朝。
 通りに人があふれ始め、あちこちの店が開くころ。
 市場を少し入ったところにある裏通りを僕は走っていた。
 左手にはくすねてきたパンの束が入った紙袋を抱え、右手に持った食べかけのパンを乱暴に食いちぎる。ふと振り返れば、重たそうに突き出た腹を大いに波打たせ、必死になって追いかけてくるパン屋の主人が随分と後ろで何かを叫んでいた。
 盗み、人買いに人殺し。この辺りはどこまでも腐りきっている。いや、ここだけじゃない。まともなのはせいぜい表通りの方だけで、市場でも住宅地でも少し奥に入ればどこでもこんなものだ。
 金持ちは欲にまみれて私腹を肥やし、親に捨てられた子供達が道端にあふれる。その中から辛うじて生き延びるとある者は殺し屋になって食い扶持を稼ぎ、ある者は盗人になって毎日を食いつなぐ。自分より強い大人たちから逃げ回りながら、必死に毎日を生きるのだ。
 「人類皆平等なり」とはよく言ったもんだ。
 僕は思う。本当に大したお言葉だ。つまり平等とは、女を買ってぶくぶくと太る者と、必死に生きた挙句に暇つぶし程度に殺されるものとが共存することを言うのだろう。

 どれほど走ったのだろうか。パン屋の主人はとっくに諦めてもう追ってこない。隠れ家までもあと少しだ。そのとき人ごみの中でふと視線が釘付けになった。
 薄汚れた服を着て手首を括られた女達。また近くまで奴隷商人が着ていたのだろうか。年齢も身長もさまざまな彼女達が衛兵のような男二人に先導されて、順番に大きな門をくぐっていくところだった。
 その中に一人、僕の視線をひきつけて離さない少女がいた。
 年齢は僕と同じくらいだろうか。乾いた風にふかれて荒れた髪の毛。本当は雪のように白いのであろう肌は土色に汚れ、俯いた横顔に見えるすっと通った鼻筋が美しかった。
 かわいいな……
 思わずそんなことを考えて立ち尽くす。
 女奴隷の大半は男の欲望の掃き溜めだ。ちょっとくらい顔がいいのは当たり前。だが、今僕の心は、目の前にいる少女に一瞬で捕まれたまま逃れられずにいた。
 「おい次の奴、こっちだ」
 不意に衛兵の声がして、体の前で括られた少女の両手が引っぱられる。つんのめりながら引かれる彼女の行く先には、みたところこの屋敷の主人なのだろう、なんとも醜く肥え太った男が立っていた。
 品定めでもしているつもりだろうか、少女に顔を上げさせて、にやついてそれを覗き込みながら兄か衛兵と話している。
 離れろ!
 声には出さずに叫ぶ。どうしたわけか、妙に胸が痛かった。
 「うん、いいだろう。入れてくれ」
 ようやく満足したのか、男の手が少女の顎から離れる。
 衛兵に強引に手を引かれていく少女の頬を伝って、一粒の涙がしたたり落ちた。

 僕は走った。大声で叫びながら裏町を走り抜けた。そうするしかなかった。
 彼女を助けたい。門の中に消えていく背中を追いかけて、衛兵達の腕を振りほどいて、抱きかかえて連れ出したい。でも、出来ない。
 こっちは丸腰にパンを持った子供。向こうは装備を固めた大人二人。僕なんかが近づいていけば刺されて斬られて捨てられて、しまいだ。何も出来やしない。それだけの力が僕にはない。
 叫んだ。とにかく叫んで見慣れた道を駆け抜けた。途中道端で物乞いをしていたオヤジを蹴飛ばしても気にならなかった。ああ神様。あんたが本当にいるって言うなら、どうして僕らを愛してくれない?どうしてこうも突き放す?
 もちろん誰かが答えてくれるわけでもない。八つ当たりでもするかのようにパンに乱暴にかじりついて、僕は隠れ家の方へ走って行った。

 その日ほど気の乗らない食事は無かったように思う。一口食べるごとに、飲み込むごとに昼間の彼女が思い出される。今頃あの男は何をしているのだろう。脂汗の浮き出た顔で嫌がる彼女に頬ずりでもしているのだろうか。気味の悪い掌で彼女の体を撫で回しているのだろうか。
 我慢がならなかった。僕は立ち上がった。心当たりならある。この間までこの近くをねぐらにしていた奴が、簡単に盗める家をいくつか教えてくれた。そこで適当に武器は手に入れられるだろう。やるなら日が沈みきってからだ。まだ空はほんのりと紅い。
 廃材の隙間からのぞくオレンジ色の空をにらみつけながら、僕は手にしたパンをグッと握り締めた。

 夜の帳が下りきると、裏通りは一気に暗くなる。ゴミと石ころの地面はすっかり冷え切って、裸足に冷たさがしみてくる。
 待ってろよ……
 盗んできた剣の切先と地面が奏でる重苦しい音を聞きながら、名前どころか顔すらまだゆっくり見ていない少女の背中を思う。急ぐに越したことは無いというのに剣の重さが邪魔をして自慢の足までもが重い。ゆっくり、ゆっくりと坂を上っていくのはまるで自分の覚悟を試すかのようで、僕は思わず唾を飲み込んだ。
 「なん……」
 はっとして口を開く男の喉元めがけて力いっぱい剣を振るう。僅かな月明かりの下、宙に踊る衛兵の鮮血。とまってやることは無い。もう一人の腹にそのまま剣をつきたて、引き抜くと、よろめく男を蹴飛ばして門を飛び越えた。
 頼れるものは何もない。これほど大きな屋敷に盗みに入ったこともないし、屋敷の中にいるのはただ一人、あの少女を除いて皆敵だ。足音を忍ばせて、できるだけ人のいない廊下を通り、出会った奴は片っ端から切り捨てて、僕は一つの大きな扉の前に立っていた。
 ここだ。
 確証は無い。ためしに扉に耳を当ててみても何も聞こえない。一瞬のためらい。だが、何かに突き動かされるようにして僕はその扉を開け放った。
 「……!なんだ貴様は!」
 一瞬ぎょっとしたかとおもうと、僕の手にした剣に目を釘付けにして振るえる声で叫ぶ男の姿。その醜い裸体。鼻につく嫌なにおいと、ずるりと抜け落ちる悪意の塊。糸をひき、床に落ちる白と赤の粘液の先には……。
 僕は叫んだ。怒りと惜しみ。押さえきれない感情のままに両腕を振り上げて、逃げようとする男めがけて一閃、剣を振り下ろした。
 舞い上がる血しぶき。「あ、あ」と途切れる断末魔。ぴくぴくと震える男の手を踏みつけると、僕は少女の方へ目を向けた。
 「助けに来たよ」だったか。それとも「一緒に行こう」だったか。僕の口にしようとした言葉は一瞬で僕の頭から消えうせた。力なくその場に倒れていた彼女は、生気の感じられない瞳のままでへらへらと笑っていた。
 「おい!」
 あわてて駆け寄って彼女を助け起こす。だらんと力の抜けた首を支えてやり、その顔を覗き込んだ。
 「おい!しっかりしろよ!お……い」
 僕に向けられた彼女の顔は、そのとき確かに微笑んでいた。
 「うわあああ!」
 何かが僕の中で崩れ落ちた。せめてそのとき彼女が泣いてくれたら、あるいはうつろな表情のままでいてくれたら、僕は彼女を抱きしめてやる事が出来たのだろうか。ただそのときの彼女は微笑んでいて、僕は悲しみと哀れみと、恐怖もあったかもしれない。感情のままに手にした剣を彼女につきたてた。

 不思議とそのとき涙は出てこなかった。ひどく胸は痛んだけれど、視界はこれっぽっちも歪まなかった。
 ああ、腹、へったな……。
 ぼんやりとそんなことを考えて、僕はすっとその場から立ち上がった。