其之五拾六

……
………
……
「……じゃあね。何があったか知らないけどちゃんと話聞いてあげなさいよ。それも先輩の仕事なんだから」
「はいよ」
お茶のセットと適当につまめるものを母親から預かると、後ろを向いて答えながらそれを机の上におく。
「それとあんた。いい加減に机片付けたら?」
「はいはい」
「まったく……」
こちらにはまるで取り合う気のない息子の様子にため息をつきながら、徹の母は部屋を出て行った。
「……もういいぞ」
「ん……」
彼女が戻ってこないのを確認すると、布団の中にうずくまって隠れていた凛に合図を送る。
徹が抱きかかえて連れ帰った朋は、ひとまず風邪を引かないように風呂に入らせた。幸い状況を親も分かってくれたようで、特に何も言われることなく事は済ませられた。
(あの様子じゃもしかしたら凛のことも案外許してくれるか…?)
布団から這い出る凛の手を引いて立たせながら、ふっと考える。
最初はただの家出かとも思ったけど、もうすぐ一年経つところを見るとそういうわけではなさそうだし……。もしかしたら本当に……
「…どうかした?」
「ん、あ、いや…。何でもないよ」
心配そうに凛がかけた声で、ふっと徹の意識は現実に引き戻された。
(ま、とりあえずそっちは様子を見るか)

………
(どうしよう…)
独り、真っ暗闇の中、布団にくるまれて凛は思案をめぐらせていた。
ついに、「あの」少女がこんなにそばまでやってきた。雨に打たれて肩を震わせる、華奢で健気な少女を装って。
(徹に抱えられてるときのあの子……笑ってた…)
彼女が凛と二人きりのときに見せる、背筋の凍るような不適な微笑み。徹の肩に顔を隠しながら、確かに彼女はそれを浮かべていた。
何をされるのか分からない。まるで得体の知れない化け物の目の前に貼り付けにされているかのような、忘れかけていたもはや恐怖なのかも分からない感覚に、凛はブルブルっと肩を震わせた。

いっそ徹に言ってしまいたい。全てを打ち明けてでもあの少女の、どこまでももぐりこんでくる手からから護って欲しい。しかし……
(あの子……徹に『鎖』をつけていった…)
徹の背中に、こっそりと埋め込んだ魚の目ほどの大きさのモノ。それがある限りはもう……
「……もういいぞ」
「ん……」
(だめだ、やっぱり)
徹の差し出してくれる手をつかんで起き上がりながら、ふうっと息をついた。
(徹は…巻き込んじゃだめ)
何か考えているのだろうか、ぼおっと上を見ている徹のほうへ視線を流す。
「……どうかした?」
「ん、あ、いや…。何でもないよ」
ビクッとして手を振る徹にあいまいに微笑んでみせると、凛はうつむいて自分の足の先を見つめた。
少し前から水音はやんでいる。もうじきあの少女がこの部屋にやってくるのだろう。
それから先は……。
先の見えない恐怖に、もう一度凛は肩を震わせた。

「……」
風呂上りでまだぬれている髪に真新しいタオルをかけ、巴から凛へと下った服を着た朋を前に、徹も凛も何もしゃべらずにただまだ熱い茶を口へ運んだ。
「……」
うつむいたままでいる朋も自ずと口を開くことはなく、静かな部屋の中に暖かい茶の香りが満ちていた。
憎らしくも完璧な演技に、ベットに腰掛けた凛は時に不安そうに、また時ににらみつけるように眉をひそめていたが、そんな彼女を背中に朋と向き合って床に座り込む徹は、至って冷静な様子であった。
「ん」
突然、背中をチョンチョンっとつつかれて、徹が振り返った。
「どうかしたか?」
背後で落ち込んでいる朋に聞こえぬよう、極力声を潜めて凛に話しかける。
「あの、さ。このままずっと黙ってるつもり?」
「なに?間が持たない?」
「そうじゃないけど……」
(そうじゃない……こともないか)
きゅっと表情を険しくする凛には微塵も気付かずに、徹は頭をかいた。
「まあ見てろって。俺には俺なりの考えがあるんだよ」
そう得意げにつぶやいて徹がもう一度朋の方を向くと、二人の様子が気になったのか、いつの間にか顔を上げていた彼女と目が合った。
「あ……」
「……」
小さくつぶやく朋に、徹は相変わらずなにも答えない。そしてとうとう先に痺れを切らしたのも彼女の方だった。
「あ…あの、先輩…」
「ん?」
まるで大人が幼児にそうするように優しく尋ねられて、朋は一瞬うろたえた。
「その……なにも聞かないんですか?」
「……聞いて欲しいのか?」
思いもよらぬ問いに朋が黙り込む。それを見越したように湯飲みを置くと、ゆっくりと徹は話し始めた。
「もしそうなら俺は遠慮なく聞こう。だけど、もしお前がどうしようもなく話したいわけでもなく、『他人に聞いてもらう』っていう覚悟がないんなら止めておけ。そういうときに事の一部始終を口にするとそいつ自身にも聞いてるほうにもプラスにならないからな」
どういったあとで、お前はどうなんだ?ともう一度優しく尋ねてやると、朋は何か考え込むようにまた少しうつむき、そしてゆっくりと口を開いた。
「いえ、聞いてください。抱え込んでいるのが耐えられない……」
「よし!じゃあ話してみろ。全部きいてやる」
まるでその言葉を待っていたかのように徹は座りなおすと、ぐっと身体を前に乗り出した。
……
…………
………
「なあ、母さん……」
希望と諦めを半分ずつ胸に抱えながら、リビングでアイロンがけに精を出している母の背中に徹は話しかけた。
「なあに?話はついたの?」
「そのことなんだけど、さ」
気まずそうな息子の声に、アイロンを置いて振り返る。じっと目を見つめられて余計に話しにくくなるのを必死にこらえながら、徹は言葉を紡いだ。
「今ウチの家計に女の子一人分の生活費の余裕なんか……ある?」
「なに、どういうことよ」
「いや…実は……」
半ば混乱状態になりつつある母親を前に、自分ももう一度頭の中を整理しながら徹はその場に座り込んだ。
……
………
「そう…ずいぶんと大変だったのね」
「ん……みたい」
目の前でしんみりとつぶやく母親がこの後どう出るか、手に汗を握りながら徹は固唾を呑んだ。
朋が徹と凛に話したことは、徹が思っていたよりもずいぶんと酷な問題だった。
上丘の合格が決定した直後に事故で両親を亡くした彼女は、遠縁の親戚からの送金で生活していたという。その手の施設に入れられることがないように「親戚に引き取ってもらう」といいながらも、「上丘に行きたいから」とわがままをいってそのまま一人で暮らし始めた。
そもそも遺産云々ですこしは金があってもよさそうなのにそうでなかったのでうすうす感づいてはいたが、彼らにとって朋はただのお荷物だったようで。徐々に送金は少なくなり、ついに電気水道が止められた、と。
そこまでを淡々と語ると、朋は一度間を取って茶を飲み干した。
幸い上丘の授業料は中学、高校の3年間分ずつ納めるのでその点では問題なかったが、それでも何もない部屋で気がめいり、ふらふらと外へでたところで二人に出くわした、と。
「……その子は?」
「話し終わった途端に泣き出しちまって、今はり……部屋で寝てる」
「そう…」
あわてて言い直した徹にたいした気も払わず、くるっと身をひるがえしてアイロンを手に取った。
「いいわ……お父さんには私から言ってあげる。でも……一人分でいいの?」
「え?」
安堵もつかの間、唖然として問い返す。
「まさか未だに隠し通せてるとおもってるわけじゃないでしょうね?」
「ああ……はは…」
まるわかりよ、と言われてへなへなと肩の力が抜けていくのを感じた。
「……いつから?」
「はじめから。さあ、早くあの子達を呼んでらっしゃい」


「そういうわけで、朋ちゃんには巴と相部屋になってもらうわ。凛ちゃんは、悪いんだけど今までどおり徹の部屋に。」
「「はい」」
一見すればいつもどおりの凛と、まだどこか調子の戻らない朋がそろって返事をする。
「それでもまあ狭いマンションだもの、徹に何かされれば私たちの部屋にまるぎこえだから、心配はいらないだろうけど」
「だからしねーって…」
朋ちゃんは何か必要なものがあったら言って頂戴。こっちで用意するわ」
「すいません、いろいろと」
「いいのよ。気にしないで」
いつの間にかすっきりとかたのついてしまった話に凛は密かに眉をひそめた。
とうとう一つ屋根の下にまで近づいてきた、未知数の恐怖。自分の意思に関係なくじわじわと身体の中に入り込まれるような全身が総毛立つ感触に、今はただ、肩を震わせるしかなかった。
徹の母が前に出してきた紅茶のカップを持ち上げながら、目の前で徐々にいつもの笑顔を取り戻しつつある少女を静かに唇をかんで見つめていた。