其之五拾参

同日 午後9時00分

住宅街はすっかり静まり返り、夜闇の中に街灯がうっすらと輝く頃。どこにでもありふれたアパートの一室に明かりがともった。
よくある家庭用の蛍光灯に照らされたワンルームのアパートの中は、質素でとってつけたような観はあったものの整理が行き届いており、すっきりとして見栄えがよかった。
「ただいま〜」
「お帰り」
本当なら帰ってくるはずのない返事に、玄関に立つ人影の方がビクッと震えた。
「ずいぶんと遅かったな。散歩でもしてたのか?」
「さっとる〜!きてたの〜!?」
玄関と部屋との敷居に下げた暖簾を上げて顔を覗かせた智を見るなり、脱ぎかけだった靴を放り出して少女は彼に抱きついた。
「おおっ…!」
「来るなら連絡くらい頂戴よ〜」
突然のことに彼女を抱きしめたまま、仰向けに倒れる智を抱きしめ、その頬に自分の頬を擦り付ける。
「朋っ、おい朋!分かったから、離れてくれ」
「え〜」
不満そうに口を尖らせる朋を腹の上から下ろすと、自分も頭を押さえながらゆっくりと上体を起こす。
「……会うたびに真っ先に飛びついてくるのは止めろ」
「そんなこと言って〜、まんざらでもないくせに」
朋のからかいをスルーして立ち上がると、手近なところにあった椅子に腰掛ける。
「それで、どうだ?こっちは順調なのか?」
「う〜ん…どうかなあ……」
気まずそうに目をそらして頭を掻く。
「思ってた以上にターゲットが堅気な人でねえ。アレをいちいち落としてたら間に合わなくなっちゃうよ」
「……あの部分だけはどうあっても譲れないぞ?」
「大丈夫だよ」
二人の視線がすっと鋭くなった。
「ちゃんと別の手もあるから、さ」
……
…………
………
「た〜だいま〜」
両親は入浴を済まして就寝までの僅かな時間をテレビの前で過ごし、徹と凛は部屋の中。静けさの漂う春日宅の玄関で場違いに伸びきった声が響いた。
「……お帰りなさい」
巴の酒癖にはほとほと頭を痛めている両親の声がリビングの方で聞こえる。このまま声のするほうへ言ってもいいことは何もないことを理解している巴が、酔いながらも廊下をまっすぐに進んでいくことはなく、千鳥足でふらつきながら手についた戸を勢いよく開け放った。
「たっだいま〜」
「だあから!どうしていっつも真っ先に俺の部屋に来るんだよ!?」
文句を言う徹を完全に無視してずかずかと部屋の奥のベットの上に倒れこむ。
「お休みぃ〜」
「寝るな!」
「凛〜こっちおいで〜。添い寝しよ〜」
必死に布団から引き剥がそうとする徹をものともせずに、徹のノートパソコンを膝の上に広げている凛を声を潜めて引き寄せる。
「いいじゃないのよ〜。それくらい気にすることでもないでしょ?」
そばにつれてきて目の前に座らせた凛の首に片腕を絡めながら、もう一方の手でその長い髪を玩ぶ。当の凛はといえば特に気にしていないようで、上目遣いに巴の指先を見つめながらその体重を巴に預けていた。
「良い訳がないだろ。よって帰るなり弟のベットで寝る姉のどこが気にすることないんだよ」
「何よけち〜」
そういって口を尖らせながらも、遠慮など微塵も感じさせずに、凛を抱きしめたままで再び布団に倒れこむ。
「だあから……」
「だめですよ巴さん」
徹がもう一度文句を言おうとしたそのとき。巴の顎の下で凛が口を開いた。
「このまま寝たら風邪引いちゃいますよ。とりあえずお風呂入りましょう?」
「……それもそうね。よーし、じゃあ行くわよ〜」
「別にいいけど見つからないでくれよ」
「わーってるわよ〜」
頼りない返事にため息をつきながら、厄介な相手を追い払ってくれた凛にすまなそうに目で礼を言う。
凛も、「気にしないで」とでも言うように笑って首をかしげると、巴の背を押して部屋を出て行った。

「…ふぅ……」
一人きりになった部屋の中で、静かに徹はため息をついた。
「昨日までといい今といい……少しは物を考えろっての」
聞こえないのをいいことに、普段だったら口に出来ない不平をもらす。
(あ〜あ、今日は早く寝るかな〜。明日の練習でぶっ倒れそうだ)
「練習……」
その瞬間、ふっと記憶がフラッシュバックして、夕刻の記憶を映し出した。
(そういえば……)
なんで鷹峰はあの時……?そんな疑問が頭をよぎる。普通なら頼まれもしないのに後輩が先輩のところにタオルなど、徹たちのテニス部ではありえないことだ。それなのに……
『ちょっと先輩の顔を見に来ただけですから』
………
……マーク…されてる?
「まさかな」
ふっと浮かんだ幻想をかき消してつぶやく。
(俺はそんなに女受けいいほうじゃないし。なにか別なわけでもあるんだろ)
そう……なにか…
一つの問いにきれいな自己完結の形を与えると、徹はすうっと目を閉じた。
そして凛が二度目の入浴から帰ってきたときには、徹は床の上で寝息を立てていたという。

………
…………
……
「じゃあそっちは順調なんだね?」
「ああ。何も知らないあの女がよく動いてくれるからな」
アパートの玄関。身支度を整えた智と、それを見送る朋が言葉を交わしていた。
「あとは予定通りに連れて行って…」
「全てを終えて出発する」
うっすらと笑みを帯びた朋の視線と、相も変わらずキッと鋭い智の視線が絡み合う。
「……じゃあな。しっかりやれよ」
「うん、任せて」
「それと……」
玄関の戸をあけ、紡いだ言葉を途中で止めて智が立ち止まった。
「無理はしすぎるなよ」
「ハハッ!何言ってるの?僕が無理をするようなことじゃないじゃん」
「…そうだったな」
「でも……わかった」
静かに、微笑みながら告げる朋の声を聞くと、智はそっと戸を閉めて街灯の下に出て行った。