5-2

 アルテメネの過ごしてきた世界を含むその他大勢の時間にしておよそ百年前から、「世界」と定義される存在は同時に二種類、複数存在している。その一つ目は俗界だとか、虚界だとか、仮想世界だとか、そんな名前で呼ばれる、アルテメネが暮らしてきた世界を含むその他大勢にあたる世界。巨大な情報記憶体の中に地理情報から世界構成、果ては生物の肉体構成や各々の人格まで、すべての情報を持ち、それによって存在を保っている世界。そしてもう一つが神界だとか、実界だとか、現実世界だとか、明らかに尊大な名前で呼ばれる、唯一つの世界。百以上ある世界の中でそこだけは情報記憶体の拘束を受けず、どこかに存在を依存するわけでもなく、ただ、どこからともなく存在を得て、ただその身によってのみ、そこに存在している。
 朋と二言三言交わした後で、アルテメネがしていたのと同様に適当に腰を下ろした智はそんなことを語った。突然で、しかもあまりに突拍子もない発言に思わず何をいうのかと聞き返したアルテメネに向かって、「まあ、最後まで黙って聞け」と釘を刺し、さらに続ける。
「もともと仮想世界は現実世界の中で創られた存在だ。だから仮想世界を束ねる情報記憶体は現実世界の中にあるし、現実世界はその情報記憶体の束縛を受けない。それどころか、外から情報記憶体を弄って仮想世界を創りかえることも、極端な話ぶち壊すことも出来る。」
 聞くに堪えない。
 そうは思うものの、何故か、まるで何かにそうさせられているかのように、不思議とその場を立ち去る気にはならない。と、言うよりもそもそもアルテメネのなかでそういう選択肢が出てこない。「何を言ってるのか……」「バカバカしい」と思って、それだけ。何をするでもなく、そのまま話を聞き続ける。
「この情報記憶体っていうのは言い換えれば、仮想世界におけるもっとも平均的な真実の塊だ。もちろん、最初に現実世界で創られた時に得た始まりの形はあるし、基本的にそれにそって動いてきているのは確かだけれど、それじゃあただ決まったことに沿って動くプログラムでしかない。一つの仮想世界における社会の中で、大衆の信じる真実が変われば少しずつ、それがその世界での真実として書き換えられるし、昨日まで存在していたある物事がある日突然、その世界にかかわるすべての人間に同時に存在を完全に否定されればその瞬間から、それは存在しなくなる。とりあえず、ここまでで質問は?」
 言って、智がパン、と手を打つ。瞬間、なにかそれまでまとわりついていた糸が切れたような錯覚がアルテメネに流れて、途端に、どうして自分が今まで大人しく目の前の男の、突拍子もない話を黙って聞いていたのかがとてつもなく不自然に思えた。
「……とりあえず、その話本気でしてるの?」
「本気もなにも、真実を語っているだけだけど?」
 念のため尋ねたアルテメネの問いに、智の声は臆することもない。
 ハア、と一つだけため息をつく。いくら半奴隷と呼ばれた自分にもこの男の語る事がどれだけばかばかしくて、現実離れしていて、取るに足りない事かくらいはわかる。まったく、なんと救いようのない……。
「一応、もう一つだけ聞いてあげる。その……現実世界?の誰が仮想世界を創ったって言うの?」
「俺」
 ああ……。
 内心で嘆いて思わず頭に片手をやる。ある程度は予想していて、でも出来れば聞きたくなかった決定的な一言。結論。この男の語っていることはとんでもない妄言だ。知り合いが口にすれば、叩きのめして目を覚まさせるか、金銭的に余裕があれば病院に連れて行くか、どうしようもなければ見捨てるか、それくらいの。アルテメネの知るどんな馬鹿貴族もここまでのことは言っていなかった。酔って貧民街を歩いていて、身包みすべて剥がされた下級貴族でさえもせいぜい、寒空の中、裸で、将来自分は王になる、としか言わなかったというのに。
「ま、最初から信じてくれるとは思ってないさ」
 最初から、じゃなくて金輪際の間違いでしょ?
 アルテメネの心を読んだような、嘆かわしげな一言を内心で一蹴。そのまま呆れ顔で答えようとしたアルテメネよりも先に、さらに智は言葉を紡いだ。
「じゃあ、どうすれば信じてくれる?」
「……まだそんなこと言うの?何言って言いくるめようとしても、そんな馬鹿馬鹿しいこと私は信じないわよ」
「そりゃそうだよ」
 と、呆れ顔のアルテメネに答えたのは智ではなく朋。背後に壁の感覚を創造してもたれかかっていた彼女は、その「壁」から離れながら続ける。
「でもね。実は君、既に一度、仮想世界同士の壁を越えてるんだよ?」
 ふと、アルテメネの思考が「馬鹿馬鹿しい」の連続から朋の話を聞くほうにスイッチした。
「考えてもみなよ。こんななにもない、だだっ広いところと、君のいたあの場所とが、同じ世界だと思う?おかしいでしょ、絶対」
「……人に知られていないだけかも……」
「冗談言わないの」
 苦し紛れに反論したアルテメネを朋は一蹴。任せた、というように何もせず傍観している智をよそに、軽やかに跳ねながらアルテメネのほうに朋が駆け寄ってくる。
「いい?仮にこの場所が君の過ごしてきた世界の中にある存在だとして、じゃあ一体どこにどうやって存在しているっていうの?重力も無茶苦茶、光もないのにものははっきり見えるし、挙句の果てに、君、自分がここにどうやって入ってきたのか覚えてる?」
「……」
 朋の言わんとしていることはなんとなく分かる。普通に考えれば、この空間のことはまるで、少なくともアルテメネ世界の常識では説明がつかない。それでもあえてここがあの世界のなかのものだと……そう、たとえば未知の空間とかだとするならば、それはもう、智が言っているのと同じくらい突拍子もないことだ。すくなくとも智のいうことを否定する材料にはならない。
「……じゃあ、百年っていうのは?いくら私でも世界の歴史がもっと長いことは知ってるし、貴女、どう見ても百年も生きてるようには見えないけど?」
「ああ、そんなこと?」
 と、答えたのは再び智。朋のほうは、役目は終わったとばかりにもうその辺に座り込んで鼻歌を歌っている。
「簡単だ。現実世界の中で俺が仮想世界を一通り創ってから、しばらくの間仮想世界の時間だけを早くしてみた。べつにそのままでも良かったんだけど、それじゃあ自分の創った、分かりきった世界に飛び込むだけで面白みがないからな。やっぱ、多少の驚きがあるようじゃないと。だから、現実世界の時間ではこの世界が出来てからまだ七年しか経ってない。それと、過去百年より前の歴史については俺のでっち上げだ。世界をつくるのと一緒に全部組み立てて、既存の情報として創り上げた。ま、この世界はそれにしたがって動いてきたわけだから真実であるのは間違いないけどな」
「……でも、普通の人はこんな話聞いても信じたりしないわよ?なのに、どうしてこの世界は存在していられるのよ。貴方が言ったことと、矛盾しない?」
「それは、この話を聞いたから、だろ?人が何かを肯定したり否定したりするのはすくなくともその対象に対する認識があるからだ。そもそも考えたこともない存在は否定のしようもない。もちろん、全ての仮想世界の人間が他の仮想世界の存在を否定すれば、全ての仮想世界の一つ一つにおいてその世界の内からその存在を肯定する意識よりも、外の仮想世界でその存在を否定する意識のほうが大きくなって、結果全ての仮想世界が一瞬で消滅することになりかねないけどな」
 言って、様子を窺うように智は黙ってしまった。黒い前髪の奥で、釣りあがった目がジッとアルテメネを見据えている。
 口にする反論が、全てことごとく返される。突拍子もない、という点を除けば完全に筋が通ってしまっている。これではまるで……、いや、もしかしたら本当に?
「まあ、待てよ」
 混乱して意識が思考の中に閉鎖されかけたアルテメネを見てか、あるいは単にアルテメネが何も言わないので話を進めようということか、智が再び口を開いた。
「とりあえず流れでここまで話したけど、そもそもお前が知りたいのはこんな話じゃないだろ?むしろ、大抵のやつはあの光景が一体なんなのかって事の方が知りたいんじゃないかと思うんだけど?」
 言われて、思い出す。そうだった。突然の話に忘れかけていた。そもそも、最初に自分が聞きたかったのは、あの男は誰で、あの時繰り広げられた光景は一体何事で、ついでに言えば自分の突然手にした力も一体どういうものなのか、と、そういうことだったはずだ。
「……そうね。すっかり忘れてた」
 何をぼんやりしていたのだろう、と、小さく自分にため息。なんというか、どうにもこの二人には遊ばれているような気がしてならない。それは本当のことか、あるいは初対面での印象による錯覚か。
「良いか?さっき言ったとおり、現実世界を除く全ての世界はある情報記憶体の中に保存された情報によって存在を維持している。そしてその中の情報を書き換えられれば、当然ながら世界はその姿を変える」
 どうも、先ほどまでの話は信じた前提で話を進めるつもりらしい。
 それなりに不満はあるものの、自分も件の話を信じつつある手前文句を言う気にもなれず、アルテメネはただ訊く側に回る。
「じゃあ、たとえば一人の人間が意図的に、その情報を書き換えられるとしたら、どうなると思う?もちろん限度はある。たとえば、たった一人の力で世界の仕組を変えてしまうことは出来ないからな。でも、ほんの僅かに世界を書き換える力なら?」
「それが、あれだって言うの?」
「そういうこと」
 考えてみれば、分からない話でもない。「何もない空間」という情報を、「小型の突撃槍」という物の情報に書きかえて、新たに槍を生み出す。「ただの槍」という情報に「確実に対象を貫き通す」という情報を書き加えて全てを貫く槍とする。
「お前自信も実際に力を使っているんだから大体の感覚は分かるだろう?」
 そう尋ねてくる智に無言で頷いて、でもいまいち腑に落ちないからもう一度口を開く。
「でも、どうしてそんな力が私に?しかもある日突然」
「どうしてお前なのか……っていうのには答えられないな。俺達にも判りようが無い。でも、別にある日突然って訳ではないぞ?」
 どういうことか、と眉を潜める。どんなに思い返してみても自分があんな力を使えるようになったのはあの忌まわしい一日の後。それより前には、どんなに思い返してもあんな力の燐片でさえも使ったことはないはずなのに。
「分からないか?思い出してみろ。お前には、一つ、特技があったはずだろう?」
「……声真似?」
 答えてから、どうしてこの男がそれを知っているのだろうといぶかしむ。今まで、この男の前であれを披露したことはないはずだ、というよりもそもそも人前で披露した覚えもない。
心なしか、疑いに目つきが険しくなるアルテメネを気にも留めず、智はなお続ける。
「本来、人間の声帯っていうのは一人一人、少しずつ、でも確実に違っているもんだ。だから、どんなにそっくり真似てみせても完璧な声真似なんて出来るわけが無い。なのに、それができるっていうのはどういうわけだ?」
「……」
 訊かれても、分からないから黙り込む。返事を期待していたのだろうか、智は小さく肩をすくめて見せると、鼻でため息をつく。
「つまり、自分の声帯の変質だよ。声帯の形を変えてしまえれば、当然声真似だって完璧に出来る。つまり、その声真似が出来るようになった時点で、既にお前は無意識に力を使っていたってわけだ」
「……」
 なんということ。呆然と黙り込む。そうだとすれば、物心ついたときから既に、アルテメネはその力を使えたということではないか。あの、得体の知れない、大きな力を。全てを破壊して、忌まわしい記憶の根源を拭い去れるだけの力を。血の赤で全てを支配できる力を。力を……力を……力を…力を、力を。
『他愛もない。力の使い方も知らぬとは』
 突然、あの男の声が頭の中に蘇ってきた。
 力の仕組は、なんとなく分かった。自分が昔からそれを使えたということも。たぶん、世界の仕組みについての話も信じつつある。でも、あの全てを赤に染め上げる力は、あの蒼い男の目の前で何も出来ずに霧と消えたではないか。一切の抵抗も許されず、今目の前にいる男と少女が現れなければ、あの瓦礫に押しつぶされて、きっと自分はここにいなかった。
「でも、あの蒼いマントの奴。アイツに睨まれた途端に私の武器は全部消えちゃったわよ。あれは、どういうこと?」
「ああ、それか」
 智がそう、答えたとき。アルテメネは微妙に、しかし確かに何かがおかしいと思った。気のせいかもしれないが、智の口元が笑っている。まるで、アルテメネがそれを尋ねた事が嬉しくて仕方が無い、というように。密やかに、にんまりと。それはどこか嗜虐的にも思えて、そう、この暗黒の空間に来る前、くすんだ空の中心で朋に遊ばれていたときのような、かすかなおびえが身体の奥から染み出してくる感覚に心が怯えて、震えた。
「順を追って言うとだな。さっきも言ったとおり、世界を書き換える時にはその結果を想像することでその場にない事象を無理やり世界に書き加える。それでも、その時点での平均的な世界の真実をたった一人の力で無理やり書き換えるわけだから、ただ想像して、創り出しただけじゃあその結果はそれなりに不安定なものになる。そんな、存在そのものが不安定な物を同じような力を持った人間の前に持ち出したら、そんなもの、簡単に『そんなものは存在しない』っていう情報に書き換えられて消滅する」
「……じゃあ、もしもあそこで私が、アイツの出したものを『存在しない』って想像したら、あれは消えたって言うの?」
「それは難しいな。こういう力を使う奴はそれなりに昔からいるんだ。それなのに、いつまでも力を不安定なままにしておくわけもない」
 つくづくこの男の語り口は癇に障る、と、なぜというわけでもなく、突然アルテメネは思った。なんというか、得意気に話すその口調が見事に悦に浸っていて、それがどうにも気持ち悪い。
「じゃあ、どうだっていうのよ」
 どうにも話の進みが遅いのに痺れを切らして、半ば苛立った声で急かしても、やはり智の声に変化はない。
「具体的には、自分の中でより想像を強固に出来るようにするんだ。それは痛みであったり、音楽であったり、まあ一番よく使われるのは口上だな。とにかく、自分の中で想像と、それとが強く結びつくものであれば良いんだ。もとの想像が強ければそれだけ完成品の完成度も高くなるし、完成度が高ければ高いほど存在もより確固たるものになる」
『力の使い方も知らぬとは』
 ……なるほど、と納得する。そういうことか。つまり、そういうもろもろを把握しているあの男から見て、一切の手を加えず、ただ創造しただけに過ぎないアルテメネの得物は取るに足らないがらくたで、それを自慢げに振りかざしているアルテメネは哀れ以外の何物でもなかった、と。今更ながら、自分で考えてもそのとおりだと思う。何も知らず、得たばかりの力に得意になって、少し前まで一人でいじけていたくせに急に調子を取り戻して。本当に、滑稽で、馬鹿みたいだ。
 アルテメネは自嘲気味に頬をつり上げて密やかに笑う。やっぱり、自分は凄くもなんともなかった。ただ、とうの昔から持っていた力に今頃になって気づいて、使い方もよくわからずに喜んでいた馬鹿な子供。
「さて、取り合えず今思いつくことはこのくらいだな。なにか聞きたいことは?」
「……」
 尋ねる智にアルテメネは無言。聞きたいことなど、思いつこうはずもない。がらくたに成り下がったと思ったら思ってもみなかった力を手にして、でも、本当はその力でさえまともに使いこなせていなくて、自分はただはしゃいでいただけで。結局自分は本当に強いのか。実は、ものすごく哀れで救いようが無いのではないか。否、でも……。そんなことの間を思考が行ったり来たりして、それどころかもうそういうこと全てがどうでもいいようにさえ思えて。そんな頭で、これ以上聞きたいことなど……。
「あ〜あ、まただ」
 と、それまでその辺をぶらついていた朋が不意に、ため息交じりの、妙に穏やかで、間延びした声で言った。
「ようやく元気になったと思ったらまたそんなに落ち込んじゃって。本当に君って虐め甲斐がありそうでさ、あんまりそんな顔ばっかりしてると僕達の我慢が利かなくなっちゃうよ?」
 その翠色の目に映るのはアルテメネへの同情などではなく、俯いて力のないアルテメネの顔を覗き込みながら、それを楽しむかのような意地悪な笑み。どうしたことか、最初に見たときは心の底からわきあがる恐怖に震えたというのに、今はその、どこまでも悦びに満ちた顔に恐怖と同時に生気も身体に戻ってくるようで、身体に活気が戻ってくるような気がした。
「実はさ」
 と、それを見て取ったような調子で朋が、上げたアルテメネの顔をすぐ目の前で真正面から見つめて打ち明けた。
「君の決意次第では、現実世界にいけるかもしれないっていう話があるんだけど、聞きたい?」