珠のように白いその牙をそっと突きたてた。

 彼女の記憶によれば、あの時も、ちょうどこんな風に冷え込んだ冬の夜だった。
 満月の夜はいつだって、気持ちが落ち着かなくて、血がくつくつと沸き返って、体が熱くてたまらなくて。一人で城の中にこもっていることに耐えられず、月が満ちるたびにそうする用に、黒い森の中を疾駆していた。見えない目のかわりに精一杯、全身で感じる夜の森の風は火照った体に心地よく、漆黒のドレスの布地をはためかせ、普段毛先が肩をなでる濡羽色の髪をたなびかせ、首筋や四肢の露出した肌をなでていく。一足けり出すたびに風景が背後に流されて、川の流れに落とされた絵の具のように体の熱が逃げていく。不意に眼前に現れた木の幹に片足を突き出して体を止めると、勢いのままに駆け上がって星と月の輝く夜空に身を踊らせる。
「ん?」
 月の光を背に受けながら、何かが動く気配を見つけると、木の幹を蹴って一足にその気配へと飛び掛る。それは鹿だったり、狐だったり。栗鼠のような小動物の時もあった。突然真上から弾丸の如くに襲い掛かられ、一瞬彼らが硬直したその隙に、彼女は彼らの、森の木々と戯れ、日毎、夜毎に木漏れ日を、月影を浴びた毛皮の上から、その牙を突き立てる。そして、口元や襟元を紅く染め上げて、彼女はなおも夜を奔るのだ。
 そしてその夜も、独り森の城に住まう彼女は、夜風の感触、木々のざわめき、血の暖かさに口元に笑みを浮かべて、疾風の如く闇を奔っていた。口元の血を手の甲で拭いながら、次の獲物はどこかと感覚を研ぎ澄ませて。太く伸びた木の枝を蹴って飛び上がり、夜風と共に夜空で踊る。彼女にとっては既に庭に等しい森の中で踊る姿はどこまでも伸びやかで、優雅で、美しくて。だから、彼はその姿に思わず見とれてしまった。
「あ……」
「!」
 まだ多分に幼さの方が色濃くにじむ少年の、思わず漏らした小さな声。それはともすれば声とも呼べないほどに小さな音だったかもしれない。しかし、満月の夜、森を奔る彼女にとってはさして意味のない事。相手が彼女の姿を見る事が出来る距離ならば、その夜の彼女にとってそれはありながらにしてないもの。少年が逃げる間もない、それどころか、気付くことさえ出来ぬ間に、その音を聞きつけた彼女は少年の目の前に立っていた。
「うわ……!」
 間髪をいれずに迫る彼女の腕。それはあまりに細く、白く、見ようによっては少年のものよりも華奢に思えるというのに、彼は叫ぶ声さえも飲み込んで、体を丸めて、目を閉じる。何が起こっているのか、目の前に突然現れたのはなんなのか、自分は何をされるのか。何も分からず、ただ恐怖に肩を震わせて。
「……?」
 しかし、いつになっても何も起こらない。痛みも無ければ、特にかわった音がするわけでもない。少年はそれを訝しんで、うっすらと開けた目で、頭を抱えた腕の隙間からそっと、眼の前の何かを見上げた。
「っ……!」
 そして、その姿に息を呑む。
 ところどころ、何かで濡れたようなあとを残す黒いドレス。紅い飛沫の模様を描く、真っ白な腕、口元。優しさを感じさせる、閉ざされた瞼。流れるように拭き続ける夜風に濡羽色の髪を揺らし、背後には青白い月が輝き、その明かりを受けてうっすらと、真珠のように輝く、動物のような、それでいて細身の彼女の牙。むせ返るような血独特の匂いと、それを照らし出す異様さと。その美しさに魅入られ、その恐ろしさに捕われ、彼は彼女を見つめたままで固まった。
「人間? 珍しいわね。しかもこんな時間に」
 澄み切った声で、彼女が言う。なんと答えたら良いのか分からない少年はただただその声を聞くばかりで、彼女は彼の頬に手を差し伸べて続ける。
「あら、やっぱり。まだ子供じゃないの」
 頬を撫でる彼女の掌は冷たく、滑らかで。しかし同時に、少年の眼の前、彼女の肘の少し先辺りには真赤な模様が。それが言いようの無い不安を駆り立てて、少年は息を潜めて彼女を見つめる。
「……ねえ、あなた、名前は?」
 ふと、彼女がそう問いかける。少年は一瞬、彼女の言葉の意味が理解できずに沈黙し、遅れ、慌てたついでに居住まいを正して「エ、エミール」と答えた。
 彼女の方も、突然自分の掌をすり抜けていったかと思えば、上ずった声で早口に答えるその声に一瞬驚き、口を閉ざす。そして、クスッと小さく笑った。
「そう。じゃあ、エミール」
 彼女はその場に膝をつき、少年の顔を両手で抱えて、見えない目で彼を見つめる。
「ねえ、今夜は私のお城に来てみない? この森の女王様が、あなたを歓迎するわ」

 もう何時間も前に迷い込んで、とっくに彷徨い歩くことにさえ疲れていたエミールは大人しく彼女についていったわ。
 ルディアの方も、一体何がしたかったんでしょうね。森の怖い魔女のように、エミールを太らせてから食べようとしたのかしら。それとも独りでいるのが寂しかったのかしら。もしかしたら、ほんの好奇心だったのかもしれないわね。
 やがて夜は更けて、ルディアにとって憂鬱な時間がやってくる。もう帰らなきゃ、というエミールに、ルディアは一冊の本を手に言ったそうよ。
「待って。あなたに聞いて欲しいお話があるの。もうすこしゆっくりしていったらどう?」

「ねえルディア。どうしてルディアは昼間は外に出ないの?」
 そう、エミールが尋ねたのは、彼が森の中の城に来て三年が経ったある日のことだった。城の中の大きな暖炉の前で、ソファーに座って本のページをめくるエミールと、その隣に座って目を細め、まどろんでいるルディア。爆ぜる薪の乾いた音を聞きながら、エミールは続けた。
「昼間の森も、綺麗だよ? 夜の月光みたいな不思議な雰囲気は無いけど、そのかわり、木の葉の間から差し込んでくる日の光が柔らかくて、とってもあったかいんだ」
「そうね……。でも、駄目よ。太陽の光は強すぎるもの。肌がチクチクして気持ち悪いし、疲れてすぐに眠くなってしまうわ」
 そう言ってルディアは、いつの間にか自分とそれほど変わらないところまで大きくなったエミールの体に体重を預けて、彼のまっさらな首筋にそっと指先を走らせる。
「それよりも私は、こうしてエミールと暖炉の前で過ごして、夜になったら森を駆け巡るほうが好きだし、楽しいと思うの」
 エミールもそう思うでしょ? と微笑みかけてくるルディアに、エミールは困ったように眉尻を下げて。そして、小さく微笑み返して同意を伝えるのだ。

 それからも二人は、二人きりの時間を森の城で過ごしたわ。
 朝、微かに聞こえる森の小鳥のさえずりでエミールが目を覚まして、隣で寝息を立てるルディアのために黒いカーテンをしっかりと閉めなおす。そのまま彼が自分の分の朝食と、少しだけルディアの分も作って、眠い目をこすっているルディアを呼びにいくの。本当はルディアに朝食はいらないし、むしろ寝ていたい時間なんだけど、せっかくだから一緒になって起きていく。それからは一日中暖炉の前で本を読んだり、ルディアが昔話を話したり、時にはエミールに促されて広い城の中を掃除することもあったかもしれないわ。夜になってすっかり空が暗くなると、二人で夜の森に繰り出して、月明かりの下を散歩して。目の見えないルディアのかわりにエミールが彼女に目に見えることを逐一教えて、ルディアは長い間感じてきた月影の暖かさ、木々の匂い、動物達のちょっとした鳴き声のことをエミールに教える。そうやって誰かと過ごす日々を、きっとルディアは本当に楽しんでいたんじゃないかしら。
 だからこそ、彼女は恐れたわ。いずれエミールが城での暮らしに飽きて、森の外に帰って行ってしまう日がくるんじゃないか、って。そのうち、またこの城に独りきりで暮らす日がやってくるんじゃないかって。

「ねえ、エミール」
 エミールが城に住まうようになって四年半が過ぎた夏の夜だった。
 夜の散歩から戻った二人は、ルディアの淹れたハーブティーを口にする。朔のたびに、醜く年老いた彼女の二人の従者が街から仕入れてくるそれは、他の品物同様に一級品で、ルディアの慣れた手前のためもあって、月の光に掻きたてられた心を穏やかに沈めてくれる。それを寝台の淵に並んで腰掛けて飲み終えると、エミールはそのまま眠りにつき、ルディアはさらに夜を楽しむために、森の中へ繰り出して、木々の間を駆け巡るのだ。
 そして、いつものように並んで紅茶を口にしながら、ルディアが口を開いた。
「エミールは、ずっとここに居てくれる?」
 一瞬、カップを持つエミールの指先が震えた。
「どうしたの? 急に」
 そして、取り繕うように微笑む。ルディアにはそれがもはや答えのような気がして、もうとっくに自分の身長を追い抜いた彼の顔に手を伸ばして、その両頬にそっと掌をあてる。
「私はね、出来るならエミールにここにいてほしいと思ってる。それも、新月のたびにやってくるあんな下僕としてじゃなくて、エミールとしてここに居てほしいの。ねえ、あなたはそれに応えてくれる?」
「……うん。僕はずっと、ここに居るよ」
「……本当に?」
「本当に」
 ルディアの声が弱気になればなるほど、エミールの声はそれをつつむかのように大らかに、優しくなっていく。しかし、その間でさえも彼の頬に手をあてて、目が見えない分研ぎ澄まされた感覚で彼の鼓動を感じていたルディアには、分かってしまった。彼が、一言答えるたびに、まるで覚悟を決めるかのように唾を飲み込み、奥歯を噛み締めてから口を開いていることを。
 確信を持って頷けないなら、そういえばいいのに。嘘なんてつかないでいいのに。それでも頬に笑みを浮かべて答えるエミールにルディアは奥歯を噛み締めて、そして、決意した。
「じゃあ、その証を私に頂戴?」
「え?」
 頬に当てていた腕を戻して静かに言う。聞き返してくるエミールに、ルディアは続けた。
「本当にずっと私のそばに居てくれるというなら、そのしるしを私に頂戴。私が安心できるように。ねえ、いいでしょう?」
 本当は、ここでエミールが断ってくれればルディアもそれ以上は言わないつもりだった。何も言わずに部屋を出て行って、しばらく城に戻らずに居れば、エミールの方から出て行くだろう。それで全てが丸く収まる。寂しくはなるだろうけれど、彼との生活が続くことに疑念を抱いている今だからこそ、それが終わることにも耐えられる。そう、思っていた。なのに、彼はしばらくの間を置いた後で、
「いいよ。僕は、君に何をすればいい?」
 そう、言った。
 どうしてエミールがそこまでしてくれるのか。どうして自分との生活を選ぼうとするのか。ルディアには分からなかった。例えこの城での生活にもすっかり慣れたとはいえ、彼の家族も、友人も、皆森の外に居るのではないのか。なのに、どうしてこの森での暮らしに身をおこうとする? 本当に、わけがわからない。わからないが、そこまで言うなら、良い。そう、思った。
「何もしなくていいわ」
 カップと、エミールから受けとった彼のカップをテーブルに移して、もう一度彼の隣に腰をかける。
「あなたは、何もしなくていい」
 そして、そうつぶやいて、そのまま彼を寝台の上に押し倒した。
 何事かと抵抗を見せるエミールの右手に指を絡め、もう片方の手は彼の頬を優しく撫でて、疼き始めた血を抑えながら唇をそっと舐める。
 きっと、彼の表情は大層おびえていることだろう。突然何が起こったのかと、混乱しているに違いない。ひょっとしたら、初めて出会った夜のことを思い出しているのかも。
 そんなことを考えながら、彼の胸の上をゆっくりと這い上がり、彼の頬に口を寄せて、その頭をそっと撫でながら囁く。
「大丈夫、すぐすむわ。怖がらなくていいの」
 言って、その頬に優しく口付けを。その頭はそのまま彼の顎の骨にそって下降し、やがて相変わらず色の白い彼の首筋へとたどり着く。首の薄い皮の内側で、周期的にうごめく血管の感触。指先でそれを撫でて笑みを浮かべる彼女の心は、森の中で駆け巡り、獣達を狩り、奔る、いささか乱暴な興奮に傾いていた。
「痛いのは、初めだけだから」
 最後にそういって、彼女はエミールの首筋に深々と噛み付いた。自分の牙が皮膚を突き破る感触。口の中に広がる温かさ、最後に口にしてから久しい人間の血の味。彼女が血を吸い出すたびに小刻みに震えるエミールの肩をそっと抑えながら、ルディアは心の中で何度も、謝った。

 そして時は巡り、その夜へ至るわ。綺麗な宵待月に照らされながら、ルディアはエミールの首筋から牙を抜いて、エミールは痛みと、熱さと、快感の余韻に浸りながらため息をつく。あなたには想像できるかしら? 無防備に晒した首筋に牙を立てられて、細い指で抱きすくめられながら少しずつ血を吸い出される感覚が。きっとそれは、神経を優しく撫でられるような、心臓をそっと突かれるような、痛みにも似た強烈な快感だったと思うの。
 夜の、ただでさえ月明かりに気持ちの落ち着くことの無いような中で、そんな事があったらおちおち眠れるわけも無いわよね。ルディアの喉もその夜はエミールの血で潤っていて、二人は久々に散歩を途中で切り上げて城に戻ったの。そして、最後はいつものように並んで布団の中で眠ったわ。近づいてくる満月に沸き立つ心をすっかり満たしたルディアは、本当にぐっすり眠っていたわ。だから、翌朝以降のことなんて、考えても見なかったの。

 随分と部屋の中が明るい気がする。彼女の大嫌いな生暖かさ。差し込む日光の、肌の上を覆うような不愉快な温かさ。久々に感じる居心地の悪さに、珍しくルディアは自分から目を覚まして寝台から降りた。いつもだったらエミールが起きた時にもう一度カーテンを閉めなおしてから朝食を作りに行くのに、今朝は一体どうしたのだろう。だいたい、そうでなくてもいつもより日の光が暖かすぎるような気がする。普段エミールが彼女を起こしに来る頃の太陽はまだ随分下の方にあって、カーテン越しに感じられる光ももっと弱くは無かったか。
 首を傾げながらも乱れた髪を幾度か撫で付けて、十年ぶりに、ルディアは自分で寝室から出た。
 後ろ手に、金の握りの着いた扉を静かに閉めて、普段のドレスよりは簡素な、黒い寝巻き姿のルディアは廊下を尖塔の中の螺旋階段を降りていく。月が良く見えるように、と城の一番高いところにおいた寝室だが、こんなときにはその高さが恨めしい。何故かは分からないけれど、妙な胸騒ぎがするのだ。もう何年も忘れていた、嫌な感じ。具体的に何がそこまで不安なのか、自分でも分からない。分からないけれど、何かが、怖い。
「エミール? どこにいるの? もう朝の用意は済んだの?」
 幾度呼びかけても、返事が無い。螺旋階段を抜けて、二人で過ごすには少し広すぎる廊下を行きながら呼びかけているのに、返事が無い。こんなにも声は響いているのに。聞こえないはずが無いのに。
 だんだんとルディアの顔から表情が抜け落ちていく。どうして? どうして、エミールの声が聞こえないの? エミールはどこにいるの? 今日の朝食は一体なんなの?
 居ても立っても居られずに走り出したルディアの足が、止まった。
 それは城の中、広い廊下が一時だけ左右に大きく開ける大広間。右に行けば玄関があり、左に行けば食堂がある、その中央を貫く、周りより少し高い廊下の真中で、今日に限ってさんさんと差し込んでいる日の光にもかまわずに、ルディアは立ち止まった。
 目の見えない彼女の、その他全ての感覚によって描き出される視界の中に、沢山の見慣れないものが映っていた。背の高いもの、低いもの、太いもの、細いもの、表面に皺の目立つ物、色白くキメのこまかそうなもの。それらの手には凶暴な光を宿した物騒な道具。それは、あまりに多い、人間の群だった。
「どちら様かしら? 大勢で、勝手に上がりこんで。幾らなんでも失礼じゃない?」
 本当はこんなところに立ち止まっているような気分ではないのだけれど、それでも彼女はあくまで堂々と、その場に立ったままで左右をゆっくり、見えない目で見渡す。その顔が壁際の鎧の一つを通り過ぎようとした時、彼女のその冷め切った表情に気圧されたか、小さな悲鳴が上がった。
「でていらっしゃいな。別にとって食べたりしないわよ?」
 それでも、その主は出てこない。
 ここまで来ておいて何を隠れる事があるのか。
 ルディアがため息をつき、声の聞こえたほうに歩いていこうと足を一歩踏み出すと、その代わりに彼女の左手、悲鳴の聞こえたのとは反対側の壁際から、肩幅の広く、それこそルディアの城の廊下に飾られているような、随分と豪勢な槍を担いだ初老の男が、別の鎧の台座の影からゆっくりと立ち上がって彼女を見上げた。
「あら、あなたは少しくらいは礼儀を知っていそうね。さあ、名乗りなさい。そして、何のようなのか、行って御覧なさい?」
 そういって彼女が振り向く男、その手の中には随分と大振りな十字架。彼はそれをグッと握ると、その問いには答えずに、逆に彼女に問うた。
「お前が、この城に住むという吸血鬼か?」
「……聞きなれない呼び方をするのね。最後に町の人間にあったときにはもっと小洒落た呼び方をされていたものなのだけど?」
 そう言って、笑みを浮かべた口元にわざと牙を覗かせる。それが、いわば答えだった。
 一斉に広間の彼方此方から聞こえる人間の雄叫び、けたたましく鳴る刃の音、怒号の如き足音、揺れる廊下に倒れる胸像、迫り来る白刃の煌き。
 何も見えないルディアはそれを肌で、耳で、匂いで感じて、一瞬の微笑みの後、嗤った。
 直後、彼女の姿が掻き消えた。
「いいことを教えてあげる」
 聞こえた声に若者が振り返れば、自分の背後には黒衣を纏い、濡羽色の髪を揺らす女の姿。瞼は閉じたままに女は頬を吊り上げて、言った。
「貴方達みたいな人間の血はね、脂ののった肉のようなものなの。欲望の色が滲んでいて、美味しいんだけど、飲みすぎるともたれちゃうのよね」
 彼を襲ったのは嘗て無いほどの恐怖。早鐘を打つ鼓動。どこかへ消え去った理性。手にした刃を振り上げた次の瞬間、喉に強烈な痛みが走り、彼の意識は飛んだ。
「ようこそ、私の城へ。たかが町の人間風情で今の私に喧嘩を売った、その驕りの果てをとくと知りなさい」
 沸き起こり、迫り来る咆哮をものともせずに、再び彼女の姿は消えうせた。

 太陽が天高く上りつめ、彼女にとっては一日で最も億劫な頃合、ルディアは髪を、肌を、着物を、全てを赤く、紅く染め上げて、広間の中央に立っていた。倒れた胸像、崩れた鎧、無残に折れた刃に、壁に突き刺さった槍の握り。もともと赤い絨毯の敷かれていた大理石の床はその全てが鮮やかに染まり、立ち込める死臭とともに累々と積み重なった男達の亡骸。それら全てが、彼女の閉ざされた目には映らない。
「ねえエミール、ここはいま、どんな風になっているの?」
 彼女はその最中に呆然と立ち尽くして、どこへともなく呼びかける。
「ねえエミール、きっとここは随分と汚れてしまったと思うの。掃除を手伝って?」
「ねえエミール、悪い血の味が染み付いて口の中が気持ち悪いの。紅茶を入れてくれない?」
「ねえ、エミール。エミール……」
 呼びかける声に、答える者は、ない。

 それからの彼女の暮らしは酷いものだったわ。始末の出来ない死体のせいですむに耐えなくなった城から彷徨い出た彼女は、日が沈む頃に目を覚まして、夜の間はずっと森の中を奔りまわる。手当たり次第に見つけた獲物にはくらいついて、血みどろになって、そして日が昇るころになると森の中の、決して日の光が届かない深い茂みの中で体を丸めて、獣のように眠るの。元来気高くあった彼女にあって、それはとても異常なこと。森で一番強い存在がそんな風なものだから、人の目を逃れて住んでいた動物達もたまったものじゃなかったでしょうね。そのうち彼女の周りには一羽の小鳥でさえ寄り付かなくなってしまったわ。
 誰もいない森の中。その日の彼女は泉の中で仰向けに浮かんで、こびりついた血の汚れを落としながら、随分長いこと聞いていない鳥の声に思いをはせていたの。ああ、たしかあの時はこんな風に鳥が歌っていた。そういえばその前はこの辺りにも鹿がうろうろしていたっけ。今では自分で追いかけて捕まえでもしないと触ることさえできない獣。ここのところは木々のざわめきでさえどこか彼女を避けているように感じられて、ルディアの何かを感じようとする心はほとんど磨耗しきっていたわ。そんな折にね、彼女は考えたの。どうして、こんな風になってしまったんだろうって。ある日突然人間達が城を襲いに来たから? いいえ。それはね、エミールがいなくなってしまったから。だって、そもそもエミールがあの場に居れば城を出て行く必要はなかったし、もしかしたらエミールが彼らをうまくあしらってくれたかもしれない。だけど、あの日エミールは居なかった。居なくなってしまった。どうして? 彼女は考えたわ。どうして約束を破ったの? ずっと一緒にいるって、そう約束したはずなのに。しるしだって刻んだのに、どうして? いいえ、居なくなったことは一時の気の迷いとしてなかったことにしてもいい。でも、それなら直ぐに帰ってきたっていいじゃない。ルディアが城を出てからもう数ヶ月。毎晩森を奔るたびに城の前も通るけれど、エミールが来たような様子はまるで無かった。どうして? そんなに町での生活がいいの? あれだけ一緒に暮らした時間は、結局あなたにとってはなんでもない時間だったって言うの?
 自分の牙が自分の唇を傷つけるのもかまわずに、鮮やかに滴る血もそのままに彼女は歯を噛み締めて思うの。だったら、いっそ自分も町に顔を出してみようか。あの男達が何で自分のことを知ったのかはわからないけれど、長い年月の間で一度だって森の外に出たことは無いのだから、きっとなんでもない顔をしていれば正体が露呈することは無い。城に帰れば着替えだってあることだし、まったく不可能な話じゃない。
 泉の中で立ち上がって、彼女は考えるの。どうしようか。本当に、町での暮らしがそんなにいいものなのか、確かめてやろうか、って。
 ねえ? あなたはこのとき、ルディアはどうするべきだったと思う? 一人で森の中で閉じこもって生きていく覚悟をするべきだったのかしら? それとも他所からきた町娘のふりでもして森の外に出るべきだったのかしら? ねえ、ちょっと考えてみて?
 ……答えは出た?
 なら、さあ、どうぞ? 最後の扉を開いてあげるわ。物語の結末を、見届けてらっしゃいな。

 また、そろそろ満月なのかしら。
 決して見えない冬の夜空を見上げて、ルディアはそんなことを思う。
 あれから随分とたった。もう、一年になるだろうか。結局彼女は、一人森の中で暮らしていた。
 毎日さして変わりもしない生活。夜目覚めては獲物を狩り、森の泉で身と衣を清め、昼の間は獣も鳥も寄り付かないようなところでひっそりと眠る。もうすっかり慣れきってしまって、特に思うところも無い日々。
 嘗て暮らしたあの古城にも寄り付かなくなって久しい。あの広間に漂う死臭は相変わらず残るどころか酷くなっていて、敏感な鼻を持つ彼女にはもう近寄るだけでも苦痛になりうるような場所と化していたのだ。
 もはや、嘗ての生活に対して思うところも無い。町の生活がどんなものかなどと、考えるつもりも無い。彼女は決めたのだ。これが、この先の自分の生き方。嘗てあの少年と出会うまでの自分がずっと一人あの古城で暮らし続けていたように、今度はこの森の中で暮らし続ける。そしてまた何十年か後、別の誰かと運良く出会う事が出来れば、また別の暮らし方を選ぶこともあるのだろうか。そこまでのことは、今の彼女にはわからない。
 さあ、今夜も出かけましょう。
 彼女の赤い舌が、ちろちろと唇を舐める。腰を沈めて、体を蹴り出す準備をする。
 ここから今夜の狩りが始まるのだ。木々の間を駆け抜け、太い幹を駆け上がり、枝の間を飛び交わして、獲物を追い、その首筋に牙をつきたて、欲望のまま、渇きのままに、あまりに弱い獲物の体を蹂躙し、時には細切れにしてでもしゃぶりつくす。いつものとおりの、狩りのあり方。
「……」
 細く息を吸って、足に力を入れようとした、その時だった。
「やっと見つけた!」
 聞き慣れない、いや、忘れかけてそんな風に感じる、本当はよく聞き慣れた声が、彼女の耳に飛び込んできた。
 どうして? だって、そんなはずが無い。彼は一年前に自分の前から姿を消していて、それから一度も返ってくるそぶりさえなく。だから、彼が、エミールがこんなところに居るわけが……。
「何をしてるんだよ、こんなところで。城の方は酷いことになってるし。どうしたんだよ」
 それでも確かにその声は聞こえていて。目の前には彼の気配がまざまざと感じ取れて。深い泉の底から気泡が浮かび上がってくるように、色々な物が全部混ざって胸の底から湧き上がってきて。
「……て」
「え?」
「どうして! どうして今頃になってなの? どうしてもっと早く戻ってこなかったのよ! どうして出て行ったの? どうして約束を破ったの? 何を思って出て行ったの? あなたが居なかったら私はどうやって物を見ればいいのよ!」
 決壊した。
 近づいてくる満月のせいで気が沸き立っていたこともあったのだろうか。一度口をついて漏れ出した思いはとどまることを知らずに、ただ呆然とするエミールに投げつけられる。ずっと一緒にいてほしかった。おいていかないでほしかった。せめて、もっと早く戻ってきてほしかった。何も分からずに一人にされるのは嫌だった。
 向かいに立ってただその言葉を受け止めていたエミールが、不意に一歩前に踏み出した。
 青草の折れる微かな音で、ルディアが口を噤む。
 流れる無言の間。エミールの足は止まることなく、前へ、前へ、前へ。俯いて近づいた彼はそのまま何も言うことなく、ただその両腕を彼女の小さな肩に回した。
「ごめん。僕が悪かった」
「……」
 返事のかわりに、舌の先でそっと首筋を突いてやる。一瞬、肩を震わせたエミールは急かすように見上げるルディアの顔に笑みで応えて、膝を屈め、首筋を差し出してやる。
「いただきます」
「どうぞ。お好きなように」
 クスリ、二人の漏らした笑いが重なって、女の細い牙が男の首筋に突き刺さった。

 そもそもの始まりは、森の外の町に、最近彼方此方に建てられている教会ができたことだった。そこに住まう司祭達はみな一様に『あの森には化け物が居る。それを追い出さなければ神の愛は届かない』と力説し、やがて街の中で山狩りのための人が集められた。そしてその中には、エミールの幼いころの友人も居たのだ。
 あの日、いつものように起き出したエミールは城の玄関で懐かしい友人達と再会した。その時だけは驚いたように目を丸くした嘗ての友人達も笑いながら彼の無事と再会を祝い、森での万が一のために持ち歩いている酒を、城の中でも一度も酒に触れたことのなかったエミールに振舞った。そして、気がついたときにはエミールは町の、昔の家で眠っていた。両親はどちらも短命で既に世を去り、もともと兄弟はおらず。そして親の遺言だとかなんとかの理由で、既に結婚相手が決められていた。
 考えてみればそれは、エミールを再び森に返さないためのことだったのだ。一応は『化物』を城から排除することには成功したものの、そのために出かけて行った男達は、エミールを連れ帰った数人を除いて戻ってこない。そんなところに再びエミールをかえすわけには行かない。そういうことだった。
 だが、町での生活はエミールには耐え難いものだった。夜ごとの散歩も無く、起きると朝食が出来ていて。そんな当たり前の生活が、物足りない。そして、ただのんびりと過ごしていたいのに、やれ祭りだ、やれ仕事だと引きずり回されるのが鬱陶しい。古城の中での生活に慣れきったエミールには、それら全てが我慢ならないものだった。
 だから、逃げ出してきた。随分時間は掛かってしまった。何度も脱走を試みたものの、家を出る前に見つかったり、森に入る前に見つかったり。酷い時には教会に連れて行かれて、一晩中司祭の監視を受けたことさえあった。その中をかいくぐるための方法を考えて、条件がそろうのを待って。そんなことをしている間に、一年が過ぎてしまっていた。
「朝食ができたよ、ルディア」
 そして今、彼は森の古城のなかで暮らしている。一緒に暮らしている彼女のために少しだけ早く起きて、朝食の用意をして、彼女の淹れてくれた紅茶を飲みながら本を読んで、月に何度か、散歩の途中で、あるいは寝台の中で、首筋をそっと彼女に差し出す。彼女の目の代わりとして働き、彼女に彼ではとても感じ取れないようなことを教えてもらう。とても居心地のいい、彼にとって何より大切にすべき貴重な日々。
 そのうち再びこの城に誰かが居ると、町に伝わることもあるだろう。しかし、次は決して彼は彼女の前を去らない。彼は、この生活が好きだから。町の生活にはなじめない事を知っているから。そして何より、彼は彼女に惹かれているから。
「ありがとうエミール。今行くわ」
 寝台の中で半身を起こしたルディアが、優しく彼に微笑んだ。

 さあ、あなたの答えと彼女の答えは合っていたのかしら? それとも違っていた?
 もう一つ、あなたはこの二人の結末を嘲笑うのかしら? 否定するのかしら? それとも、これで良いと肯定するのかしら?
 私はね、これでいいと思っているわ。だって、エミールはルディアの古城であれだけ長い時間を過ごした時点で、例え町に連れて行かれて監視されようと、必ず戻ってくるんだもの。だったらルディアはきっと、じっと待っていたほうが良い。もし万が一好奇心に駆られて町に出てしまっていたら、どうなっていたと思う? まして町に受け入れられていたとしたら。そうなったらきっと、ルディアはそのまま町に住み着いてしまったんだと思うの。周りにあるのはすべて始めてみる光景ばかり。彼女が今まで一人だったのは、単純に独りにならざるを得なかったからですもの。もし、一人にならなくてもいいという環境が出来たとすれば、必ずしも彼女の心が一人での暮らしの中にとどまり続けたかは怪しい物でしょう? でも、そうなるとエミールはどうなるのかしら。帰るべき場所である城にはその主が居らず、よりによってその主は、自分がどうにも順応の使用が無い町の中で暮らしている。そんな風になったら、一体エミールはどこで生きればいいの? ね? そうでしょう?
 さあ、今日のお話はここまでね。
 そろそろあの人がやってくる時間だもの。
 私はルディアと違って途中で間違えてしまったから、私のエミールは帰る場所をなくしてあんなふうになってしまったの。
 だから、私はこの石牢の中の生活にも耐えるわ。彼がああなってしまったのはわたしのせいだもの。わたしが彼に手を出さなければ、彼はあんな風になることはなかったのだから。だから、私は外のお祭りに思いを馳せながら、彼のためにそっと物語を囁いてあげるの。鍵の掛かった部屋、暖炉の前で、寝台で眠る彼のために、毎晩違う物語を聞かせてあげるの。それが、私の役目。
 さあ、もうお行きなさい。
 物語が終われば、あなたもここに用は無いでしょう?
 もしかしたらまたどこかで、こうして物語を手に向かいあうこともあるかもしれないわね。
 それじゃあ、さようなら。