「どうぞ。心が落ち着きます」
 廊下の、真っ赤に染まってしまった壁紙とは対照的に、未だに壁面の純白を保っている居間の中。丁寧に差し出された紅茶のカップを両手で受け取ると、少年、カイは緊張した面持ちでソファーに腰掛けた。
 すぐ横では、カップから立ち上る湯気を忌々しげに睨みながらその香りを楽しんでいるロベリオ。正面では瞼を閉じ、ゆったりとした動きでカップを口元に運ぶリーラ。思い思いのなりで腰掛けている三人の姿は、端から見ればなかなか滑稽なものだっただろう。
「……飲まないのですか?」
 不意に、自分のカップをテーブルに置いて、ようやく瞼を開いたリーラがつぶやくように尋ねた。その正面で、なににあわてる必要があるのか、そそっかしい動作で居住まいを正してカップを手に取るカイ。ロベリオの見立てからいけば明らかにリーラより二歳は年上の、少年。ロベリオが噴出しそうになったのを飲み込み、鼻で笑うと、彼ははっと我に返ったように一瞬動作を止め、かすかに赤くなってカップを置いた。
 紅茶の香りのおかげだろうか。不思議なほどに、あの赤の世界にあてられてしまっていたカイの心は落ち着きを取り戻し、それどころかどこか緩みすぎの感すらあった。
「で、質問なんだが」
 唐突に切り出したのはやはりロベリオ。ようやく冷めてきた紅茶を一口だけ飲んで机に戻すと、リーラのほうに半身をのりだして言う。
「なんでこいつがここにいるんだ?」
 立てて、横にむけた親指の先にはどこか縮こまった様子のカイ。
「なんで……とは、どういう意味ですか?」
「どうもこうもないだろ」
 カップを口元に目を閉じ、落ち着き払って尋ねるリーラに大袈裟なため息をついて答える。
「こいつは紛れもなく、どこにでもいるただのガキだ。何か力があるわけでも、後々有効になるわけでもない。こんなもんいつまでも持っといたって、邪魔な石ころ抱え込むようなもんだろ」
「……ずいぶんな言いようですね」
 ロベリオの言葉に合わせてどんどん縮こまっていくカイを横目に見ながら、たしなめるようにいう。「事実だろ」とでも言おうとしたのか、再び口を開いたロベリオが余計なことを言わぬように、それに先んじてリーラが口を開いて、
「私は、彼にもついてきてもらおうと思うのです」
 何食わぬ顔で言った。
 しばしの沈黙。同じようにキョトンとしている男二人を前に、ため息混じりにリーラは続けた。
「彼にはあの惨状を既に見られてしまっています。その時点でただで帰すわけには行きません。そうでしょう?」
「だから、何でさっさと始末つけちまわないんだって……」
 始末、と聞いて先ほどの光景を自らに重ねたのだろう。カイの表情が一気に恐怖に固まる。だがロベリオの声はそこで止まった。
「あなたは……」
 静かに、しかし圧倒的な存在感を持った声でリーラが言う。
「あなたは、まるで無抵抗の少年を客人に殺させる、そんな主人に私をするつもりですか?」
「……待て。分かったから、待て」
 フフフと脅迫以外の何物でもない笑みを顔中に浮かべるリーラを前に、いくらかロベリオが後ろにのけぞる。カイがふっと横目でそれを見やると、なにやら黒い、鼠のようなものが数匹、ロベリオの脚にしがみついていた。
「まあ、いいでしょう」
 笑みを解いて、瞼を閉じて、しかし声はまだいくらか冷たいままにそういうと、まっすぐに立てた人差し指をくるくると幾度か回す。赤い絨毯の上を黒い『鼠』が走っていく様はどこか不気味で、カイは必死に見ないふりをした。
 と、気を取り直すようにリーラがカップを再び手にとって、どこか明るくなった声で言った。
「確かに無茶は承知ですよ?でも、一人くらい雑用係が居ても構わないでしょう」
「お前……いや、いいよ。勝手にしてくれ」
 文句を言おうとして、すぐさま注がれるリーラの視線にそれを諦めさせられる。
 自棄混じりに紅茶を飲み干したかと思うとさっさと部屋から退散するロベリオを見送って、リーラはすっかり蚊帳の外に置かれていたカイの方に向き直った。
「そういうわけなので、よろしくお願いしますね?」
「え……あ、うん」
 突然話しかけられて、しどろもどろになりながら答える。
 いつの間にか自分の身の振り方を勝手に決められていることに気がついたのは、にっこりと笑ったリーラが部屋を出て行った後でのことだった。