〜9〜 ①

「ほらあ、遅いわよ!」
「すみません!」
 朝早く。珍しくさっさと準備を整えたチェロにせかされてマークが叫んだ。目の前には図書館保有の任務用4WD。運転席にはチェロが座って窓から顔をのぞかせ、後部座席にはミンレイとシーナが座っている。
「すみません、待たせち……」
「遅い!」
 マークが謝罪の言葉を口にし終えるよりも先に、後ろからシーナの右手が飛んできてマークを叩く。きれいに旋毛に決まった拳骨に、マークは頭を抱えながらシートに座った。
「お前……!いくらなんでも痛いだろうが!」
「女の子は忙しい、って言わなかったっけ?」
「この場合それは関係ないだろ」
「うるさい」
 冷静に言い返したマークめがけて再び拳骨が襲い掛かる。
「女の子を待たせたということ自体が男には許されざる罪なの!」
 ダメだ。
 これは完全にシーナのペース。こうなったら何を言ってもシーナのいいように解釈され、彼女を一層有利にするだけ。それをマークは嫌というほど知っていた。
「はいはい。痴話喧嘩は任務が終わってからにして頂戴」
 マークが黙り込んだ拍子にチェロが口を挟む。
 彼女がギアレバーに手を伸ばすのを見たマークがあわててシートベルトを締めた直後、一般車がやれば確実に法に引っかかるであろうスピードで、4人を乗せた紫色の4WDは発進した。

 今回の任務は前もって決まっていたものではない。突発性の緊急通報、出動指令によるものだ。
 旧キルド地区、ジリ。大陸の北西に位置していた中堅国家であったキルドは、パーンと国境こそ交えていなかったがそのかわり広い海岸線を持っており、そのために海からの多大な被害を受けた旧連合国家のひとつである。北の海岸線を底辺とするいびつな三角形を描くその国境の内側には沿岸部の漁村からの品物を売りさばく市場やそれをとりまく商店が立ち並んでいたが、他の西側地域の例に漏れることなく、ここでもまた今はその光景をうかがうことさえ難しくなっていた。
 今回の目的地は、そのギルドの南端の都市、ジリにある政府直属の地方統括庁。そこに武装した複数の市民が殴りこんだというのだ。無茶をするものだとは思うが、極端な物不足に陥っている西側地域において政府の役所は砂漠のオアシスのようなもの。必要なもの、すなわち武器さえ集まれば、今回のような事件は十分に起こりうるのだ。
「それにしても半獣を二体もあてるなんて、そんなに今回の事件の規模って大きいんですか?」
 酷くゆれる車の中、なんとか手すりにつかまり、舌をかまないようにして喋る。もともとチェロはリーダーの中で一番運転が荒いことで有名なのだ。それが緊急出動で出たとあってはどうなるかは誰にでも予想がつく。現に彼女がカーブをきるたびに周りの車のドライバーは、なんとか事故にだけは巻き込まれまいとそれぞれの愛車を駆って逃げ惑っていた。
「そんなことはありません」
 チェロに喋りながら運転させるのは危険、と判断したのであろう。彼女に代わってマークの後ろからミンレイが答える。
「その気になれば私一人でもなんとかできる。それでも今回半獣二人があてられたのは、マーク、あなたへの配慮です」
「俺?」
 どういうことだ。
 眉をひそめて考える。
 まさか研修期間は終了したが、まだ一人で任務に当てるのは不安であるとでも思われたのだろうか。もちろん任務遂行における腕で言えばまだまだ他のリーダーには及ばないかもしれないが、これでもマークは自分なりにそこそこの腕にはなったものと判断しているのだ。
 眉根にしわを寄せたままで「どういう意味だ」と尋ねたマークの不機嫌を悟ったのか、なだめるような口調でミンレイが言う。
「ご心配なく。あなたの腕を軽んじての判断ではありません。」
 横で、「案外それもあるかも」とつぶやいたシーナにかまわず彼女は続ける。
「今回の目的地はあなた達の故郷のすぐそばでしょう?それに気付いたミンがメディスさんに、あなたをこの任務に同行させるようにと進言したのです」
 確かに、キルド南部とネスターバ北部は国境をはさんで接しているので、当然ジリとマーク、シーナの故郷との距離はそれなりに近いことになる。実際その気になれば人の足でも半日かければ丁度マークの家のまえ辺りからジリまでたどり着くことが出来る。
「何で?大体それだったら俺とシーナだけで……」
 知らずの内に語気を荒げるマークを制止し、答える。
「あなたは本当に突然に故郷を飛び出したでしょう。せめて親族や近しい友人には別れを告げるべきという判断です。この先は会えないかもしれないからこそ」
 反論しようとしたマークを最後の一言で黙らせて続けた。
「そしてなぜあなたたちだけではないか、ということですが……」
 そこでミンレイは一度言葉を区切り、シーナのほうへ目をやった。淡々と語る口調とは裏腹にその瞳にはかすかな戸惑いが見て取れたが、あくまでなんでもないふうを装い、窓の外を眺めているシーナをみると軽く息をついて再び口を開いた。
「シーナはすでに半獣として近隣の住民に顔を知られている以上、あなたたちの故郷に連れて行くわけにはいきません。が、かといって一人にするわけにもいかない。あなた達だけでいけばどうしても彼女を連れて行くか、一人にするしかないでしょう。そのためにあなたたちは私たちの任務に補佐という形で同行することになった、というわけです。リーダーが不在で任務につけない半獣を本部に残しておくくらいならば、リーダーに同行させて任務を手伝わせたほうがいいですしね。」
「……そうかい」
 わざとらしくため息をついて答えると、シートの背もたれに身を預ける。
 シーナは連れて行けない。
 当たり前のことだ。もうあそこに住まうもの達にとってシーナはシーナ・チェルスタインという名の少女ではなく、十数人の男とレイソンを殺した化物でしかないのだから。そして、シーナはとっくに政府の手によって処分されているはずなのだから。
 わかりきったこと。それでも、時折襲い来る胸の痛みにマークはまだ慣れられずにいた。
「ほら!男がしみったれた顔してるんじゃないわよ!」
 突然。
 密かにため息をついたマークをみて急ハンドルを切るチェロ。
 車の中に三人分の悲鳴が響いた。