「ちょっと、徹!早くする!」
「叩くな!わかったから、叩くな!」
 八月の夕暮れ。聞こえるのは控えめな蝉の声。春日邸の玄関に、そんな声が響いていた。
「あんたが一番遅いんじゃないの。私も、凛も、優だってもう準備出来てるっていうのに」
「はいはい、悪うござんした」
「態度が悪い!」
 そして再び拳骨一発。涙交じりの徹の悲鳴に、凛と優が並んで苦笑いを浮かべていた。

 切欠は完全に気まぐれ。都内の花火大会。その会場が行けないほど遠くもなかったことと、凛が未だに一度も、まともに花火という物を間近でみたことがなかったのとで、ならば、ということになった。巴と徹の両親は「疲れるから」、「たまには二人でのんびり過ごす」と言って留守番。結果、久々の優、巴と徹、凛の二カップルでのダブルデートと相成ったのだ。
「ほら、躓くなよ」
 そう言う徹の視線の先には、慣れない浴衣に下駄という装いで鼻歌交じりに行く凛。長い金髪を中程で、やや黄色がかったリボンで束ね、赤い浴衣を纏ったその姿はどうしても目を惹かれて。その上、夕日で朱に染まった頬で笑って振り返ったりするのだから、徹の頬も緩んでしまう。と、
「人の顔見るなりにやけないの!」
「うぷ……」
 飛んでくる裏拳。いくら凛の力でも、身長差の関係でそれが鳩尾に命中すれば、当然徹の息も詰まる。
「……お前、最近姉ちゃんに変なとこで似てきてないか?」
「そう?」
 そうだよ……、と、まったく悪びれずに笑う凛に胸の内で言う。
 あの日。凛が徹のもとに帰ってきたあの夏から三年が経った。徹も何とか、一応は新学校と呼ばれる上丘の名につり合う大学に現役でもぐりこみ、今は大学二年生。凛の方は事務所の二人組や芹山。その他、テニス部を始め面識のある生徒達に惜しまれながらも佳織の卒業と共に上丘を去り、今は春日家で、相変わらず夜になっても空いていることの多い巴の部屋を使って生活していた。
「あ……」
「ん、どうかしたか?」
 数メートル前で言葉を交わしている巴と優の後姿。何だかんだで別々の会社に就職してなお続いている二人の姿を眺めていたところに凛の呟きが聞こえて、振り向く。
「今日この格好で来ちゃったけど……大丈夫だった?」
「ああ……、そういえば」
 二年前から。否、初めて凛と徹が出会った四年前から凛の身体は基本的に成長していない。それもそのはず、凛の身体はあくまで智に作られた情報としての彼女の身体を、智の父親の置き土産を使って現実に再現したに過ぎない。いわば、現像された写真のようなものである手前、成長などするはずが無いのだ。そのかわり、彼女も同じような身体を持っていた朋同様、現実において己の身体を変容させることは出来る。だから、二人でどこかに出かけるときには主に凛が徹に配慮して、大学生の男と歩いていても違和感の無い様、身体を作り変えたりもしていたのだ。
「……ま、いいだろ」
「……」
 申し訳なさそうに黙って俯く凛を一瞥して、大きくため息。
「しょうがねえよ、今更なんかしたって浴衣の方が追いつかないし」
「……ごめ」
「それに」
 ん、を聞く前に口を開いて。右手を広げて胸ほどの高さにある頭を掴む。
「月並みだけど、今俺の目の前にいるお前も、凛であることには違いないだろ?」
「……うん」
 しばらくジッと徹を見つめて、嬉しそうに凛が頷いた。