『籠目籠女』本日追加分

「……ここ」
 歩いた距離は大したことのないもの。ただひたすらに真っ直ぐな廊下を歩いて、その中ほど、やたらと立派な絵の施された襖の前で、たえと私は立ち止まっていた。
 中に何があるのか、私は知らない。ただ、早苗さんの部屋に勝らずとも劣らない襖から感じる迫力に、そして、それを前にすっかり黙り込んでしまったたえを横に、なんとなく不安な感じがするだけ。中身がわからない私の感じる不安と、きっと中身を知っているに違いないたえの不安とは別物であるはずで、そのたえが傍目にもわかるほど顔をこわばらせている、というのが、なんとなくでしかなかった不安を少しずつ色濃くして行く。
「ねえ、一体……」
「よく聞いて」
 言葉を遮られた私は、今にも私の肩を掴むのではないかというたえの迫力に、大人しく彼女の言葉に耳を貸す。
「ちょっと怖いかもしれないけど、大丈夫だから。下手に何かしなければ、すぐ済むことだから、安心して」
 これだけ必死に語りかけられて安心できる人がいるなら、会ってみたい。
 結局たえの言葉で、私は少し前までの心地よさもどこへやら、すっかり緊張しきってしまって。心なしか奥歯を噛み締めてしまう私の前で、たえがそっと襖に手をかけた。狂い咲く桜の絵がするすると横に流れていき、眼の前の足元に広がる、まだ見慣れない畳の色。奇妙な、花の香りに似た臭いを微かに感じながら、私はたえに続いてその部屋に足を踏み入れた。
「遅かったじゃないか!」
 びくりと、すぐ前でたえの肩が跳ねる。私が部屋に入るなり、左手から、右手から、鋭い声が次々に飛んだ。
「白衣(しらぎぬ)の癖に、あたしらを待たせようってのかい?いい度胸じゃないか!」
「あんた、たえって言ったっけ?どういう了見だい?」
 一言一言、厭味ったらしい言葉を投げつけられるたびに、たえの私より少し高い背が、だんだん縮んでいくように思える。それを面白がるように投げつけられる言葉の棘は段々と鋭くなっていき、笑い声も混ざり始めて。
 ……え?これのこと?
 私は内心、拍子抜けしていた。
 つまりこれは、新入りの私と、既に店に出ている女との顔合わせということか。そして多分、たえがやたらと怖がっていたのはこの女達が飛ばす野次のこと。現に今も、すっかり緊張しきって固まった肩を、何か言葉が投げられるたびに小さく震わせて、たえは私の少し前を先導しながら座敷の奥へと歩いていく。でも、私にはこれのなにが怖いのかわからない。だって、私達の両脇に座っている色とりどりに着飾った女達は、ただ私達をからかっているだけじゃないか。私達が小さくなる様をみて笑って、より怖がりそうな声で怒鳴ってみて。そんなの、子供だってやっていることだ。そうやって年下の子供を泣かせて、その後私達や、親達に見つかって、泣かせた子供は泣いている子供に謝るのだ。それと同じことを、ただ化粧を塗って着飾った、ただの女がやっている。それのどこに、怖がる必要があるだろうか。
 ああ、もう。そう考えると、前をいくたえの背中が見ていてむず痒い。なんでこんなのを怖がることがあるの?こんな底の知れた連中の、なにが一体怖いのよ?
 いっそ後ろからつっついてやろうかと思って、さすがに、と思い直した丁度そのときだった。
「はいはい!その辺にしておきなさいな。ほら、あなた達も早くする。いつまでそこにつっ立ってるつもりかしら?」
 その声に、私達が部屋に入ってから、ほとんど前に進んでいないことに気付く。大体ここもほかの座敷と変わらないつくりならば、襖から入って突き当りまで行くのにこんなにかかるわけもないのだ。
 それにしても……。
 さっきまであんなにうるさかった周りの声が、うってかわって静まり返っている。本当に、その一言だけで、あたりの空気が変わってしまった。いっそ気味が悪いほどに。
 やっぱり、凄いんだ、この人は。
 改めて認識して、早足に行くたえの後ろの私もさすがに少し俯く。
 そう、本当に怖いというのはこういう人のことを言うのだ。そこにいるだけで妙な空気を纏っていて、匂いを漂わせる。どんな人なのか皆目見当がつかない、そんな人。部屋の最奥には、二人の私より小さな女の子を横に携えた、早苗さんが座っていた。
「来たね」
 言って、私と、たえの顔を見つめる。どうせならずっと喋っていてくれればいいのに、周りまで黙り込んでしまって、おかげで私は気を紛らわすことも出来ずに真っ向からその視線を注がれる。
 やっぱり、怖い。
 この人には、おかしな気配がある。何で、とかではなく、一緒にいるだけで落ち着かない、そんな気配。さっきの野次だけでもあんな有様だったたえなんか、この人の前ではろくに立っていることも出来ないのではないか。
そう思って、早苗さんに見つからないように視線を流した私は、驚いた。
たえは、臆するどころか、あの野次罵声の中よりもいくらか解放されたような表情で、早苗さんの視線を受け止めていた。怖いとか、畏ろしいとか、そんな雰囲気のまったくない表情で。
どうして……。
「私の目を見なさい。言ったでしょう?」
「はい」
 視線を戻すのを忘れてしまっていたのを見つかってしまった。
ああ、もう。こんなときにも、誰も笑うことさえしてくれないだなんて。息苦しい。
 落ち着かない心を無理矢理押さえつける私の目を舐める様に見つめ返していた早苗さんが、突然立ち上がってその目を外す。これで目をそらしたらまた見つかるような気がしたので、視線はそのまま固定する。
 立ち上がるときでさえ静かに、物音一つ立てない早苗さんの視線は私とたえの頭上を飛び越えて、座敷の左右に控えた女達に注がれる。ただでさえ私達が入ってきたときとは比べようもないほど静まり返っていた座敷の中がより一層静かに、かすかな音でさえをも捨てて、空気がさっと冷え込むような気がした。
「さて、この子が昨日来た新入りの子。あなたたちが昔そうだったように、当分は白衣として、時期が来たら遊女として、ここで暮らすことになるから、よろしくね?」
 最後ににっこりと、その薄化粧に彩られた顔で微笑んだ早苗さんに、私の背後で一斉に、沈黙を破って動く気配。そして、何事かと本当にすこしだけ、辛うじて後ろが窺える程度に振り向いた私の視界の端で、色とりどりに着飾った女達が、そろって早苗さんに頭を下げた。
「さて、今度はあなたの番」
 声をかけられて、慌てて視線を元に戻す。その優しそうな微笑も、私には怖い。横にいるたえは、まるでこの部屋の中の唯一の救いか何かのように、ほとんど崇めるような視線で見つめているのだけど。
「ここにいるのは皆あなたよりもずっと長くこの店にいる人たちばかりなの。ちゃんとご挨拶は済ませましょうね?……たえ、後はよろしくね?」
 たったそれだけ。ゆったりとした口調で言った早苗さんは、横にいた二人の女の子を先に立たせて、戸惑う私と、すがるようなたえの視線などには見向きもせずに、座敷を出て行ってしまった。後に引かれる着物の裾を、私は急かすような気持ちで、たえはきっと引き止めるような気持ちで、見送って、そして、私と、たえと、この大勢の女達が、座敷に取り残された。
「さて、と」
 誰ともなく、女が口を開く。
「じゃあ始めてもらおうかね。たえ、さっさとしな」
 一人だけ立ち上がったその女に名前を呼ばれて、またたえの肩が小さく震える。それを見た女達からはまた、あちこちで小さな笑い声。どうせなら、さっきの間に好きなだけ、私のことを笑ってくれればよかったのに。
「……こっち、来て……」
 どうするの、と視線を投げた私に気がついて、ようやく、ほとんど消えてしまいそうな声でたえが言う。促されるまま、私は彼女の後ろについていった。
++
「よろしくお願いします」
「……」
 女達の返事は、それぞれに、それなりに、陰湿で、とても礼儀正しいものではなかった。頭を下げた私の顎を持ち上げてまじまじと眺めてみたり、いつ火をつけたのか、煙管の煙を吹きかけてみたり、あるいはあからさまに無視して、鼻でふんと笑ってみせたり。たえに、なにをされてもなにもしちゃだめ、と言われていたから大人しくしていたけど、それでも何度怒鳴り返してやろうと思ったかわからなかった。もちろん女達が怖いわけでもなんでもないけれど、私だって不愉快にはなるのだ。そうしなかったのは、横にたえがいたから。私が何かされるたびに小さく跳ね上がられたら、こっちとしては怒鳴りようが無い。
 ああ、やっと最後か。
 ようやくこの不愉快な時間が終わるのか、と胸の内でため息をつく。女達は私の挨拶を受けた者から一人ずつ、あるいは二人くらいで一緒に座敷を出て行き、今残っているのは私と、たえと、丁度座敷を出て行こうとしている女と、そして最後、若草と朱の着物を着た女。この女に頭を下げて、また何かされるのを耐えて、この女が出て行ったら、終わり。
「よろしくお願いします」
 膝をそろえて、頭を下げる。
「……」
 返事は、ない。
 無視のクチか……。
 思いながら目線で相手の顔を窺って、驚いた。
 彼女の瞳は別に私を無視するわけでもなく、見下すわけでもなく、ただじっと、私のことを見つめていた。
 なんとなく見つめ返すのもおかしい気がして、戸惑いながらもあげた視線をたえの方に流す。それこそ私としては助けを求めるくらいのつもりでいたのに。
 こっちも?
 彼女のほうは、妙に視線を他所の方にそらしていて、私の視線になど気付くそぶりもない。
 私が起き上がってなお、俯いたままの女と、穴を開けようとするかのごとく、女の向こうの壁の一点を見つめているたえと、そして訳もわからずにちょこんと座っている私と。
 ああ、だれか助けてください。
 いっそ本当にため息でもついてしまおうかという気で天井を仰いで、ふと思い出した。
 そういえば、昨日一人、あの牢獄部屋から出たのがいるのではなかったか。たしかそのせいで、昨日の夜は随分と、部屋の空気が沈みきっていたはずだ。
 そう考えてよくみてみれば、彼女の雰囲気はどこか、既に部屋から出て行った女達とは違っていた。もちろん、こうしてただじっとすわって私のことを見ているだけでも十分異質なのだが、そういうことではなしに。落ち着くどころか沈んでいるようにさえ見えるような表情をしているのに、その実どうも感じる雰囲気はどこか浮き足立っているというか、なじみきっていないというか。……ああ、田舎育ち故の言葉の無さがもどかしい。
 大体、どうしてこの二人はなにか話したり、しないのだろう。二日前まで同じ部屋で寝ていた仲ならば、交わす言葉の一つくらいあっても良さそうな物ではないか。それなら、私もこんなことで歯がゆくなることもなければ、重すぎる場の空気に気が滅入ることもないのに。ああ、もう……。いっそ私から……。
「あなたも、早めに覚悟を決めておいたほうがいいわよ。そのほうが、その時が来た時がらくだから」
「え……?」
「……」
 出鼻をくじかれた勢いで思わず言葉にならなかった音が漏れてしまう私と、相変わらず私の横で黙りこくっているたえと。丁度冬の最中に囲炉裏にあつまって、寒さに肩を震わせて声を潜めて話すときのような、そんな聞き取りにくい声でそれだけを言うと、私達をその場に置き去りにして、彼女は立ち上がるとさっさと部屋から出て行ってしまった。
「……え?」
 二三度目を瞬かせて、ようやく理解が状況に追いついてきて、そしてもう一度、しかしさっきよりもはっきりとその音を口にする。一体、なんだったのか。黙りこんで人のことをずっと見つめていたかと思えば、何事かつぶやいてさっさと出て行ってしまって。じゃあ、私は一体何のためにあの重苦しい空気に耐えていたのか。……馬鹿らしい。
「これでおしまい?」
「……」
「……ちょっと?」
「え、あ、大丈夫だった?」
「……あなたの方が、大丈夫?」
 少なくとも私は、あとが残るほど強く唇を噛み締めて足元を見つめていたような人の心配を受けるほどには、辛そうには見えないはずだ。
「あれで、良かったの?」
「……」
 ああ、やっぱりダンマリか。
 こういう反応を、私は前に一度知っている。あの時はどうして何も言わないのか私には分からなかったけど、今なら少しハわかる気がするから。
「まあ、答えなくてもいいけどね。で?今度は何をすればいいの?掃除の続き?それともどこかの小間使い?」
「ああ、うん。たぶん掃除はそろそろ終わってる頃だから、私達は部屋で呼ばれるまで待ってるの。呼ばれたら、裏の通路を通って布団を変えたり、姉様たちに食事を届けたり……」
「疲れそうな仕事」
「ハハハ……。まあ、頑張ろう?」
 困ったように笑顔をつくって笑う彼女と一緒に、私は真新しい煙草と化粧の残り香が漂う座敷を出た。