〜8〜

〜8〜

 俺の名前はシーマ・ガリウス。国立図書館の表の顔。純粋な図書館の司書をしている十五歳。黒でもなければ赤毛でもない。こげ茶の髪を実は気に入っている。
 いまさらかもしれないが、本当はこんな退屈な仕事はやりたくない。本当は作戦部のほうにまわりたいし、機会さえあればリーダーになって自分の半獣を持ってみたいとも思っている。
 そんな俺だが、いまちょっと訳の分からないことになっている。なぜか本棚から崩れ落ちた本の山。それに埋もれる俺の上には、長い髪を結い上げた女の子。注がれる好奇の視線を気にも留めずに、「いたた……」などといいながらいつまでも人の上に座り込んでいる。
 なんでこんなことになっているのか、とりあえず今朝のところまで話を戻してみよう。
………
…………
……
「あ〜あ、眠い……」
 開館前。世界中でもトップクラスの広さを誇る空間に規則正しく並べられた本棚の間。赤い絨毯の上にただ一人だけ、腕一杯の本を抱えたシーマがいた。
「ベルさ〜ん。本の並べなおしなんて開館してからでもいいじゃないですか〜」
「うるさい。お前が昨日のうちにやらなかったからこうなってるんだ。文句たれてる暇があったらさっさとやれ」
 大声で不平を言うと、同じくどこかの本棚の間にいるはずの先輩司書の容赦ない声が返ってくる。シーマが図書館に来た時から司書をしているベルは、平職員の中ではもっともシーマと親密な関係にありながら、同時に時として誰よりも彼に厳しくあたっていた。単純に仕事における厳しさという点で見ればメディスと肩を並べたかもしれないが、メディスと同じ土俵で仕事をすることの無いシーマにとっては唯一恐れるべき相手とも言えた。
 確かにこんな羽目になった原因はシーマにあるのだ。
 本当はその日のうちに済ませなければならない本の棚戻し。カウンターにたまった本をあるべき棚に戻す作業。実際いつもであればちゃんと夕食までに全て済ませて、あまつさえ翌朝まで持ち越すなどということは無かった。
 だが、昨日だけは違っていた。
 昼下がりの一瞬、普段は来館者のことなど気にも留めないくせになんとなく周りを見渡したその時。視線の先に一人、はっきりとしたものではなかったがどこか異質な雰囲気を放つ少女の姿があった。本棚の間でなにやら分厚い本を抱え、じっと読みふけっている、少女と呼ぶにもためらいを覚えるような女の子。歳の程は十一か十二といったところだろうか。だが手にしている本は街中で聞いても知らない者のほうが多いようなかなりコアな古典文学。彼女のような女の子が好き好んで読むとは思いがたい。
 声をかけようかどうしようか。悩んでいるうちにも時は過ぎていき、彼女がその本を棚に戻した時には既に閉館時刻を迎えていたのだ。
 で、結果がこの有様。閉館後にもブックポストに本を返しに来る人はいる。その全てに返却手続きを済ませ、それもまたあるべき棚に戻す。これは開館前の日課だ。それに昨日片付け切れなかった分が重なり、結果シーマは図書館一早起きであるアスティと同じ時刻、まだ東の空が紅色に染まっているような時間からおきて、眠気をこらえながら棚戻しをする羽目になったのだ。
「あーあ、やってらんねえ」
 ため息混じりにもらすと、脚立の前に立って、腕に抱えた本はそのままに器用に登っていく。なれゆえになせる業。ここの司書であれば皆できる芸当であるが、並みの素人が真似をすれば脚を踏み外して手にしていた本の下敷きになってしまう。
 朝食まであとどれだけあるのだろうか。どんなに長引いても朝食には間に合わせないと、一日中エネルギー不足で過ごさなければならない。ただでさえ静かな図書館のカウンターに座って睡魔と闘うのはなかなかやっかいなものなのだ。まして空腹でそれに挑めば結果は明白。明日の今頃には今以上に大量の本をあちらへこちらへと本棚の間を走り回る羽目になっているに違いない。
「えーっとこれは……」
 ぶつぶつとつぶやきながら上下左右、背表紙に目を走らせてその一箇所に手にしていた本を押し込む。深緑色の革表紙に金字で書かれた作品名。最近巷で流行りの小説だ。もっともその内容はなかなかにダークな恋愛小説。シーマの趣味ではない。
 そもそも、シーマは読書家ではなかった。かれこれ10年近く図書館司書をしているというのに、いまだかつて一度も自ら進んで本を読もうなどと思ったことがない。それでも少しは内容を覚えている本があるのはミンが時々「読みなさい」と押し付けてくるからだろう。仮にも命の恩人のようなものである以上断るのは気が引けるし、何よりザイルがいる。なんせ鼻、耳が働くので、下手に読書を怠ければすぐにミンの耳に入る。ああ見えて説教中のミンは恐ろしいのだ。
「おーい。がんばってる?」
 ふと下から呼びかけられて、首だけで振り向く。まだ腕の中のほんの山は喉の高さにとどくほどで、下手に上体のバランスを崩しただけで脚立から転がり落ちてしまう。それは御免被るので本棚に体重を預け、前のめりになりながら声の主に答えた。
「見ての通りだよ。にしてもお前は朝早いな」
「当たり前でしょ?昔からマークより早く準備済ませて、あいつが食事してる最中に迎えに行くのが日課なんだから」
 そういって得意気に鼻で笑うシーナ。
 三日前、帰ってきたシーナを見たときに、予想をはるかにうわまわる速さで回復した彼女の記憶のことよりも、その極端な性格の変化にシーマは驚いた。覚醒後、記憶をなくしている間の半獣の性格が変わるというのは知っていたが、ここまでとは知らなかったのだ。
「あ、そういえばさあ」
 赤い表紙の小さな本を本棚に押し込みながら言う。
「昨日は一度も見かけなかったんだけど、あのあとマークの調子はどうだ?」
 任務から帰ったマークの顔はそれはひどいものだった。何があったのかは知らないが、よほどのことだったのだろう。シーナとの会話も程ほどに、夕食すらろくに口にしないまま部屋にこもってしまった。
「ん〜。たぶん大丈夫だと思う。マークって結構立ち直り早いし。割り切るのが得意、なのかな?」
「そりゃよかった」
 肩をすくめる代わりに首をかしげて言う。
 確かに、前の夜にはほとんど口をきくことも無く部屋にこもってしまったのに比べれば、翌日の昼にシーナに引っぱられて廊下を歩いていたマークはもう随分回復しているように見えた。まだ口数は少なくはあったが、沈んでいた表情は確かに戻りつつあった。
 やはりシーナのせいなのだろうか。
 ふと、そう考える。
 シーナが図書館に来てはじめて目覚めた時のマークの沈みようは、まだ何があったのかを耳に入れていないシーマにすらはっきりとわかるほどのものだった。死人のよう、とまでは行かないにしても、どこか心が別のところをさまよっているかのような。はじめてあった時のマークの笑顔はそんな印象だった。それこそ、並べてみれば任務から帰ってきたときの沈みようなど気にならないほどの虚脱。
 つまるところ、何があったにしろ今回の任務での事件がマークの心に与えた衝撃は、シーナの記憶喪失に比べればとるに足らないものだったということだろう。そうであるならば、今のシーナがそばにいてさえやればマークの心から今回の『事件』のことは消えて失せる。そうして人の頭の中からは、暗い記憶、悲しみの記憶、忘れたいと願うような記憶が片端から風化していくのだ。
「あれ?そういえばシーマはこの間の任務で何があったか知ってるんだっけ?」
 ふと確かめてくるシーナに、最後の本を本棚に戻し、脚立を下りながら答える。
「いや?特に聞いてもいないけど。気にもならないしさ」
 ミンは、その『事件』の詳細をシーマに教えには来なかった。ということは、「知らなくてもよいもの」と彼女が判断したということ。
 こういうとき、シーマはそれ以上の追究はしないことにしていた。そこに知る必要性が無く、それが誰かが酷く沈み込むような内容であるならば、自ら好き好んでそれを聞きにいく必要もあるまい。シーマに自虐の趣味はない。
「あら、もうこんな時間だ」
 ふと壁の時計を見上げてシーナが言う。
「こんなって……まだ朝食まで一時間はあるぞ?」
 念のため自分も時計を確認しながらシーマが言うと、どこか得意気な返事が返ってきた。
「そうじゃなくって……。あと十分もしたらマークが起きちゃうの。それまでにあいつの部屋に忍び込んで驚かせてやろうと思って。それじゃあね」
 たったと軽快な足音と共に、ベルの咎めるような視線を気にとめもせずに走り去っていくシーナの背中を見送る。細い足で彼女が走る様はなかなか見ごたえのあるもので、風になびくショートの金髪はさながら彼女自身が輝いているかに見せた。
「……あれで性格がこないだまでのシーナだったらなあ」
「おい」
 ぼんやりと口にしたシーマの背後から、ベルの低い声がかかる。はっとして振り返ると、彼の腕には先程までシーマが持っていたのと同じくらいの本の山があった。
「あとこれだけ、締めて75冊。ちゃんと朝食までに片付けろよ?」
「え……」
 余談ではあるが、返却されたものである以上、この山の中の本はジャンルも何も無茶苦茶だ。もし並べなおす暇があればその間に本棚の中に戻されている。四階まである本棚の中からあるべき場所を探し、75冊すべてを本棚に戻す。普通にやれば、一時間は裕にかかる作業だ。そして、この作業を朝食までに終えなければ、今日の仕事はそうとうつらいものになりかねない。
「鬼め」
「自業自得だろうが」
 冷たく言い放ってその場を去るベルの背中を目で追いながら、シーマは一つ大きなため息をついた。
………
…………
……
「……」
「おい」
「……」
「……寝るな!」
 図書館のカウンター。首で船をこいでいたシーマは、突然声をかけられ、あわてて顔を上げた。
「ベルさん?」
 真っ先に頭に浮かんだ名前を呼び、後ろを振り向いて、彼がそこにいるわけが無いことを思い出す。今日は新刊搬入の都合でベルは一日中表には出てこないはずだ。たしかぎりぎりで間に合った朝食の席でそう言っていた。
 ……気のせいか?
 寝不足ということもある。案外、ただの空耳だったのかもしれない。
 そう思い直してもう一度カウンターの上に突っ伏そうとしたシーマの頭。お世辞にも軽快とは言いがたい音を立て、それは本の角で殴られた。
「〜っ!誰だ!」
 声にならない悲鳴の後で、思わず怒鳴る。いっせいに周囲から集まる非難の視線に身をかがめて顔を上げる。と、目の前に本―深緑の革表紙に金字が彫られた―を抱え、信じられないといった様子でシーマを見つめる女の子がいた。
 カウンターにほとんど突っ伏したシーマの目線より少し高い背の丈は恐らく140センチ前後。長い黒髪を頭の後ろでまとめたその姿、半分とじたような瞼とその奥に見える瞳、じっと見つめれば吸い込まれそうな錯覚を覚えるそれが放つ独特の雰囲気にシーマは見覚えがあった。
「あれ?昨日の……」
「昨日の敵は今日も敵」
 訳の分からない返事に首をかしげながらシーマが起き上がると、彼女は感情のこもらない、それでいてどこか非難しているようにも感じられる目で言った。
「仮にも国立図書館の司書が、利用者を目の前にカウンターで居眠り?」
「え、あ、いや……」
「職務怠慢もいいところね。仮にも公務員だっていうことを忘れたの?」
 シーマに返事の仕様が無いのをいいことに、彼女は淡々と続ける。
「いつまでボーっとしてるの?女の子にこんなに重い本をずっと持たせておくつもり?」
 言われて差し出された本をあわてて受け取り、管理用の読み取り端末にかざす。間違いない。それは明朝シーマが棚に戻した、あの恋愛小説だった。
「お前、こんな本読むのか?その歳で」
「あなたに私の趣味をとやかく言われる筋合いはございません」
 尋ねながらシーマが差し出した本を奪い取るように受け取ると、つんと言ってのけて踵を返す。
 なんだ、変な奴。
 そう思ってそのまま読書スペースへと向かう彼女の背中を目で追っていたシーマの頭を、突然ある邪念がよぎった。
 丁度手元にたまっていた返却済み資料の山を抱え、そばにいたほかの司書にその場を任せて席を立つ。目標は30メートル前方を行く女の子。彼女が椅子を引いて席につき、本を広げたのを確認すると、そのすぐ後ろの本棚の前までシーマも行き、彼女のすぐ後ろまで脚立を引いてくる。
「意味の理解できないものを無理して読んでも身にならないぞ?」
 まずは軽く先制攻撃。彼女に背を向け、手にした本のあるべき場所を探すふりをしながら、できるだけ厭味ったらしく聞こえるように言ってやる。背後で彼女が振り返ったのを感じた。
「なんであんたがついてきてるのよ?」
「図書館の職員が図書館の中を歩いて何が悪い?」
「そうじゃなくて。なんで私の……」
「自意識過剰」
「……」
 生意気な子供はからかいがいがある。口だけは立派でもこちらからみればただの子供。むきになって噛み付いてくるのを受け流して笑ってやるのはなかなか面白い遊びだ。シーマはそう考えている。もちろん悪趣味であることは否定しないし、ミンが起こるので最近はやっていなかったのだが。久々に格好のターゲットが現れたのだ。逃す手はない。
 うんざりしたようにため息をつき、席を隣のテーブルへと移す彼女。目の端でそれを確認すると、シーマも「あ、あった」とつぶやき、脚立と共にそれを追う。
「……」
「……」
 無言の空気が流れる。だが、シーマは確かに感じていた。すぐ後ろにいる彼女が明らかにいらだっているのを。そうなんどもちらちらとみられたのでは、たとえ振り向かなくとも雰囲気でわかるというものだ。
 さあ、どうでる?
 次はどんな反応が返ってくるのか。浅はかな興奮を楽しみながら脚立を降りる。そして女の子の背後に立ったマースが口を開きかけたその時。それを押しとどめて彼女が口を開いた。
「あなた、馬鹿?」
 振り向きもせず、あっさりとそういう。言葉の対象をまるで相手にしない、真の意味で話し相手を馬鹿にしたその口調にシーマは一瞬面食らった。だが、立った一言で言い負けるシーマではない。
 言葉に詰まりそうになるのをこらえ、平静を装うと言った。
「他人に馬鹿って言った奴こそが馬鹿っていうの、知ってるか?」
 さあ、噛み付いて来い。むきになって振り返れ!
 だが、彼女の反応はシーマの意に反して穏やかだった。
 小さく肩をすくめて本のページをめくる。年齢に似合わないその態度にシーマが胸の内で舌を打つと、彼女は相変わらずの口調で言った。
「怒らない、って言うことは馬鹿なのね」
「……」
 なに?
 シーマが黙っていると、彼女はさらに続ける。
「馬鹿といわれて怒らなかった場合、それは自分が馬鹿であると認識している馬鹿か、怒るという人間の基本感情を忘れた哀れな馬鹿のどちらか。そうでしょ?」
「……戯言を」
 苛立つ心を抑え、せめてもの余裕とばかりに鼻で笑ってみせる。だが、彼女はそれを見透かしてか、その一言を無視してなお続けた。
「ついでに言えばね。馬鹿と言われて怒ったという事は、それは自分が馬鹿であるということも理解できない大馬鹿者か、馬鹿でないかがゆえにいいように相手に手玉に取られる馬鹿かのどちらか。つまり、さっきの質問になんらかの意味のある返答をした時点で馬鹿ってことになるのよ。……ああ、答えなかったときはコミュニケーションのとれない馬鹿っていう見方ができるかしら」
 そういってクスクスと笑う。
 返す言葉もなければ、これ以上笑って流すだけの心の余裕もない。
 シーマの中で何かが切れた。
「……言ってくれるじゃねえか。このガキ」
 抱えていた本の山を机の上におき、肩を鳴らして言う。それをみた彼女もため息混じりに本を閉じ、それを机の上におくと立ち上がって言った。
「やる気? 大人気ない」
「知るか」
 頬を吊り上げて言うと、グッと拳を握る。目の前にあるのは小さな女の子の背中。肩を掴んで振り向かせ、その瞬間に寸止めでも入れて脅かしてやればいいだろう。
 一瞬。右手の拳に添えていた左手を伸ばし、彼女の肩を掴もうとしたその瞬間。思わずシーマは息をのんだ。
「な!」
 かわされた!?
 あまりに予想外の事態。前方斜め右にはシーマの手をやすやすと避け、憎たらしい微笑を浮かべて平手を振りかぶる女の子。
「この……!」
 もはや体裁もなにもあったものではない。というよりもこんな上体で平手打ちを喰らわせられたらそれこそ格好もなにもあったものではない。
 思いっきり体を沈めて振り下ろされた手を避け、その手首を掴もうと右手を伸ばす。
 捕まえた!
 たしかに握ったその細い手首。知らずのうちにほくそ笑んでその腕を引っぱり、左手は拳を握る。突然のことにバランスもろくに取れていない女の子の顔めがけ、引き絞った拳を繰り出そうとした。
 その瞬間だった。
「なぁ!」
 開き直ったのか、それまでシーマの手を何とか振りほどこうとしていた女の子が突然強く地面を蹴ったかと思うと、シーマの体めがけて突っ込んできた。
 たまらないのはシーマの方だ。抵抗する彼女を無理やり引っぱっていたところに突然張り合う力がなくなり、見事によろめいて倒れ、後ろの本棚に肩をぶつける。
 脚はもつれ、連なるようにしてシーマの上に女の子もまた倒れ、本棚からは何冊かの本が二人の上に降り注ぐ。
「……っ!」
 本の角が頭に直撃してシーマは思わず首をすくめ、そんな彼の上で女の子は体を縮こまらせながら「イテテ……」と肘を押さえている。
 図書館にあるまじき騒音の現況にむけられる好奇、批判のまなざし。
 その時、一つの怒声が響き渡った。
「ウルセエエエエ!」
 女の子のものでもシーマのものでもないその声に、それまでも迷惑そうにシーマたちのほうをみていた来館者たちがざわめき、あるものは様子を見ようと立ち上がり、あるものはほとんど睨みつけるような視線を置き土産に上の階へと上っていく。
「うるさいんだよ、さっきから!ガキの分際で!」
 目を見開き、唾を飛ばしてまくし立てる。
 あんたの方がよっぽどうるさいだろ。
 そう思いはしても口にはしない。仮にもシーマは図書館の司書だ。まさか司書が図書館の中で堂々と喧嘩するわけにもいかないし、男の言い分にも一理ある。なにより、うるさい利用者をなだめるのも司書の仕事のうちだ。
「申し訳ありませんでした」
 すっと一歩前に出ると、すばやくその顔にできるだけ申し訳なさそうに見えるであろう表情を貼り付ける。随分前に慣れたことだ。うるさい奴にはできるだけ腰を低くしてなだめ、黙らせる。大抵の人間はそれでおとなしくなる。
 だが、そのときは違っていた。
「ですがここにはほかの方も……」
 頭に刷り込まれている台詞を多少の演技と共に口にしていたその時。小さな掌がシーマの前にかざされて、彼の言葉が詰まった。
「おい、お前……」
「あなた、馬鹿じゃないの?」
 戸惑うシーマをよそに女の子は男に向かって言った。
「そりゃあ私たちは少しばかりうるさかったかもしれないけど、あなたの方がよっぽどうるさいじゃない。そんなこともわからないだなんて、よっぽどのお馬鹿さんなのね」
 そういうと、小ばかにしたようにふふっと笑ってみせる。
 似合わない。
 傍で見ていたシーマが心からそう思ったのもつかの間、大きく開かれて時折キョロキョロと動く目で女の子を見ていた男が叫んだ。
「馬鹿だぁ!?」
 半ば裏返った声で言い、横に広げた手を何度も、大袈裟に揺らしながら叫ぶ。
「俺が馬鹿!?なめるのもいい加減にしろよ、このクソガキ!」
「馬鹿って言われて怒った……。」
 一言発するたびに怒気を増す男の声。周りに見える人の姿は目に見えて減っていき、シーマでさえもともすれば後ずさりそうになる気迫の前にして、なお彼女の口調は変わる事がない。
「まああなたの場合、『自分が馬鹿であるということも理解できない大馬鹿者』の方でしょうね。本当、相手にしてられない」
 男の顔をまっすぐに見上げたままで、最後のおまけとばかりに「お馬鹿さん」と微笑む。
 その瞬間。目の前で男の顔を見ていたシーマは確信した。
 キレた。
 男の顔が無表情になったかと思うと、見開いた目はそのままに、首を左右に振りながら男が数歩後ずさる。
「なるほど……」
 図書館中に響き渡るほどの怒声とはうってかわって、妙に落ち着いた声でつぶやき、その手をポケットに突っ込む。
 その中で男が何かを握った。
 ポケットが大きく膨らんだのをみてシーマがそう確信し、僅かに腰を落として身構えたその時、男が叫んだ。
「なめんじゃねえって言ったろ、このガキが!」
 同時。ポケットの布を突き破って振り出される、光を受けて輝くそれ。小さな包丁といっても通るであろうサイズのサバイバルナイフ。当然ながら図書館に持ち込まれるべきものではないし、そもそも今のキューブにおいてこの手のものは所持しているだけでも罪に問われる。
 狂気をまとった凶器はまっすぐに女の子の体を目指して進む。一足飛びに近づいてくる男の体と、突き出される腕の動きがあいまって、その速さは刃の形状を正確に見させることも許さない。
 ナイフの目指す先に立つ女の子は、逃げるどころかナイフのほうを見もしない。まるでそこにあるナイフの存在を否定するかのように、ただ男の、怒りで無様に歪んだ顔を穴が開くほどに見つめている。
 ついにナイフの先端が女の子の服に触れる。滑らかな質感の布に新たなしわがより、スカートの裾が小さく揺れた。
「……ッ!」
 その瞬間。飛んだのは赤い鮮血ではなかった。
 身をひねり、突き出されたシーマの右脚。腹に見事にそれを受けた男の体は、盛大にとは行かないまでも後ろに飛び、床に転がった。
「悪いけど、犯罪者相手だったら手加減はしないぞ」
 息も絶え絶えに腹を抱えて起き上がる男の方へ、ゆっくりと近づきながら言う。
「俺だってだてに四年間、移動願を出し続けてるわけじゃないんだ」
「い、移動願?」
 ナイフを握る手は震え、おびえきった声で尋ねながら後ずさる。
 なるほど、これは本当にただの大馬鹿だわ。
 小さなため息と共に納得すると、シーマは一気に歩幅を広げて男のすぐ目の前に立つ。
「う、うわあああ!」
 最後の抵抗だったのか、あるいは単に取り乱しただけか。
 男がナイフを大きく振り上げたその瞬間、握り締めたシーマの拳が男の腹にめり込み、力の抜けたその体はがっくりと崩れた。
 絨毯の上で軽い音を立てて、ナイフが床に落ちた。

「ああ、後でベルさんになんて言おう」
 全てが終わった後で、突然のしかかってきた憂鬱にため息をつく。
 辺りを見回しても、もはやそこに人影らしいものはほとんどなくなっていた。大抵は他の階に非難したか図書館から逃げ出したか。本棚の影などに隠れて様子を伺っていた者は、シーマと目があうと気まずそうに下を向き、そそくさとシーマの視界から逃げ出した。
「……そうだ、おい」
 ふと思い出して、女の子の方を振り返る。
 ナイフを持った男のまえに突っ立っているなど無謀にも程がある。
 文句を言ってやろうかとも思い口を開いたシーマの言葉は、そこで止まった。
「お前、怪我してんじゃねえか!」
 僅かにシーマの蹴撃が間に合わなかったのか、彼女の服には小さな穴が開き、紺色の布地の一箇所だけが黒く染まって見えた。
「ああ、これ?」
 当の彼女はといえば、そんなことなどまるで気にしていないとでも言わんばかりの口調でそういうと、自ら傷口に手をやる。
「大丈夫よ。ちょっと切っただけだもの」
 そういって自分の本を手に取ると、シーマに背を向ける。
 「じゃあ、またね」とだけ言って立ち去ろうとする彼女。その時シーマはとっさにその後を追うと、彼女の肩を捕まえて言った。
「馬鹿なこというな。来い」
「ちょ、ちょっと!」
 戸惑う彼女の手を引き、もう一方の手でなんとか机の上の本の山を抱えると、カウンターの方に猛然と歩いていく。
「なによあなた。仮にも女の子を相手にするにしては乱暴すぎるわよ」
「知るか。チビでけが人のくせに偉そうなこと言うな」
 口をへの字に曲げて言い返す。と、それまで文句を言いながらもおとなしくついてきていた彼女が立ち止り、彼女を捕まえていたシーマの左手を引っぱった。
「ん、どうし……」
「チビって言うな!」
 振り返ったシーマの顎を掌で突き上げる。
 突然の一撃にぶれる視界。
「……あれ?」
 戸惑う彼女の前で「うぐう……」と搾り出すような声を上げ、シーマは赤い絨毯の上に倒れた。
………
…………
……
「じゃ、気をつけて帰れよ」
 夕刻。ようやく騒ぎの後始末がすんだ図書館の玄関でシーマは言った。目の前に立つ女の子が来ているのは淡いブルーのワンピース。彼女がもともと着ていた服には穴が開いてしまったので、シーナが要らないといっていた服をもらったのだ。
「あの服はここの人が直しておいてくれるらしいから」
「うん」
 輝く夕日に目を細めてそう答える。その両腕には相変わらず、深緑の革表紙に金字の入った本が大事そうに抱えられていた。
「じゃあ、失礼します」
 どこか芝居がかった調子でそういって頭を下げると、踵を返して歩き出す。
 風にふかれて揺れる彼女の髪の先。
 ぼんやりとシーマがそれを見送っていると、不意に彼女が立ち止まった。
「……ルーサ・エルシアン」
「……は?」
「私の名前。ルーサ・エルシアン」
「はあ」
 背を向けたままで言う彼女に、首をかしげて間抜けな返事を返す。そんなシーナに呆れたのか、彼女は大袈裟に肩を落としてため息をつくと、再び歩き出す。
「明日も来るから、よろしくね」
 最後に、やはりシーマの方を振り返ることなくそれだけ言うと、ルーサはまばらになってきた通りの人ごみへと駆け出していった。