籠目 籠女

・ 弐:籠目

その日は結局それ以上のことは何も無く、通された部屋の中で、私はただ、ぼんやりと膝を抱えて、隅の方に座り込んでいた。……いや、これはちょっと部屋とは呼べないかもしれない。むしろ、牢獄だ。畳も敷かれず、むき出しの上に塵や埃でざらざらと不愉快な板張りの床。ところどころささくれ立ってさえいるその床が延々と、そう、丁度今朝までずっと過ごしてきた我が家と同じくらいの広さに広がっていて。もちろん伊達に生まれてこのかたあの寒く貧しい村で過ごしてきたわけではない。この程度のことならば、別段気に留めもしない。だが、部屋と廊下の間を仕切る、木で出来た、籠の目のような格子。これには参った。唯一の出入り口、小さなくぐり戸には外から鍵がかかっているのが見えて、他三方のは廊下と同じ、頑丈な壁に囲われて。部屋の中には明かりらしい明かりもなく、格子越しに照らす廊下の明かりだけが頼りで。まさに、その有様は牢獄だった。
早苗と名乗った、あの美しい人に背を押されるようにして、私はこの部屋までつれてこられた。あの部屋の臭いが、光景が、おぞましい感覚が忘れられずに、ほとんど固まってしまっていた私は、そのまま優しく、しかし有無を言わせずここに入れられて、それっきり。あの人曰く、ここはまだ一度も客を取ったことのない者達をまとめて入れておくための部屋なのだそうで、いくら広いとはいえ十五、六もの人間がこの空間に押し込まれている、ということも、あまり人が多いのに慣れていない私の気分を悪くしていた。
「……。」
心細さに、そっと膝を抱く腕に力をこめる。私の周りにいる子たちも私と似たようなものなのだろう、皆それぞれに黙り込んで、下を向いて、あるいは適当に寝転んで。部屋中の人間が皆そんな調子なものだから、息苦しくて、やりきれない。どうせならもっと、そう、この胸の支えが落ちるくらいに明るければよかったのに。これでは余計にひどくなるだけだ。
ああ……。
これからどうなるのだろう、とぼんやりと考える。少し前まではきっぱり覚悟を決めていたつもりだったのに、今更になって怖くなってきた。どうなるかなど、とっくに判っていたはずだろうに。ましてあれを見た後でそんなこと……。馬鹿みたいだ。
本当に……馬鹿だ。覚悟など出来ているつもりで、諦めなどついているつもりで、挙句どの街に行くのかなんて気にして。でも結局、私は何の覚悟もなければ諦めも着いていなかった。ただ単純に、自分の状況が理解できていなかった。わかってもいないのにわかったつもりになって。本当に、何をやっていたんだか。
ああ……。
ため息もつけずに、鼻から下を膝に埋める。今日は眠れる気がしない。なんとなくだけど、そう思った。
++
 次の日、私は誰かに肩を揺すられて目を覚ました。眠れる気がしないなんて一人心地つぶやいて見せたくせに結局耐えられずに眠ってしまったのか。それでもまあ、ろくに眠れてはいないらしくて、なんとなく揺すられているのを感じてから目を開くまでに随分かかってしまった。
 眠気が残っていた割に記憶は随分はっきりしていて、それだけ自分の身に起こったことも、自分の置かれている状況も把握できていた。昔、両親が遠くに作物を売りに行くからと他所の家に預けられた時は、翌朝目覚めてもついいつもの感覚で親を呼んでしまったりしたというのに。
「あ、やっと起きた。ほら、早く立って。」
 私を起こした相手は私と目があうなりそういって、私に負けず劣らず細い腕を差し出してきた。ただ私と違うのはその腕が随分と綺麗だということ。そして私より明らかに少し、そう、二つくらい年上。自分で立とうとしたけれど寝起きのせいかふらついてしまって、大人しく私が彼女の腕にすがると、微笑んだせいで垂れ気味の彼女の目元にある、小さなほくろが微かな笑い皺に隠れた。
「早くしないと。私達はね、朝の間にお店の掃除をしなくちゃいけないの。遅れると怒られちゃう。」
 言われてみれば、部屋の中で他の子達も、皆それぞれに起き上がって、既に開かれているくぐり戸から順に外に出て行く。その列の横には、あの黒主と同じような格好で、しかし背の高い分それなりに様にはなっている、そんな男が無言で部屋の中に残っている私達の方に急かすような視線を送っていた。
「ほら、早く。」
「……。」
 少し先で急かす彼女に続いて、私も重苦しいその部屋を抜け出した。
++
 掃除の間、私は始終惨めな思いを味わう羽目になった。別に、大して気を払わずとも気がつくこと。あの牢獄のような部屋に押し込められていた中で、私だけがそれはもう、なんともみすぼらしい格好でいたのだ。明るい座敷に入って見渡してみれば、手が、足が、顔が、土の色に薄く汚れているのは私だけで、後は皆驚くほどに白い肌を着物の袖から、裾から出している。その着物の方も、裾も、袖も、丈が足らないという点では私も彼女達も同じであったけど、ここまでひどく汚れているのは私だけ。周りの皆の物は、比べていて嫌になるくらいにまっ白で。私は、せっかく皆が掃除をしている部屋に入るのもためらわれて、いつの間にか自然と、汚れた雑巾やら、拾い集めた塵やらを外に運び出すのが仕事になっていた。
「これもよろしくね。」
「ん……。」
「その後こっちも。」
「……。」
 でも、かといってこう好き勝手に人を使うのはどうなのだろうか。別に文句も言わなければため息もつかないけれど。
 心持ち、視線を他所にそらして、差し出されたぼろ布を受け取る。そういえばこの雑巾の汚れ様は私の着物のそれに良く似ている。……ああ、まったく……。
 と、そこにふっと横から別の、真っ白い手が伸びてきて、私が受け取りかけた雑巾を奪い取った。突然のことで、私も、雑巾を渡した方の子も、唖然として横に目を流す。そこに、朝私を揺すり起こした、あの子がいた。
「全部この子にやらせればいいっていうわけでもないでしょう?少しは自分たちでやりなさい。」
 そういう性質の子なのか、彼女の言葉に楯突く者はおらず、何枚かの雑巾を手にこちらを向いていた数人は、おずおずと部屋の外に出て行った。
++
「あなたたちって……いつもこんな調子なの?」
「え?」
 私と彼女は並んで、ぬるま湯のはられた桶で雑巾をゆすいでいた。
「その、ね?あんなふうに、当たり前に話したりしてるの?」
「ああ……。」
 なんと言ったものか、と迷いながら口にした私の横で、「あれのこと?」と彼女は少し先の座敷で掃除をしている一団を示してみせる。
 そう、今朝起きてからのこの空気は、私から見れば異様なものだった。昨晩のあの沈み込んだ空気が嘘のように和やかで。丁度、村で他の子たちと集まって話をしている時のような、そんな雰囲気なのだ。それが私から見れば異様で仕方が無い。
 だって、ここにいるのは私同様どこからか買われてきたような子達ばかりで、しかもいつ客を取らされるかわからないで。私など、昨日あの座敷を見せ付けられた後はあまりのことにしばらくろくに何も考えられなかったというのに、まして彼女達は私よりもずっと長くここにいるというのに。おかげで、私は今朝からどうも調子が狂ってしまって、この調子に巻き込まれつつあった。
「だって……あなたたちも皆、私と同じようなものなんでしょう?なのに……その……。」
「……まあ、だからってどうにかなるものでもないでしょう?」
 立ち上がりながら彼女は言う。
「せっかく一緒にいるんだし。塞ぎこんでいてもしょうがないじゃない。もちろんあんまりうるさいと怒られちゃうから、大人しくしてないといけないけどね。」
「……じゃあ、昨日のは?」
「ああ……。」
 また同じ台詞。でも今度は彼女はそのまましばらく黙り込んでしまって。私がもう一度口を開こうとしたところでようやく、手にした雑巾を軽く握って彼女は答えた。
「昨日ね、私達の中にいた子がお客を取らされたの。」
 ああ、そういえば早苗さんがそんなことを言っていた。
「面白い子でね、夜中に時々おかしな話をして、皆を笑わせてくれた。いい子だった。」
 私は何も言えない。
「昨日の朝あの子は連れて行かれてね。お昼ごろからあの子の声が聞こえてきて……。」
「……ごめんなさい。」
 彼女が急に深く俯いて、筋が浮くほどに拳を握り締めたのをみて言葉を遮る。そもそも、昨日の時点であの座敷を見ている私が、こんなことを訊く事が間違っていたのだ。しかも彼女のあの言葉を聞いたのならば、自ずと昨日のあの空気の原因も想像できただろうに。私の、馬鹿。
「訊いた私が悪かった。ごめんなさい。」
「……いいえ。この話は、できるだけしないでね。皆、悲しむから。」
「うん。」
「勘違いしないでね?皆、別に忘れようとしてるわけじゃないの。でも……。」
「わかってる。」
 私も、そこまで馬鹿じゃない。一度禁句と知ったことを何度も口にするほど、馬鹿じゃない。
「たえ。」
 ふと、聞きなれない声がかかった。顔を向けてみれば、私と彼女の前にもう一人の女の子。私よりほんの少しだけ背の高い、髪の長い女の子。眉の辺りまで前髪が伸びているせいで、微かに覗く白い顔が余計に白く見える。
「どうかした?」
 呼びかけられた彼女――どうやら「たえ」というらしい、と、私はこのとき初めて知った――が応じると、対する女の子は一度小さく頷いて、
「お座敷は終わった。あとはお部屋。そっちの子はお風呂。」
 と、それだけ言って去って行った。
「あの子は……ああいう子なの。気を悪くしないでね?」
「ん……。」
 と、答えはしたものの、なかなか無愛想もいいところだ。私も人当たりがいいほうではないと思うけど、あの子ほどひどくは無いと思う。正直、少しだけムッとしてしまった。
「あ、それと。」
 と、一団の中に戻っていくその子の背中を目で追っていた私に、たえと呼ばれた彼女がさらに口を開いた。
「さっきの話、特にあの子の前では絶対にしちゃ駄目だよ。絶対。」
 どうして彼女だけ特になのか、不思議に思って、振り向いて。でもそのときにはもう、たえはその彼女の後を追うように、皆の一団の仲に戻って行ってしまった。
++
 結論からいわば、私は非常に満足していた。アレがあんなに気持ちのいいものだったとは。肌の上を流れていく感触も、余計な物が全て落とされていく感覚も、全てが心地よくて、それを精一杯感じようと、思いっきり廊下のど真ん中で背伸びして、私は息を吸い込んだ。
「アハハ、ご機嫌だね。」
 と、背後からたえの声。振り返った私の顔は、きっと少しくらいほころんでしまっている。
「そんなに良かった?」
「まあ、初めてだし。」
 微笑んで尋ねてくる彼女に素直に答えるのは気恥ずかしくて、目線を少しだけ横にずらす。自覚してやっているから、余計に自分が恥ずかしい。
「そうだよねえ。」
 言って、たえも一緒に笑う。
 それはまあ、当然のことなのだ。だって、あんなふうに全身を隈なく、しかも暖かいお湯で洗うなんていう事が今までに一度でも出来たような子は、間違ってもこんなところに来るはずが無いのだから。ここに来るということはつまり、他にどうしようも無いくらい家が貧しいということに他ならないのだから。だから当然私も、あんな経験は生まれて初めてだった。
 旋毛からうなじに、首筋から肩に、指先に、背中に、胸に、わき腹を、腿を、あるいは臍の上を跳ねて、最後には脛から踝、そして床へ。撫でるように、流すように、跳ねて雫を撒き散らしながら、小気味よく落ちて行く湯の感覚が、未だに肌に残っている。
「ところで。」
 と、たえが笑うのを止めて切り出す。顔は妙に緊張していて、私も心地よさの残滓を胸の内に隠す。
「お風呂が終わったんなら、ちょっとついてきてくれる?」
「いいけど……、どこに?」
「姉様達のところ。」
 姉様、というのが何のことかわからなくて尋ねた私に、既に店に出て客を取っている人のことだ、と彼女が教えてくれる。それを聞いて、少しだけ、胸の中の、羽が生えた幸せが落ち着くところまで降りてきた。
「大丈夫。」
 そういう彼女の目は既に私の方ではなく、振り返った廊下の先、私達のあの牢獄部屋に向かう途中の、あの牢獄から抜け出た者たちの部屋が並ぶその最奥を真っ直ぐに見つめていて、おかげで彼女の言葉もまた、私ではなく他の誰かに向けられているような感を覚えた。
「気にしなければ全然、なんでもないことだから。」
「……そう。」
 それしか、答えられなかった。