其之五拾

五月八日 午前7時55分

「ふぁ…、眠……」
朝の光をまんべんなく頬に感じながら、口をついてあふれるあくびを片手で抑えた。
ゴールデンウィークのあけた最初の月曜日。徹に限らず学校にはどこかのんびりとした空気が流れ、朝の眠気とも相まってあちこちであくびの音が聞こえていた。
(毎日相当遅くまで起きてたからなあ……)
睡眠不足から来る頭痛に頭を軽く押さえながら、昨日までの毎夜の様子を思い出す。
(ったく、毎晩毎晩人の部屋で好き勝手しやがって……、姉ちゃんと一緒にするなよな……)
普段夜更かしなど慣れっこになっている巴が、自分のスケールで夜遅くまで部屋に居座るため、この一週間徹と凛は2時過ぎまで付き合わされる羽目になった。まあ自分も少なからず手伝っていたとはいえ……
「キツ…」
(そういえば……)
少し前に分かれた凛も、必死にこらえてこそいるようだったが、どこか眠そうにしていた。きっと今日は仕事が手につかないだろう。
(あ〜あ……)
ふぁ…とまた大きなあくびをしようとした徹の肩に不意に何かが強くぶつかり、思わず前につんのめった。
「よっ、元気ないな!」
「……先生はずいぶんとお元気なようで。休み中に何人か『喰った』んですか?」
「バッ…!滅多なことを……」
瞬時に集まる周りの目線を気にしている芹山を置き去りにして、徹はさっさと前に歩いていく。
「おいおい。久々に会ったってのにそれはないだろ」
「…で?何か?」
あわてて追いかけてくる芹山にうんざりしながらも、ため息混じりに返事をしてやる。振り返ってよく見ると、一層相手の方が自分の数倍元気が良いのが手に取るように分かって不愉快だった。
「いや、な。テニス部の一年の鷹峰って子がいるだろ?」
「ああいるな。早速手出したのか?」
「ああ…いや。出そうとしたんだけど、な」
いまさらではあるが、こんな会話が当たり前に出来てしまうのが恐ろしい。こいつはよく教師なんかやってられるな、と、徹は回らない頭でぼんやりと考えた。
「なんつーか。いまいち反応がないんだよな」
「……普段モテまくってる先生には良い薬なんじゃないですかね?俺は人の失恋話を聞くほど出来た人間じゃないっすよ」
「そういってくれるなよ相棒」
誰が相棒だ、という言葉は喉にとどめて、階段を上る。
「これでもこんなに相手にされないのは初めてなんだぞ?少しは慰めくらいあってもいいだろうが」
「凛も相手にしてるようには思えなかったけど?」
「いや、あの子の場合は、その手のこと全般に興味がないって感じだろ?」
そんな子がどうしてお前に…と続く言葉は無視してドアのノブにかけた徹の手を、芹山が押しとどめて引き戻す。
「それにな、俺が気に食わないのはお前だ」
「は?」
「この休み中だけで、あの子がお前のところに3回も来てるそうじゃないか」
「ああ……」
(そういえば来てたな……)
確かにこの休みの間、朋はなんどか徹の家を訪ねてきていた。一度は家が意外と近かったから脅かしに、二度目は寝ぼけ眼でベランダに出たら外でこちらを見上げていて、三度目は親が出かけていて暇だから遊びに来た、とか。
「てーかお前はそんなことどうやって調べてるんだ」
「それは問題じゃないだろう」
(……そうか?)
「それよりも、どうしてお前はアレだけのことがあってそんなに平然としてるんだ」
「いや、どうしてって……べつにそんな取り立てて騒ぐことでもないだろ?」
ようやくさえてきた頭をこつこつと指でつつきながら、徹は肩をすくめた。
「かー!信じられんね」
「何が」
一方で大袈裟に首を振っている芹山を思い切りにらみつけてやる。
「お前なあ。凛ちゃんとの同棲生活で感覚狂ってるのかもしれないけど、男の先輩のところに女の後輩が尋ねてくるってのは普通なら一大事だぞ?」
「俺はお前みたいな趣味はないんだよ」
「どうだか。そんなこと言って、実は凛ちゃんのこと襲ったりしてないだろうな?」
「……」
「いって……。あ!おい、待てよ」
しれっと失礼なことを言ってのける芹山の額をはじいて教室に入る。あとから追いかけてくる芹山は、この際無視することにした。
同日 午後2時36分

「あ〜あ。ねっむいの」
放課後の廊下は生徒で満ち溢れている。そんな中、先輩後輩かまわず入り乱れる人の流れに流されながら、徹は眠そうに目をかいた。
(今日に限ってどいつもこいつも寝かせてくれないんだもんな。ただでさえ昨日の今日なのに……勘弁してくれよ)
早くも中一の中でまで(芹山先生にたてつく人として)有名になっているのか、こそこそとこちらを指差しながら話している見慣れない顔を軽く流しながら徹は歩いていた。
時たまこの手の手合いが「どうしてあの人にたてつけるのか」とか「どうしてあの人の行く手を妨げるのか」とか言うことをたずねてくるのだが……。徹は、その手の質問は全て無視することにしていた。そもそも、全校生徒の99.9パーセントが芹山の言うがままという事実自体が異常なのだ。果たして彼らはその部分を理解しているのだろうか?
「ま、どーでもいーけどねー」
肩をすくめてつぶやくと、いつのものように事務室の引き戸に手をかける。
「つぃ〜っす」
「あらいらっしゃい」
扉が開くとすぐに出迎えてくれる栗原……と…
「もうお昼からずっとあの調子。昨日の夜何かあったの?」
「いや、大したことは何も……」
探るようにたずねる栗原に軽く応えると、机の上にダウンしている凛をそっと揺り起こす。
「春日君ねえ。そういう答えかたをするときが一番怪しいのよ?」
「いや、勘弁してくださいよ、マジで。芹……どっかの犯罪者じゃないんですから」
思わず「芹山先生じゃ」といいかけ、あわてて誤魔化す。
「それはそれで凛ちゃんがかわいそうな気もするけど」
「あ゛〜…」
いい加減応えようがなくなってしまい適当にお茶を濁しすと、やっと目を覚ました凛を立たせる。
(やっぱ軽いな……)
「凛ちゃ〜ん。大丈夫?」
「あ……はい。なんとか……」
「ほら。お前の荷物」
まだ寝ぼけ眼でゆらゆらとゆれている凛にハンドバックを差し出すと、そっと後ろから背を押してやる。
「それじゃあ失礼します」
「はいはい。まあ色々あるんでしょうけどちゃんと寝かしてあげなさいよ?」
「色々ってなんですか、色々って」
何か勘違いしている栗原から逃げるように、足どりのおぼつかない凛の肩を支えながら徹は事務所の戸を閉めた。