それはその日の午後のことだった。
 眼の前の黒板にはグニャグニャと醜く、しかし生徒達にはとっくに見慣れた漢字。休みボケか、講師の論語を読み上げている教師を他所に、男子生徒があちこちで机に突っ伏していた。夏休みからはあけたとはいえまだまだ外の気温は高く、その分時々埃を巻き込みながら拭いてくる冷房の風は、この退屈な午後の授業から生徒を一人ずつ、そっと眠りの園へと誘いで行く。
 もちろんそれに関しては晋治も例に漏れず。右の列、二つ前前の席で、晋治にも聞こえるほどの寝息を立てている裕也の背中を斜め後ろから見ながら、
眠い……。
 胸の内でつぶやいた。
 そもそもなにが悲しくて昼過ぎの眠くてたまらない時間に、藁半紙に刷られた漢字の羅列を眺めなければならないのか。しかも、裕也のようにその羅列の意味を理解していないのならいざ知らず、一通り文の意味が理解できている晋治には本当に、この授業は退屈以外の何物でもなかった。晋治に言わせれば、こんな授業でもとりあえず起きているには起きている女子達は大した物だ。もちろんなかには、授業になど少しも気を払わずに内職に励んでいる者も居るのだが。
 あと、三十分か。
 黒板の上の時計から視線を手元に戻してなんとなくぼんやり。こうしていれば、いずれ意識はどこか遠くに飛んでいって、気がついたときには授業が終わっている。
 はずだった。
「居眠りか。結構なご身分だな?」
 小さなささやき声。左足に走る鋭い痛み。血のにじむ感覚。
 眠気も何もあったものではない。驚いて飛びおきた晋治は、周りの数名の視線が集中するのにもかまわずに足元に目をやって、硬直した。
「ああ、お前は喋らないほうがいいぞ。ここで今俺が見えてるのはお前だけだ。お前が俺に向かって話しかけても、周りから見たら勝手になにかつぶやいてる変人だからな。」
 まあ、今でも十分変人か、などと笑いながら人の足元をうろついているのは、二股の尾を持つ白猫。居候の猫又。一体どうやってここまで来たというのか。朝、家を出るときには確かに晋治の部屋で丸くなって、偉そうに尻尾を振っていたはずだし、この学校の場所だって知るはずが無い。大体この部屋の扉はせっかくの冷房を最大限活用するために完全に締め切られているから、それを開けない限りこの部屋には入れないはずなのだ。少なくとも晋治の記憶では、そんな音は一度も聞こえていなかったと言うのに。
「あの汚らしい部屋に閉じこもっててもやっぱり面白くないからな。臭いを辿ってみたんだが……。」
 興味深そうに教室の中を見渡しながら遠慮の欠片も無い声で喋る。肝を冷やす晋治のことなどどこ吹く風、あちこちの机の下をくぐってみたり、器用に生徒の身体を避けながら机の上を跳ねて見せたり。それでも誰も気付かないのだから、晋治にとっては余計に不気味でしょうがない。
 文句の一つでも行ってやろうと思っても、きっとこれも考えのうちなのだろう、机三つ分も離れたところから話しかけてくる相手に、クラスメイト達には聞こえないように声をかけるというほうが無理がある。一見何も無いはずのところに必死に話しかける有様を見られて、それに添える言い訳など思いつかない晋治にとっては、この場においてなす術など一つも無い。
「しかしまあ、お前の部屋に負けず劣らず汚い字だな。見にくいったらねえ……。」
 内心で同意しながら、ぴょこぴょこと危うい足どりでこちらに戻ってくる姿を追う。
 早く、早く……。
 わざとであろう、ぶらぶらと揺れている生徒の足の間を通ってみたり、飛び越えてみたり。あの小さな猫又がその気になれば多少なにかがあっても悟られることは無い。それは既に知っているが、それでも危なっかしくて仕方が無い。少なくとも晋治は、クラスメイトに向かって真顔で「こいつは猫又で……」などと説明するのは絶対に容認しえないのだ。
「なんだよ、切羽詰った顔して。昨日俺が話したことを忘れたか?心配事なんかどこにも……っと!」
「っ!」
「……え?」
 今、息を……飲んだ?
余裕綽々で歩いていたそいつが突然、目の前に投げ出されていた生徒の足にぶつかって、躓いて。それだけなら、その居候の話を信じるのならば、息を呑むのは晋治一人でいいはずだった。だが、晋治が思わず中腰になるよりも先に、その足は小さく跳ねて、机の下に引っ込んで。その足の主の視線は明らかに一度、その白い小動物にむけられて固定された後、思わず口にした晋治の声で再度動いて……。
「いやあ……鋭い奴もいるもんだ。」
 半ば感心したようにつぶやく声を聞きながら、晋治の視線と藤崎陽菜の視線が正面からぶつかった。