3-1

 この身、持ち得たものは無く
 無の中にただ、独り漂う
 夜風に吹かれ、夜闇を見上げ
 なお望む光はあらんや
 星も見えぬこの街で
 伸ばす手は何をか掴まん


Act3

少女は、道端に座り込んでいた。壁に背を預け、空を見上げていた。街を舞う塵を受け、風に靡いて乱れたその銀髪は当然、地面の上に無造作に広がり、その上を夜風に吹かれた紙くずが転がっていく。投げ出された手も脚も微動だにせず、ぼんやりと表情のない顔をつめたい風が撫でていく。
「お前に一体何がある?……何もないだろ?……何も……」
 途絶えることなく、つぶやくように、溢れるように、流れ出すように、少女の口から紡ぎ出されるのはあの男の声、言葉。まるで自身を罵るかのように、しかし一方ではそれに抗おうとするかのように、弱弱しくも確かな声でただひたすらにつぶやき続ける。
「何も、無いだろ……何も……無い。何が……ある……ない」
 声色はかの男のもののままに、明らかに小さく、萎んでいく。そよ風一つで掻き消えてしまいそうなその声。それが、まるで彼女をつつむベールのように夜の空気に漂い、浮かんでいる、そんな雰囲気。
 真に眠ることを知らぬこの街において、夜だからと言って人通りが皆無になるなどということはありえず、しかしその中でも彼女に声をかけようとするものなど居ない。皆それぞれ、口々に語らい、道端のゴミなど、知らぬふりどころか端から見向きもしない。
 そう。自分には何もなかったのだ。力も、物も、覚悟も、何もかも。唯一つ、と振りかざし続けた誇りでさえも自ら投売り、踏みにじられ、それでも何も言えなかった。所詮、その程度なのだ、自分など。
 なのに
 と、彼女は思う。
 なのにどうして、ならばどうして、自分はまだこうして生きているのだろう、と。何も持っていないのならば失うものなどあろうはずもなく。それなのに、どうしてまだ自分は生きているのだろう、と。どうして、あえて苦しみ続けるのだろう、と。
 そして、すぐさま自答する。
 わかっている。そうする覚悟すらも、自分には無いのだ。苦しみから逃れようとする覚悟すらなく、見苦しく、惨めに、ただなされるがままにあり続ける。目も当てられない、哀れな自分。救いなど無い、理不尽な世界。
 そう、理不尽なのだ。そもそも最初から自分に非など無いというのに、どうしてこうまで苦しまなければならない。どうしてここまでさげすまれなければならない。どうして、昼間の少女のように、綺麗なドレスを身に纏い、笑い続ける者がいる横で、自分はここまで惨めに生きなければならない。理不尽だ、理不尽だ。
「理不尽……理不尽」
 男のものであった声が、ゆっくりと本来の少女のそれに戻る。
 すっかり暗闇に慣れてしまった目で少女は立ち上がり、服の裾、髪の先、まとわり着く塵、埃を払おうともせずにぼんやりと歩き出す。
 そういえば、昼間の少女はどんなドレスを着ていただろう。確か、色は黒。裾の長さは踝のさらに先まで。ワイヤーでも入っていたのだろうか、柔らかくスカートは広がり、肩、胸、それに裾の方、ところどころに白いレースのアクセント。たしか、そんな服だ。
 思い出して、ふと考える。
 あの色ならば、自分の方が似合うのではあるまいか。
 ……そう、きっとそうに違いない。あの黒には、きっとあんな茶髪よりも、自分の輝くような銀髪のほうが似合うはず。容姿そのものも、小奇麗に仕立てれば自分の方がいいに決まっている。そう、そう……そう。
 歩みが、止まる。
 なのに、世界はそれを許さない。自分があの立場にいることを許さない。自分があれを身に纏うことを許さない。自分が苦役から解放されることを許さない。何も、許さない。
 憎い。
 それが、どこまでも憎い。自分を売り物にしていた男よりも、工場のオーナーよりも、自分を追い回した黒尾組の男よりも、自分を汚した野盗よりも、なによりも、この世界が、現実が、憎い、憎い、憎い。
 そして、思った。
 世界が動こうとしないならば、動かしてしまえ。
 憎悪に任せて、従えてしまえばいい。大丈夫、自分には出来る。
 ――思う力は異常に強く
 疑うことなど無い。信じればいい。
 ――疑念のよぎる余地など微塵もなく。
 憎いこの世界は、今、私の手の中にある。
 ――憎しみ、恨み、何もかもを一纏めに、何一つとして疑わず、少女は……
 アルテメネは、念じた。
 さあ、理不尽で、崩れていて、救いようの無い哀れな世界。私の下へ下りなさい!
 そして、手始めに、瞼を閉じて想像する。
 黒い、それ。触れる感触は薄布の肌触り。だれよりも、どんなものよりもこの自分に似合う、綺麗な、綺麗なドレス。重さを、形を、色を、質を、匂いを。全てを想像して、描き出し……。
「……」
 瞼を、開く。確かめるまでも無い。重さも、形も、色も、質も、微かに漂う匂いでさえも。わかっている。いま、自分の手中には、紛れもなく、あの、あのドレスがある。
 そして、それはまさに今、紛れもなく彼女の手中に創造された。